ブラックジャック

最近月曜7時はブラックジャックを観ることにしています。「犬夜叉」が途中で終わってしまったのですが、後番組が「ブラックジャック」では高橋留美子さんも文句は言えないと思います。
小学校2年生の娘も喜んで観ています。でも「これ友達もけっこう観てるんだよね。やっぱり名探偵コナンの前にあるからかな」などと戯けたことを言います。全く、最近の子どもは日本の古典に関する教養を欠いています。実に嘆かわしい。原作を買い込んできて読ませる必要があります。
昨日の物語は、事故死した寿司職人の両腕を、事故で両腕を失った相棒に移植するというものでした。原作と違って、ドナーとなる寿司職人は虫の息で自分の両腕を相棒に移植してくれと言い残して亡くなりました。何故原作を曲げるのだろうと思いましたが、考えてみれば、即死したドナーから遺族(妻)の希望で移植を行うという原作に忠実な物語では余計な紛糾を生みますね。

ガウン・帽子・イソジン含嗽・二足性・・・すべて廃止

当直明け。
夕方の会議で、NICUの院内感染防止の方策変更が最終決定された。
入室時のガウン(割烹着)着用廃止・帽子も廃止・イソジン含嗽も廃止・スリッパ履き替えも廃止。
大事なのは手指衛生のみ。速乾性アルコールゲルの手指擦り込みを中心として、手指衛生の徹底を行うこととなった。
これでNICUでの仕事がそうとう快適になる。
なんせ年中摂氏26度の環境である。暑い。通気の悪い服など一枚たりと余計には来たくない。真夏に3枚目の長袖上着を着せられ通気の悪い帽子をかぶらされているところを想像してください。
冬場に乾燥肌がきつくなってくると、NICUに小一時間もいると頭や背中が無数の細かな針で刺されているかのように痒くなってくる。堪らず帽子やガウンの下に手を入れてぼりぼり引っ掻いている。そのたびに爪の下にはびっしりと私の皮膚の常在菌が付着する。何のための帽子やガウンだか分からない。本当は掻いてはならないのだが(自分の首から上の皮膚には絶対触っちゃいけないし肘の高さから下に手を下ろしてもいけないのだと言われたことがある)痒いところを掻いてはいけないというのは拷問の初歩であると思う。
それでも院内感染予防のためだと思って毎冬我慢していたのだが、先だって招いた感染防止のコンサルタントには一笑に付された。なんだよ無駄だったのかよと思うと今年の痒さは格別である。我慢ならない。
さらに嬉しいのは手指衛生の方針変更である。
これまではポピドンヨード消毒剤入りの石けんで手を洗わされていた。
今年は速乾性アルコールローションを多用し、消毒剤入り石けんは極力遠慮している。そしたら今年の冬は手がすべすべである。これでさらにローションではなくてゲルになったら保湿はさらに万全である。嬉しいものだ。
毎年ひび割れた指にマイザー軟膏を泣きながら擦り込んでいたのは何だったのか。
毎冬、手荒れで皮膚がボロボロだった。毎朝毎夕の回診の入室時に一日2回手洗いすればいい偉い人たちと違って、私ら下々は処置のたびに一日数十回は手を洗う事になる。文献によれば集中治療室勤務の看護師ともなると1時間に40回も手を洗うことになるという調査すらある。手荒れでひび割れた皮膚にヨードを擦り込むというのは本当に拷問である。痛い。痛いからまともに手が洗えない。だって60度の湯で手を洗えと言われるより痛いよ。なんぼ洗ってもこんな傷だらけの手指から黄色ブドウ球菌なんて減らせるわけ無いやんとも思えて投げやりになってたし(って、そりゃ手洗いの意味無いじゃん)。

