「サイレント・クレヴァーズ」原田武夫 中央公論新社

朝日新聞の書評で興味を持って「サイレント・クレヴァーズ」なる書を読んだ。著者は外務省に勤務する1970年生まれの男性。ということは私の二つ下か。
私もこの書に言うところのクレヴァーズの世代である。自分の世代を特別に取り上げて持ち上げた世代論を初めて読んだ。誉められるのはお世辞でも悪くない気分ではある。俺ってそんなに偉かったのか。
部長の悪口はこの日記の主要な話題である。団塊の世代を敵視するのは我々の世代に共通のことらしいとこの本で知った。興味深かった。了見が狭いのは俺ばかりじゃないんだな。
ただ、我々の世代が躍進するために何をするかの提言として異業種間の交流会を提唱してあったのは些か腰砕けだった。芸がない。それこそ団塊の世代の得意イベントじゃないか。
団塊の世代に楯突く振りをして結局は同じ発想をする。反逆する振りをした恭順。ちょっと煙草を吸って本多勝一を読んでみせる生徒会長とか。こんな若い奴は外務省でも団塊の世代の首脳たちに受けが良いんだろうなと思う。骨のある奴とか言って出世するよ。次官になるかどうかはもう入省時点で決まってるんだろうけれど。

準夜に超未熟児を双子で

八つ当たりモード全開。
昨日の日中は暇でした。一個前の投稿は昨日書いたものです。こういう暇な日は定時で帰りたいなあと思ってましたが、会議があるというので8時近くまで居残っていました。あんまり生産性の高い日じゃ無かったねと思いつつ帰宅して、飯を食って一息ついてたら、超未熟児の分娩ですと呼び出しがありました。しかも双子で。
おい。
産科の病棟に行ってみたら、陣痛がつき始めたのはまだ私らが会議だといって居残っていた準夜はじめの時間帯じゃないですか。なんで陣痛がはじまった時点で一報入れないのだろう。超未熟児の双胎ってどれだけ入院後処置に手間が掛かるかわかってるの?お母さんは1人だろうけど子供は二人なのよ。新生児科スタッフの人数をどれだけ集められるかが赤ちゃんの一生を決めちゃうでしょう。もっと早ければ小児科医師は全員残ってたしNICU主任も副主任も居たのに。解散帰宅の後でおもむろに呼ばれてもねえ。主任を呼び戻して、医師も呼び戻して。あまりに段取りが悪い。
私らそんなに情報を回すのに気後れするような態度を取ってるかな。
昨日も張ってたんですけど雷がひどくて驚いた拍子でした、夕立が収まると収縮も落ち着いてました・・・確かにそんな話をしてたなそう言えば。うう・・・産科に任せきりにしないで、陣痛の気配があるのならさっさと日中の人手が厚いうちに帝王切開に踏み切って貰えばよかった。雷さえ止まれば・・って患者さんの子宮をスッポン扱いにしてはいかんわ。
準夜22時に超未熟児の双子の緊急帝王切開。各々に挿管してサーファクタント投与して静脈路をショートとロングの二本確保して動脈ラインも確保して。手首が大人の指より細い超未熟児の手足4本のうち3本に動脈なり静脈なりカテーテルが入ります。まあ臍動静脈カテーテルでなくて済んでよかったのですが。
でも血圧が落ち着かない・・・動脈圧波形が揃わない。この不揃いな波形は気にくわない。呼吸器の設定を探り、血液ガス分析だのソル・コーテフだアルブミンだイノバンだドブトレックスだと使い。手段を一つ繰り出すごとに赤ちゃんの様子をみてモニタの動きも見て。結局深夜も居残りでした。今日が水曜でよかった。半日で帰れました。

