看護師さんの仕事は途切れない

この子はいよいよ救命不可能だと、診断をつけてしまった後、気がついてみるとその子の保育器のそばに自分は足を運ばなくなっている。かつては徹夜で張り付いていた事もあった子の、保育器のそばに行かなくなっている。
これはどうしたことか。我ながら不甲斐ない。


行っても手持ち無沙汰。何もする事がないやと思ってしまう。もう救えない。
ベッドサイドで赤ちゃんに私がする処置には多少なりとも苦痛がつきまとう。採血一回の痛みを我慢するに値するほどの対価すら、私にはこの子に与えられない。この子の保育器の手窓を開ける正当な理由を、新生児科医という私の職務はもはや提供してくれない。
逃げ出すのは不甲斐ないと、せめて見守っていようと、保育器のそばに強引に足を止めていても、ふと気がつくと自分の目は赤ちゃん自身ではなくモニタの心電図や血圧の波形を見ている。赤ちゃんと対話する勇気すらない。そして、早く終わらせてやってくれと心の隅で念じているのに気付く。醜いものだな畜生と自嘲する。この子を生かそうと決意した一人の中に、自分も加わっていたくせに、その責任も忘れたかのように。
例えばけいれんしているとか、どこか出血してきたとか、本人に苦痛があったりご家族の傷心を増すような症状があったりしたら、むしろそれに飛びつくように処置を始める。でもそういう処置もそう長い時間はかからない。あるいは、泥沼のように時間をかけても末期の身体にはいっこうに治療に反応する力もなく、渋々とそういう逃避的処置(逃避的ってのはあくまで私の動機に関して)からも撤退せざるをえない事すらある。
新生児科の医者はみんなこんな風に不甲斐ないものだろうかと思う。その場から逃げ出してこの子が逝くまでどこかへ隠れていられるものならと思う。ここで逃げたらもうNICUに私の居場所はなくなるのだからと、今さら他に食い扶持を探す度胸も甲斐性もない私は逃げ出すほどの勇敢さもない。
看護師たちはそういう子に、そしてご面会にお出での親御さんに付き添っている。淡々と赤ちゃんの身の回りのお世話を続け、親御さんと時に談笑し、赤ちゃんの写真をとって渡している。重態で見た目に決して快いものではない赤ちゃんの顔も彼女らが撮ると笑みが浮かんでいるようにさえ見えて不思議なものだと思う。数日足らずの赤ちゃんの生涯に、お母さんと談笑できるほどの思い出を見つけているのには感服する。
彼女たちの仕事は、私が救命不可能を告げた後もまるで変わらないようにすら見える。おそらく死は彼女たちにとっては負けではないのだろうと思う。死が負けではないというのは彼女たちにとっては極く自然なことなのかもしれない。勝ちとか負けとかいう分類も彼女たちにとっては些細なことなのかもしれない。
私にとっては赤ちゃんの死は究極的な敗北である。なにかこう、赤ちゃんの死を負けではないと言ってしまうと、仕事に二重の基準を抱え込むような気がする。矛盾のない公理系はそれ自身が無矛盾であることを証明できない、だったかな、そんなふうに書いた数学の本を学生の頃に読んだ記憶がある。二重の公理系を抱え込んででも仕事に無謬性を確保して破綻を来さないようにするのがタフな思想なのかもしれないけれども、今の私がそのタフさを偽装しても単なる嘘つきに過ぎないような気もする。

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