ICO

実はPS2で遊ぶのが趣味である。先だってICOをやり終えた。面白かった。
あのゲームの物語構造は、大人になりかけで体力的にはタフだがあんまり世界の構造が分かってない少年と、少年にエスコートされる年上の女性(少年に守られているようでいて実は少年よりも強かったりする:該当世界が抱える問題の核心を知っており、なにがしかの責任を感じている様子)が主人公。悪役は女性の母親で、この母親が物語世界の構造を決めている(いわば女王である)ため、悪役を殺した段階で世界が崩壊してしまう。少年には数多くの先輩が居て、みんな犠牲になっており、物語世界の構造を支える資にされてしまっている。
主人公の名前は決して星野鉄郎ではない。年上の女性はメーテルではない。でも物語の構造はまるっきり銀河鉄道999と同じ。なんかこう・・・これって俺ら成長しきれぬ半端男の心をそんなに惹き付ける物語構造なのだろうか。たしかに、まだ女の子よりも背が低いような少年の頃に、自分より頭一つ背の高い年上の少女と仲良かったりしたらと思うと、わくわくしないこともない。一方で、書いててかなり気持ちが悪い。今のそろそろ中年である私がそんなことを考えているという構図を自分で振り返れば尚のこと。
背の高さが象徴的だと思う。ICOは少女よりも頭一つ背が低いので子どもの無知故の無鉄砲さも許容されるような気がしたのだが、成人女性よりも背が高くなってしまった時期からは、女性を守っていると自分では思っているけれど実はその女性の掌の上にいるという構図があまり微笑ましいものではなくなる。(私ならさしずめ中学3年の夏休みだろうか:それまではチビだったのに一気にクラスの男子女子大半の背丈を追い抜いてしまった)。
宮部みゆきがノベライズした小説では、女性の父親(悪役の夫)まで登場して女性の心の支えになっている(無論悪役である妻に殺されている。さすがに女性のペンダントに封じ込められていたりはしないが)。こりゃあ松本先生に幾らか払うべきなんじゃないかとさえ思った。ただ、ゲームをやってからこの小説を読むと、プロの小説家が執筆するときにどこを膨らませどこを削るかということの勉強になりそうな気がした。ノベライズの上手下手の違いはプロの小説と子どもの作文の違いだと思った。
ゲームに関して。鎖にぶら下がって丸ボタンを押しながら左スティックを動かすと鎖を揺らすことが出来る。左スティックで移動しながら丸ボタンを押すと抱えている荷物を投げることが出来る。舞台の各所に置かれた箱は押すだけでなく引っ張ることも出来る(ついでに水に入れると浮く)。いずれも、私はしばらく分からなかったので書き留めておく。それと、視点が自動的に動くが、ジャンプしている最中に視点が移動して目的地の足場が突然逃げることがある。そんなことでゲームオーバーになってしまうのはあんまりだと思う。私が下手なだけかも知れないが。
自分より背の高い少女と手を繋いでエスコートしながら世界を走る爽快感というのが売りらしい。コントローラの設定をオンにしておくと手を繋いだときにぶるっとコントローラが震える。これがけっこう心に響くと、アマゾンだったかのレビューで書いてあった。でも、この振動モードをオンにしておくと高所から転落して最終的に身体が潰れるときのぐしゃっという手応えもコントローラから伝わってきてグロいので私はオフにしておいた。

なぜ今日は休みなのか

「勤労感謝の日」でしたっけ。でも、どうして日曜祝日に医療機関はそろって休むのだろう。
水曜を休診にして日曜を通常診療でやればすげえ流行る病院にならんかな。
日曜を通常診療にしてしまうと日曜日の受診に割り増しを頂けなくなるのはそんなデメリットだろうか。
余所が休んでるときにがんばって診療してたら平日の受診も多くなるような気がするが。
いや、混合診療とか、株式会社の参入とか、いろいろ医療に市場経済の導入云々言われてて、医師会は株式会社が参入してきたらとんでもない儲け主義病院が乱立するとか言ってますけどね。
たとえば大規模なスーパーマーケットが旧来の商店街の近隣に開店しようとしているときに、その商店街の店が一律に日曜祝日をそろって休んでたりしたら、反対運動にはあんまりお客さんの支持を得られないんじゃないかなって思います。
商売には取引先にあわせて休まないと能率の上がらない商売もあるんだろうけど、別に日曜祝日だから病気が悪くならないってわけでもないんだし。君は火曜休み、君は水曜休み、とか相談して休診の日をばらしてしまえば、けっこう便利なんじゃないかなと思います。俺はもう借金も返したしリタイア間近だから日曜祝日休みでいいやって人は日曜祝日に休めばよいのだし。