「街場の現代思想」内田樹 NTT出版

治療の困難な赤ちゃんの診療に、完治をめざして可能な限りの手段を尽くす積極的治療を行うかそれとも苦痛の緩和を優先する方針にするかといった治療方針の選択に関して、あるいはご両親の心情に対してどのように接するのがよいかという面に関して、「愛する家族ならばどうするかと考える」と、上司がよく言うのですが、果たしてこの図式が本当に真実をとらえるものなのかどうか、常々考えてきました。
 内田先生の最新刊である本書の最終章「想像力と倫理について」に、この疑問に関する重要な示唆がありました。
想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないのかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。
生命倫理の絡む判断は医師1人では行いません。複数の心で考えるのが暴走を防ぐポイントです。もうちょっと卑近なリスクヘッジの思想もあって、出来るだけ多くのスタッフの意見を聞きます。
出来るだけ多くのスタッフと言うのは医師ばかりではありません。多いのは圧倒的に看護師ですから、必然的に、看護師たちの意見を重要視することになります。朝夕の回診にちょろっと入ってくるだけの、NICU滞在時間平均10分/日の医師に何か聞くよりもよっぽど実のある議論になります。そもそも、親御さんと本当に腹の割った話をしているのは看護師たちですしね。
うちは看護職員も学生もキリスト教徒が多いです(看護学校の推薦入学枠はキリスト教徒であることが必要条件です)。彼女たちは赤ちゃんをあやす片手間に賛美歌を綺麗に三重唱できる面々です。その彼女たちの脳に「愛」という言葉が誘発する心象は、質と深度の双方において、一般の20代女子とは違うのではないかと思います。
彼女たちはほぼ全員が独身・子無しです(子持ちのナースでも夜勤が出来るようになってほしいよね)。対して医師たちは全員が子持ち。子持ち医師の中でも、私1人が障害児の親です。やっぱりね、自分の子は名門私立の小学校に通わせている医師が、重症の赤ちゃんの方針に関して「私なら自分の子がこの状態ならもう生きていてほしくない」なんて言うのを聞いたら、障害児の親としては意地になるわけですわ。障害が残るなら死んでしまえというのかってね。同じ「愛する家族」スキームを用いても既に医師内部で分裂していますね。
でもまあ、私らみんな、医療関係者としては一括りな訳で、共通して親御さんをお母さんあるいはお父さんと呼び、彼らを常に赤ちゃんとの関連でとらえて対応しているわけです。ですが、特に赤ちゃんが第1子である場合には、事実上、彼らが赤ちゃんの親として扱われるのはNICU内だけなのですね。親という立場は彼らにしてみれば数ある役割の中の一つでしかない。ちょうど、私のNICU内での役割があくまで新生児科医であって、私が自閉症児の親であるということは日常的には周辺スタッフの意識には上っていないように。その若い夫婦の意向が、必ずしも赤ちゃんを最優先にしているように見えなくとも、それは決して不自然なことではない。
彼らが親として扱われるNICUという環境がどのような環境であるか。四方に並ぶモニタ画面、人工呼吸器、保育器に鈴なりの輸液ポンプ。電子音。人工呼吸器の排気音。慣れない人にはNICUはアルカディア号やヤマトの艦橋あるいは999の機関車内部に見えるはずです。内実はそれほど高尚なものではなくて、せいぜい、大四畳半物語のぼろアパートの一室にテレビを複数台並べたという程度のものなんですが。でも、いきなりこの環境に放り込まれて何か重要な決断を迫られてもねえ、迫る私の姿がたぶんハーロックに見えるでしょうね。考え方が違うと認める相手の下船は許しても逃げるだけの臆病者には死をもって報いるってやつ。私が近視の三枚目だとまでは見て取れた親御さんでも、私を大山トチローと思っても「おいどん」だとは思ってはくれないでしょうね。一応九州男児だし一人称代名詞を「おいどん」で喋ることも抵抗はそがんはなかとばってんね。
「愛する家族」スキームを採用している自分達が共通して「医療関係者」という狭い業界の人間であるということ、そのスキームを採用している現場がNICUであるということ。そのような自分達を規定する特殊な背景要素は常に意識していなければならない。意識するためには、そのスキームを採用すれば必然的にそれを意識するような設計でスキームを作っておかなければならない。自分の愛する家族ならばと自分が考えてそれを患者さんの状況に代入するというのは、自分と患者さんがそれだけ均質な存在でなければならないのですが、まあ、その前に自分が他人とどれだけ違うかを考えるべきでしょうね。
とまあ、内田先生の受け売りでした。この話題今後も続けます。

