せめて泣く時間をくれ

1年あまり主治医をしてきた子が、自宅で突然死してしまった。最寄りの病院に救急搬送されたので最後に会うこともできなかった。


生まれたその日から主治医になって1年あまり。
生後数日で逝かれるのも辛いけど、長いこと診てきた子が突然逝くのも辛い。
朝、出勤してみるとその子の訃報が入っていた。突然死にて警察の対応にも追われた。
警察の関心は虐待死ではないかとの一点に集中していたが、しかし私と話した刑事さんは心証として虐待なしと判断して下さっていたようだった。突然亡くなった子どもを気の毒がり、自分達警察が関わらねばならないことをまた気の毒がり、と、とことん気の毒がっておられた。よい刑事さんに当たった。皮肉な良縁ではあるが。
 たびたび入る警察からの電話に答えながらも、外来診療をして、解熱剤やら鎮咳剤やら処方しなければならなかった。その日常と非日常の落差がこたえた。誰か代わってくれよとは思ったけれど、この子の死に衝撃を受けた人間がみな仕事の手を麻痺させたら病院の機能のかなりの部分が止まってしまうだろう。みんなに愛されていた子だったから。
 こたえた、ったって、悲しんでばかり居られる立場ではない。私はむしろこの死を予期できなかったか予防できなかったかと考える立場にある。詳細はここで述べることは出来ないが、結果を言えば予期はするべきであった。少なくとも予期しなかった事態の直撃を受けて狼狽えるのは迂闊なことと言わねばならない。予防が完全に出来たかどうかはわからない。ある確率で生じる事態ではあった。その確率を最低限まで抑えることができていたかどうか。この子の死は私の責任で防ぎ得た死ではないのか?
 日常の業務を続けるために、心を冷やす。心理的な痛み辛みを感じないようにする術は知っている。1年あまり診てきた子が突然亡くなった朝に、笑顔で外来をして風邪薬の処方をするくらいには、私は無感動になれる。泣いて悲しんで感情を表に出してという緩衝を置くことなく、悲しんでいるのは他人であるような顔をして、悲しむ心の部分を単純に切り離して、日常業務を続けた。
 人間として凄く間違ったことをしているように思う。多分、私は自分の親や妻や子が死んだとの知らせを受けても、その日の外来を仕舞いまでやり終えて、定時に平然とタイムカードを押して帰るのだろうと思う。
 魂がすり減っていくのが分かった。診察室を出て行かれる患者さんに「お大事に」と送り出すたび、まるで着陸脚を出さずに飛行機を胴体着陸させるように、私の魂がごりごりと削れているのが分かった。
 せめて長年診てきた患者さんが亡くなったときには、泣く時間が欲しい。ご両親の元へ駆けつける時間が欲しい。贅沢な要求だとは分かっているけれど。

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