衝突

またも中1日で当直。今日は当直明けで、明日また当直に入る。
だから当直は中継ぎじゃなくて先発完投なんだってば。起用法間違えてない?くたびれたら誰かリリーフしてくれるの?
朝から救急外来で救急車の対応をしていたら、搬入直後、まだ隊員からの申し送りも済まないうちに、市内の産科から新生児搬送の依頼が入る。早朝で眠かったこともあって一瞬頭が真っ白になる。どうしろというのだ?搬送されてきた子と赤ちゃんとどっちか一人に決めろってか?
本来ならば救急外来はあくまでも余録であり、新生児集中治療が本筋である。だって私の当直はあくまでNICU当直であり、予算は全て新生児集中治療室からでているものだから。この2件の連絡が逆順だったら迷いはしない。新生児搬送準備を開始しつつ(って搬送用保育器のコンセントを抜くくらいしか必要ないが)、事務当直に言ってしばらく救急受入を止めておく。救急隊には第2日赤なり大学病院なり(ちょっと遠いが)第1日赤なりどこか別へ搬送して貰う。
しかし搬入してきた救急隊員に「急に忙しくなったからどこか他へ行け」とは言えない。とりあえず依頼元の産科の先生に、迎えには行けないからと事情を説明して、うちまでの搬入を依頼元の方で手配して頂く。搬入元での処置が適切だったこともあり、赤ちゃんは無事。しばらく入院はいるけれど、実質的には山を越えた後の経過観察だけである。また救急隊がはじめに連れてきた子も、むろん「タクシー代わり」ではなくきちんとした理由があっての救急要請であったが、結果としては無事であった。よかった。
それにしても、いつまで、こんなふうに、一般小児科救急を新生児におんぶしていく気なのだろう。綱渡りは辞めたいものだ。
6人の未熟児たちが、果敢にも政令指定都市の1行政区の小児救急を支えている。
たぶん全国にそのような地域はたくさんあるのだろう。NICU加算で予算を確保して小児救急を続けている土地が。何と言っても、小児救急には新生児集中治療ほどの予算が与えられていない。うちの病院が小児救急を辞退してしまえば矛盾が無くなって良いというたぐいの話ではない。

例年の鉄道研究会へ

京大11月祭の鉄道研究会の展示を見に行く。教室一杯の広さのジオラマを鉄道模型が走るのだから子供たちが喜ぶ。昔は息子のほうが「てっちゃん」だったのだが、最近は娘の方が目を輝かせて模型を見入るようになった。
そう言えば最近大学に来ていないなと思う。教養部の建物がほとんど建て替わっていたのを知らなかった。東大路を百万遍以南へ南下することって滅多にないし、あるとしたら新生児搬送で救急車に乗ってるときだから大学の塀の中まで見てる暇はない。
ひたすら自分の興味の赴くままに本を読める(しかも大学図書館への入館許可証も持っている)学生たちが羨ましくてならず、毎年、来るたびにすこし不機嫌になる。6年間も居たのだから、それでやり足りないことがあったにしてもそれ以上時間を潰したって何ができるというわけでもなかったのだが。でもまあ大学図書館にはもうすこし入り浸っても良かったかなと思う。
カレーハウス久留味(漢字はこうだったかな)がいつごろ店を閉じられたのか、どなたかご存じの方おられましたらご教示願えませんでしょうか。

医師の適性は「リスクを取る」能力と意思に尽きる

医師としての適性
私自身が周囲の医師を仕事の仲間と認めるかどうかは、「リスクを取るかどうか」ということに尽きる。
現時点でどれだけのリスクを取る能力があるか。どれだけのリスクをとる覚悟があるか。今後どれだけリスクを取ろうと志しているか。この現在将来をトータルしての「リスクの取り方」の高低のどこかに、仲間の内外を分ける境界線がある。