かわいいと思ってよいのである

まだ息子が3歳の頃、当地の自閉症関連のメーリングリストで、さるお父さんの、「この子が可愛くてたまらない、この子に夢中である」との言葉を拝見しました。投稿の本題は他にあって、その最後についでのように書き添えてあったのですが、失礼ながら本題のほうは忘れてしまいました。
虚を衝かれた感がありました。「俺も息子を可愛いと思ってよいのだ」と初めて思いました。考えてみれば他人に許可を受ける話ではないのですけどね。その権利が自分にもあるのだと、言われるまで気付かなかったのです。可愛いとは思っても申し訳なくて世間様にはよう言わんと、なんとなく思っていました。
この子は変だの育て方が悪いだの、このままでは一人前にならんだの出来る限りのことをしてやれだのと散々言われていた時期でした。そりゃもう仰るとおりです不肖の息子で申し訳ありません責任は取らせて頂きますってもので、何かと追いつめられた気分ではありました。
他の立場から、自分の子だし可愛いだろうと言われてしまうと、発言の意図をつかみ損ねて、かえって身構えたかもしれません。同様の立場からのご発言であればこそ素直に受け止めることが出来たのだと思います。

画像の猫は

新入りです。よろしくです。にゃん黒おにいさんに遊んで貰ってます。お兄さん最近キャットフードの食べ過ぎで随分太ってます。ひところの渡辺徹さんみたいです。「太陽にほえろ」みたいに走り込んで貰わなければいけません。僕も頑張ります。
にゃん太郎お兄さんは全然遊んでくれません。ガキはうるさくて仕方ないなあと言いたげな目で僕を見てます。でもつい半年くらい前まではにゃん太郎お兄さんも僕みたいに暴れ回っていたそうです。僕はちゃあんと知ってます。今でも僕が新しい猫じゃらしを買って遊んでいただいてると、猫じゃらしに横から飛びついて来られます。まだ猫じゃらしに我慢できないんなら大人ぶらないで僕と遊んで欲しいと思います。

・・・・
娘が拾ってきた猫。娘の級友が登校途中に拾ったはいいが、やっぱり教室には持ち込めなくて、持てあまして小学校の隣の児童公園に放したらしい。娘が帰宅後にその話を妻にしたら、妻は、それじゃ子猫は死んでしまうよと娘を怒鳴り上げて、その足で娘と拾いに行ったとのこと。
当初は衰弱していて獣医に連れて行ったりとかけっこう散財した。子猫用のフードも最初はなかなか食べられなかったけれど、娘がフードを細かく砕いて与えたりしてなんとか持ち直した。
自宅が猫屋敷になるのもどうかと思うし、にゃん太郎やにゃん黒を引き取った経路であるネット上の里親捜し機構に申請するように妻には言うのだが、拾いに行くのは迅速だった癖に、写真を撮る暇が無いだのPTAが忙しいだのとぜんぜん里子に出す気配がない。娘もすっかりこの子猫をうちに置くつもりになっている。
これに味を占めて次々に捨て猫を拾ってくるようなことにならなければよいがと、それだけが気がかり。
猫は捨てないようにね。もし子猫が生まれても飼えないのなら、去勢なり避妊なりちゃんとするように。その手術代を払うのは飼い主の義務だと思います。子猫を捨てる罪悪感を回避するにはリーズナブルなコストだと思いますけどね。去勢代が払えないから生まれた子供を捨てることにするなんていうような道徳観の持ち主は動物を飼ってはいけません。

