選択肢の多様さとタフな交渉

従うしかないのか
しばらく頭が空っぽになったような実感があって、空になったところへ色々と本を読んで詰め込んでいました。ようやく、何か書けそうなところまで溜まってきました。書く材料とか資料とかの取材目的ばかりではなく、思念の塊みたいなものが頭の中にアモルファスに煮凝って膨れあがってくるのを待つ感じの、読書の日々を送ってました。(仕事もしてましたよ)。
で、思うに、
結局のところ、医療の安全性とか資源の最大有効活用とかを追求するのって、世間一般には金科玉条じゃないんだなと思うようになりました。医療を職業としない市民の皆様にとっては、そこそこ大事だと思う幾つかの事項の一つであって、アプリオリに大事にされて当然というほどの金科玉条ではない。


親御さんにとってはご自分のお子さんが助かるかどうかが第一であって、世間のお子さんたちができるだけ沢山助かるようにってのは優先順位が下がることなのだな、と思いました。思って最初は呆れ怒りましたが、その怒る自分のナイーブな感覚が気持ち悪くなりました。ナイーブってのは私が一番嫌う悪徳でして。悪徳というより、愚かさ、かな。自戒自戒。
総論的で漠然としてますけどね。
世間の子どもたちが出来るだけ効率よく安全な医療を享受できるような状況を作り出すことが、結局はわが子の医療をも良くするという、そういう風に考えるのが成熟した倫理だとは思います。でもそれはあくまで、自分の利益を合理的に最大限にするための交渉なのだと思うようになりました。医療の内部でも、たとえば母子保健と老人保健のどっちにどれだけ資源を使うのだと言い出した途端に、医療者内部で利害が対立し始めます。結局は、安全で効率よい新生児医療ってのも、当然のことと思っていたのは私のナイーブさの賜物であって、いやそれはもう疑いもなく大事なことだとは今でも思ってますけど、それをアプリオリに当然のこととまでは思ってない人に怒ったり批難したりするのはナイーブなことで。
歴史や地理や経済やといった局所的な条件を越えて対立条件をクリアに裁断できるような、しかも名刺の裏に書けるような正義の理念って、いろいろ候補は多そうだけど結局はあり得ない。
世界的にも局所的にも、正義ってのはタフな交渉のその時点での暫定的な結論なのだな。
ありふれた結論でした。もうちょっと格好良く決まると思ったのですが。

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