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医師としての適性

「医師としての適性」がよく話題になる。昨日から、当直の合間に、それを巡る議論(医学生の書いたブログ記事を巡ってお前なんか適性ないから医者になるなと言う罵倒が投げかけられたもの)を読んでいた。
 一般的にも論じられるし、このブログも私自身の医師としての適性の検討を主要なテーマの一つとしている(実はそうだったのですよ)。胆力というのも、あるいは、その適性のうちかもしれない。
 しかし、医師ってそんな大層なものかとも思う。
 誤解しないで頂きたい。どんな愚か者でも医師がつとまると主張したいわけではない。他の職業だってそれほど甘くないでしょうと言いたいのだ。つまり、こう問いたいのである。
「あなたのご職業は、医者がつとまらなかった人間でもやっていけるお仕事ですか?」
 無前提にイエスと答える人が果たしてどれくらいおられるだろう。皆が皆ノーと仰る訳でもなかろうが(寛容な人も世の中にはおられることだろうし)しかし、大抵の方は、イエスと仰って頂くにも一瞬の躊躇はあるのではないかと思う。いかにも適性を欠いた医者を一人思い浮かべて頂きたい。そして、ご自身の職業が、彼または彼女に勤まるかどうか、ご一考頂きたい。
「舐めるな」というのが一般的な御意見ではなかろうか。
 私には、医者が勤まらない人間が他の職業で大成できるとは、にわかには考えがたい。
 むろん、挫折の後でご苦労されて他の道で大成された方も居られるだろうから、一概に全否定はしない。
 ただ、実感としては、「医者も勤まらない人間に何が出来るの?」というのが偽らざるところである。医師不適格とされるような人に、他に適した職業があるとは思えないのである。私自身にしても、医師の適性が豊かだとは決して思っていないのだが、他に出来る仕事がありそうにないので、医師の末席を汚させて頂いている。医者は無理だけどこれなら出来ますなんて今の私に言われたら該当の職業の人に大変に失礼なようにも思う。
「医師としての適性」が問題とされる文脈で、問題とされている「適性」は、基礎学力とか徹夜に耐える体力とかではなくて、もっと人格の根源に由来する種々の事柄だと思う。
おそらく「医師としての適性」の無さを指摘されるのは、人格に欠陥があると指摘されるに等しい打撃だと思う。例えば音痴だからピアノの調律師の適性はないよと言われるのとは意味合いが違うと思う。適性に欠けるから医師以外の仕事を探せと勧告されるのは、勧告される当人にとって医師以外に適職があるはずだからというよりも、これ以上周囲に迷惑を掛けないよう医師だけは辞めてくれと言う懇請である場合が多いのだろうと思う。
しかしこの「医師としての適性」として要請される種々の要素とは、恐らくは他の職業でも必須とされる項目ではないかと思う。それを備えていないと他の職業でも到底やっていけないとか、それを備えていれば医者でも大成するけれど他の職業でも立派にやっていけますとか。多分、適性を欠くとして医師を辞めた人間に、他で再起する道はかなり細いのではないかと思う。
 こう考えてきたら、医者って凄い仕事だなとも思えてきた。他の職業と全く同等に。大層なものか?という前言はある意味不完全な考えのようだ。撤回しては話の発端が分からなくなるので、まあ、発句として消さずに置くことにする。
 

秋の京都を新生児搬送

紅葉のシーズンだそうで今日の新生児搬送も渋滞を縫っての走行となった。中央分離帯の上を走るとがたがた揺れていやなんだけどな。観光で成り立っている町だから京都で新生児医療なんかやってるとこういう目にも遭うんだろうね。それほどの足止めにはならなかったのが何より。
例によって黒詰め襟のお上りさんが横断歩道の途中でサイレンに驚いて5人ほど立ちつくしてるし。都にはいろいろなものがあるのだよ。救急車とか。はじめて見たの?
観光バスを避けるってのも結構大変なんだけど。あれは何台も連なって走るし。でも何百人だかの修学旅行生を、公共交通機関使って観光してこいとか言って放逐するのも、けっこう迷惑だったりする。銀閣から金閣まで一直線の市バス204系統とか、修学旅行生が大挙して乗ってくると地元民は押し出されてしまうんだ。MKタクシーとかを一日借り切って貰うのが結局は一番早くて安いかも知れない。
まあ、かつては京都へ修学旅行に来た身だしね。そのときは古都税騒動で銀閣も金閣も拝観停止だった。歴史的にも珍しいものを見せて頂いた。しかも夏の暑い盛りの京都で。まさかあの時は後々この町に住むとは思いもしなかった。やっぱ京都観光のはずなのに自由行動で伊賀上野くんだりまで忍者屋敷見物に出かけた罰が当たったかな。

胆力について

おたくじみたコンピュータ談義で今日の本題を忘れるところだった。
内田樹先生の著書やブログで「胆力」についてたびたび拝読してきた。例えば「内田樹の研究室:ゼミが始まったのだが・・・(2004年04月21日)」には下記の記載がある。

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだんどおりのこと」ができるかどうかを自己点検した。
まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。
別にこれは「次ぎにいつご飯が食べられるか分からないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。
状況がじたばたしてきたときに、「ふだんどおりのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。
人間は、自分のそのような能力を点検し、磨き上げるために「危機的な状況」をむしろ積極的に「利用」してきたのである。

「ふだんどおりのこと」をしようとしたときに、その「ふだん」の行動を決める新生児科医というフレームワークがあんまりものを語ってくれなかったので予想外に狼狽えたのだが、しかし考えてみれば、あの場面では日本中の新生児科医誰でも一様に私のように言葉を失って黙り込むと言い切れるだろうか。
以外と、「肝の据わった」新生児科医ならそれなりの落ち着いた対応ができたのではないか?それがどのような言動になって現れるのか私には想像もつかないのが情けないが。

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