胆力について

おたくじみたコンピュータ談義で今日の本題を忘れるところだった。
内田樹先生の著書やブログで「胆力」についてたびたび拝読してきた。例えば「内田樹の研究室:ゼミが始まったのだが・・・(2004年04月21日)」には下記の記載がある。

古来、胆力のある人間は、危機に臨んだとき、まず「ふだんどおりのこと」ができるかどうかを自己点検した。
まずご飯を食べるとか、とりあえず昼寝をするとか、ね。
別にこれは「次ぎにいつご飯が食べられるか分からないから、食べだめをしておく」とかそういう実利的な理由によるのではない。
状況がじたばたしてきたときに、「ふだんどおりのこと」をするためには、状況といっしょにじたばたするよりもはるかに多くの配慮と節度と感受性が必要だからである。
人間は、自分のそのような能力を点検し、磨き上げるために「危機的な状況」をむしろ積極的に「利用」してきたのである。

「ふだんどおりのこと」をしようとしたときに、その「ふだん」の行動を決める新生児科医というフレームワークがあんまりものを語ってくれなかったので予想外に狼狽えたのだが、しかし考えてみれば、あの場面では日本中の新生児科医誰でも一様に私のように言葉を失って黙り込むと言い切れるだろうか。
以外と、「肝の据わった」新生児科医ならそれなりの落ち着いた対応ができたのではないか?それがどのような言動になって現れるのか私には想像もつかないのが情けないが。

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音楽を聴きながら原稿が書けるか

ここで論じているのは私の脳の出来映えではありません。
コンピュータのOSの話です。
WindowsXPで音楽を聴きながら原稿を書こうとしました。音楽はどちらかと言えば遮音の目的です。騒音よりはまだ好きな音楽を聴いていたいというもので。
ですが、この単純な作業がWindowsXPには無理なんですね。ハードディスク内のWMAの音源をWindows Media Playerで再生しつつ、モジラでブログの原稿を書く。そんな無理なことをさせてるとは思えないのだけど、キー入力が重くてしかたない。入力してから画面に反映されるまでのごく僅かな時間なのですが、そのコンマ数秒だかコンマゼロ数秒だかの短い時間が重さとして返ってきます。時にはモジラの画面全体がフラッシュしたりします。このまま原稿を消されるかと不安になったりしました。
今はLinuxで書いています。Turbo Media PlayerでMiles Davis の”Wednesday Miles”を聴いてます。聴きつつモジラで原稿書いてます。かな漢字変換はAtok for Linuxです。もとより同じハードウェアでデュアルブート(電源を入れたら数あるOSのうちからWindowsかLinuxか選べというメニュー画面が出る)で使ってますのでハンディキャップは不当ではないはずです。
やっぱりLinuxに戻るべきでしょうか。昔はLinux使ってたのですけど、最近の学会発表は露骨にパワーポイントを使えと指定してきますからね。NICUの入院統計はファイルメーカープロのテンプレートを配布して来よるし。