医師の適性は「リスクを取る」能力と意思に尽きる

医師としての適性
私自身が周囲の医師を仕事の仲間と認めるかどうかは、「リスクを取るかどうか」ということに尽きる。
現時点でどれだけのリスクを取る能力があるか。どれだけのリスクをとる覚悟があるか。今後どれだけリスクを取ろうと志しているか。この現在将来をトータルしての「リスクの取り方」の高低のどこかに、仲間の内外を分ける境界線がある。


リスクは「負う」ものではない。敢えて自分の意思で「取る」ものである。その観点でこの文章では「リスクを取る」という表現を使わせて頂く。お耳触りはご容赦願いたい。
臨床では、自分の責任で判断し実行する仕事の、1ステップごとにリスクを取ることになる。別に無謀で冒険的な医療行為だけがリスクをはらむわけではない。仕事の内容で多寡はあるが、リスクのない医療行為はない。リスク無さげな行為に見えても、単に他に転嫁しているだけである。

例によって内田先生の受け売りではある。かの日記のどこで読んだのだか、今回は検索しても見つけられなかった。でも内田先生が仰り、私も全くその通りだと思うのだが、人は自らリスクを取って行動した結果でないと成長の糧にできない。自分ではリスクを取らない「お勤め」では人は成長できないのである。(内田先生はたしか「ビジネス」と「レイバー」という言葉を使い分けてこの概念を説明しておられた。レイバーでは人は成長しないと。)

能力のある人は能力に応じて多くのリスクを取り、多くの仕事をし、自分も大きく成長し、他からも多くの尊敬を受ける。逆に能力がなければ取れるリスクの高も知れ、それなりの尊敬しか受けられない。成長の幅も知れている。
まだ駆け出しだったら少ないリスクしかとれない。当然、現時点ではそれほどの尊敬は受けられない。それが研修医の置かれる立場である。でも、僅かなことでも自分の責任で動けば、自らリスクを取った行動が成果を生むことで、最初は少しずつだが、成長して行く。
その僅かな成長を着実に進めていく意思を見せる人なら、たとえ今は駆け出しの研修医でも、私は敢えて仲間と呼び仕事を任せたい。どれだけの仕事を任せるかは任せる私が判断することである。私自身がここでリスクを取ることになる。そして任せた駆け出し君がその仕事をやり遂げることで、私もまた成長する。私にとっては、大抵の仕事は自分で抱え込めばリスクを回避できるのだろうけど、そのリスクの無さに安住していては私はいつまでも下っ端根性を離脱できない。つまりは私にも成長がないのだ。彼の成長と自分の成長が直接にリンクしているような相手を、仕事仲間と言わず何と呼ぶのか。
逆にリスクを回避できる正当な理由もないのにリスクを取らない人を仲間とは呼べない。年季云々は関係ない。例えば自分が担当しない患者について「助言」をすることはリスク無しに可能である。その助言を実行するかしないかの判断に絡むリスクを主治医に押しつけることが可能だから。自らは主治医の業務をせず「助言」しかしようとしない人は(驚いたことにこの業界ではそんな狡い立場が取れるんですよ)、あくまでも、「協力者」でしかない。そりゃあもう協力者でも多ければ多いに越したことはない。敵ではないんだから。でも、病院に雇用できる人数が限られている以上、協力者のスタンスしか取らない人にいつまでも「仲間」が占めるべきポストを占有されたくはない。リスクを取らない奴は辞めろってことだ。
医師の適性については他にも色々と観点はあるだろうけど、全て二次的なことだ。リスクを取る能力と意思につながらないものは、いかなる美徳であれ、余技に過ぎない。ゴルフが上手いのと同列だ。

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