知恵を使った仕事をする

金曜日は午前中は一般病棟回診と処置・救急の担当。午後が一般外来。
一般病棟に入院中の腸炎の子は今日も渋り腹で不機嫌だ。しかしカルテの検温表をみたら昨日は昼食夕食とも主食10割副食3~5割を食べたと記録されている。この数字は今朝の病状からして納得できない。そんなに食べられた訳がない。
付き添いのお母さんに直接確認したら、お子さんが全然食べなかったのでお母さんが食べてしまったとのことだった。
食事の摂取量を記録する際には、食後に下膳カートに集まった食器をみて、食べ残しの分量から食べた分量を推定する。いちばん手っ取り早い方法ではあるのだが、小児患者相手にはこうして間違いの元になる。
世の中のお母さんはこどもの残飯を自分の胃袋に始末することが多いよとは若い未婚の看護師たちの一般的な発想のうちには無いことかもしれない。でもね、カルテを書くときには患者さんの顔を思い浮かべるものだよ。いくら、うちは混合病棟だし自分達は小児看護の専門じゃないとは思っていてもさ、この子が飯を全部平らげられる状態かどうか位は考えなきゃ。思いつきさえすれば、ちょっとお母さんに聞いてみれば解決じゃないか。
数字一つ書くのにも考えて書かなきゃということは時にあります。外来でも、0歳9ヶ月の子の体重をカルテに17kgと書いてきた看護師がありました。そりゃ3~4歳の体重じゃないかと思って確認したら、予診表にお母さんが体重を記載した数字が判読しにくくて縦棒が7の数字の本体から分離して見えたと言うことでした。まあ、体重はこまめに実測しなければとは思います。申告された体重を転記する場合でも、はたして1歳にもならん乳児の体重が17kgもあるものかどうかは考えなきゃいけません。本来7kgの子に17kgと思って処方を書いたらけっこう辛いことになります。まあ、処方書く前には診察もするわけで、目の前の乳児の体重が17kgですとカルテに書いてあったときにそれを丸飲みして17kgの処方を書くようでは医師の素養も疑われますが。

平穏無事のNICU

今日のうちのNICU看護スタッフは、一番下っ端でも経験5年目というとんでもない充実ぶりだった。人数も日勤6人。何とも贅沢。さるさる日記時代に看護師の層の薄さを嘆いたのが嘘のようだ。しかもこんな充実した日に新規入院もなし。午前の外来が終わった後は半日NICUでぼんやり座って本を読んでいただけの平穏な一日。入院中の子供たちみんなの病状が落ち着いているのはベテラン揃いの看護師たちが落ち着けてくれているのだろうけど。
産科では超未熟児の双胎の帝王切開をいつにするかと検討中。
できれば今日みたいな充実した日に出生してほしいなと思う。6人いたら超未熟児二人の入院時処置もけっこう楽に進む。楽だというのは大事なことだ。ゆとりがあるほど成功率が上がる。大人でも点滴失敗したら痛いでしょ。超未熟児は点滴失敗が重なると脳室内出血を起こしますからね。やっぱりベテランに介助していただいて処置をしたいです。一人の処置に掛かっている間はもう一人の子をしっかり落ち着けていてもらわなければならないし、日勤3人で二人は1年目なんていう、この3月までは実際にあったようなシフトの日に超未熟児二人の同時入院なんて到底不可能でした。
うちのNICUでは25週までは在胎週数と生存率がダイレクトに相関している。在胎週数と生存率のグラフを書いてみると、生存率は24週・25週で右肩上がりに急上昇し、26週からはほぼ8割9割以上となって上昇が緩やかになる。数字だけでものを言うならば、25週までは胎内での状況がどうあろうと妊娠継続してほしいが、26週以降は胎内環境が悪化したら程よいところで分娩に持ち込んでほしいと思う。
むろん、こんなエクセルのマクロで判断プログラムが書けるような単純なアルゴリズムでは分娩時期を決定することはありませんよ。もうちょっと色々と小難しいことも考えてます。感染の合併なんてのも大事な要素だし、双子だと体重差とかも考えるし、臍帯血流を超音波で診ることももちろんだし。
その「小難しいこと」の中には看護スタッフの充実度ってのも入るのがつらいところです。去年までは、NICU看護師の勤務表を主任と二人で睨んで、この日なら大丈夫だからと超未熟児の帝王切開予定をずらしてもらってたりしました。問題なしとは言えません。もっと巨大なNICUならこんな人的要素の変動もそれほど大きい影響は持たないはずです。日勤20人とか30人とかでやってるNICUなら日ごとの経験度のばらつきもそれほど大きくはならないはずです。
そんな半端なNICUでも今は業務を止めるわけにはいきません。京都の事情ではね。