文句を言うなと言われても

「都合」とはあまりに酷い言われようである。 続き
その後に述べられている一連のコメントは、私には、「医療側に問題があるのだからつべこべ言わず利用者の言うとおりに黙って診てろ」と言われているように感じられる。「日本の賃金形態にまで言及されているようですが」という捨て台詞には、侮蔑されていると感じる。
こんなことを言われて黙っていては、医療者がブログを書く意味が無くなるように思う。


己を顧みて恥ずべきところがある間は黙っているというあり方は、ブログ書きのお行儀としては適切かもしれないが、医療に携わるものの覚悟としては腰抜けというべきである。
現代の高度化した医療を無尽蔵に供給できるほどには、現代日本の経済は豊かではない。医療資源が有限であって、配分の問題がつきまとう限り、医療体制の内部問題は消失することはない。
Octさんが仰るハードの問題も、畢竟、お金が無いという問題に由来する。
NICUの病床には一床当たりの病室の面積も、看護師の人数も、基準が子細に定めてある。保育器を買い足して隙間に詰め込み看護師が無理してもう1人担当すれば済むという問題ではないのだ。
奇跡的な経済成長があり国民の医療費に関する意識も変わって、無尽蔵な国民医療費を手にすることが出来るまでは、私たちの言葉に耳を傾けることはないと仰るのだろうか。それは百年河清を待つという愚ではないだろうか。百年、満杯のNICUを、知ったことではないと無視し続けるおつもりか。
未熟児たちの生命をそれほど軽んじていただきたくはない。
医療資源は有限なのだ。他の資源と同じように。NICUはそう簡単な増床は不可能だ。独立空調の病室を拡張することも、医師や看護師を相当数雇用することも、保育器を買い足すことも、それなりのお金が掛かるのだ。払えばいいじゃないかって?無い金は払えない。それは心意気の問題ではなく純粋に経済の問題だ。無い金は払えない(実はようやく銀行が融資を出してくれて病棟が建て替わるのだが、それでもNICUの増床は3床だ。三つ子一件で吹っ飛んでしまう)。銀行が貸せるお金の額も、社会が負担できる医療費も、有限だ。
その現状認識から始めるべきではないだろうか。有限の医療資源をいかに使えば未熟児たちをより多く救えるのかという問題の立て方から始めるべきだ。無限の資源を使うのに知恵はいらない。有限の資源であればこそ、得られる成果を最大にするには、クールでクレヴァーな知恵に基づいた、負担と利益の緻密な分配が必要なのだ。
その分配に必要なのは、名刺の裏に書けるような単純明快で先験的なドグマではなく、緻密な費用対効果の計算である。関係者の各々の利益と負担がリーズナブルな均衡点でバランスしており、しかも得られる利益が総体として最高のものになるような、そういう落としどころを現状に基づいて地道に探していくことなのだ。真理公理ではなくて、あくまで落としどころなのである。それを探すのは複雑で地味だが知恵のいる仕事である。しかしこの仕事がないと、未熟児たちの幸せを最大にすることはできない。
私とて、不妊治療をご希望の患者さんにとって、治療の全放棄という負担はけっしていかなる利益ともリーズナブルには均衡しないということは、理解している。しかし、いくらか治療の開始時期をずらすことで、いざというときにNICUの空床が確保できないという可能性が減るのなら、それなら、あるいは均衡点があり得るかもしれないと、私は思う。開始時期をずらすことで実際の妊娠成立時期がどれくらいずれるのか、妊娠成立時期がどれくらい分散したらNICUの繁忙ピークがキャパシティを超える時期がどれくらい減るのか、そのあたりを解明することこそが自然科学・社会科学としての医学の仕事だ。その研究の所見に基づいて、実際の均衡点を決定するのは、これは患者さん側の専決事項である。極端な話、どういう研究成果を見ようと自分の意志は変わらぬ、何が何でも思ったとおりの時期に治療にかかるのだと、それを御追求になるのも、それはそれ患者さんのご自由だ。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中