我が子を殺人者にしない

ちりんのblog
予防接種についての記事、おおむね賛成。
とくに麻疹の予防接種をわが子に受けさせるのは、我が子を麻疹に罹患させないためではない。
それは2番目の目的である。勘違いしてはいけない。
1番目の目的は、「我が子を殺人者にしないこと」である。
我が子が他人様の子を殺してしまうことがないようにというのが、麻疹ワクチンの本来の目的であると、私は考えている。
我が子に拳銃やバタフライナイフを持たせないのと同様、我が子に麻疹ウイルスを持たせてはいけないと思う。世の中には通り魔も居るし丸腰では危険だと、我が子が学校に拳銃持参で行くのを黙認する親があろうか。
何遍も繰り返しているような気がするが、「はしか」は死ぬ病気である。
麻疹で死んだ子がいれば、その子に麻疹をうつして殺した人があるのである。
ついでに、このリンク元の子育てエッセイは、自分では医者や製薬企業やなんか全く相手にしない態度を誇示しておいて、後で付け加えた注釈では専門家に聞けとのこと。どういう「専門家」を想定しておられるのかをこそ尋ねてみたい気もする。

紋切り型

紋切り型の言い回しというのがいろいろある。たとえば列車は電車でもシュッポッポ。シュッポシュッポ言いながら走ってる汽車って実物みたことあります?
私が最もよく耳にする紋切り型は、聴診器を当てられた赤ちゃんに向かって親御さんが「冷たいねー」と仰るもの。今どき昔ながらの冷たい金属聴診器なんて使ってる小児科医居るのか?と思う。私のはリットマン社の小児科用、もちろん「non-chill」加工のされた製品である。冷たい聴診器が冷たいと糾弾されていた時代よりは余程快適なはずである。常に暖めてるし。
根の深い紋切り型もある。障害児が可哀想かどうかに関わるもの。
障害があるから可哀想、というのは紋切り型。
ビルゲイツも広汎性発達障害であったから自閉症だからって可哀想とは限らないというのも、(さるサイトでそう主張してある記事を読んできたところだけれど)残念ながら、自閉症児の親としては紋切り型に聞こえる。障害があるから可哀想というよりは余程高水準だが、もう聞き飽きました。この言説はあくまでも、障害があるから可哀想という一番低次元の言説に対抗するカウンターパンチとしての存在にとどまって欲しい。独立して存在意義を求める言説にならないで欲しい。
うちの子はビルゲイツでもアインシュタインでもないもの。実際に、こういう特異的な能力を持つ自閉症の人って自閉症者全体の中では少数派である。特にアメリカの映画では自閉症者は特異的な能力を持つことになってるが、あれは認識がエキセントリックに過ぎる。「レインマン」でカードの並びを全部記憶したりとか、「マーキュリー・ライジング」で国家機密レベルの暗号を一目で解読したりとか、そういう特殊能力を一般の自閉症児者に期待されても困る。
優れた能力がある障害児の例を挙げて障害があるからって可哀想じゃないと言われると、何の取り柄も無さそうに見えるうちの息子はやっぱり可哀想なんかなと思ってしまう。
障害を補って余りある能力を持つ人もあるから障害即可哀想ではないというのは、もう障害児の親としては聞き飽きて余りある紋切り型である。障害があるから可哀想と言われるよりは遙かに良いですよ。特定の分野に才能があってそれを生かしてゆく人生の幸福さも分かります。特殊な才能があったらおおいにそれを生かしてゆかれたら宜しい。祝福します。でもね、冷徹な事実だけど、障害児も障害のない人同様、取り柄のない平凡人であることが多いのよ。障害さえなければ平凡な人生を送る幸せを享受できるのに、障害があったら特殊能力を持たないと可哀想扱いってのは、ちょっと差別的な考え方じゃないかと思う。
それと、これも冷徹な事実だけど、高機能自閉者はかなり「可哀想」な人生を送っている。
ビルゲイツ氏の社会性の無さはマイクロソフト社が世間にどれだけ波風立ててるかをみても一目瞭然だけれども、彼にプログラミングの才能がなかったら、いったい彼はどういう人生を送っていただろう。想像してみて下さい。今のマイクロソフト社のように振る舞う個人を。羨ましい人生を送っているだろうか。マイクロソフトの社長ではなかったビルゲイツ氏と立場を変わってみたいと思う人、だれか居ますか?
高機能自閉者が就労に成功する率は中機能自閉者(幾分かの精神発達遅滞を伴う)よりも低いと聞いている。その原因の多くは周囲の理解の無さにある。彼らの抱える問題を周囲の者が(あるときは自分自身でさえ)理解できないことによる対処の不完全さ。頭は良いはずなのに何故いちいち常識を外れた言動ばかりするんだという冷たい視線。書き出したらキリがないけど(私の自伝を聞きたい?)、ビルゲイツ氏でもアインシュタイン博士でも無かった大多数の広汎性発達障害の子には、それなりの対処をしないと、やっぱり可哀想なんです。

小児内科の記事から

「小児内科」という、我々の業界筋のけっこうハイグレードな月刊誌に、子どもの事故予防情報センターの山中龍宏先生が「子どもたちを事故から守る」という連載をされておられる。今月号が最終回であったのだが、先生曰く「今回の連載を書くにあたり、取り上げる材料には一つも困らなかった」というのがなんともやりきれない本邦の現実である。さらに一節を引用する。

・・・事故予防で問題なのは医学の領域で事故予防そのものへの取り組みがないことにある。
たとえ話にしてみると、主に医学が関わるべき事故予防という1000mの氷壁がそそり立っている。その垂直の氷壁を一歩一歩よじ登って、頂上をめざさねばならない。しかし、現在の小児の事故予防として行われていることは、暖かいふもとの青い芝生の上で、「事故予防」という歌に合わせて皆でフォークダンスをしているように思える。その歌の歌詞には「注意しましょう」、「気をつけましょう」、「目を離さないようにしましょう」という言葉がちりばめられ、皆で踊っているそばには「事故予防センター」という名前の展示ケースが設置されている。この状態を続けていては事故を予防することはできない。

小児の事故予防に尽力してこられた先達の言葉だけに、胸に響く。小児の事故死を報道する記事を目にして私は随分と嘆息してきたが、しかし小児科医の私が小児の事故死に嘆息することは、山中先生に言わせればフォークダンスの品評会をしているに過ぎないのかも知れない。それを恥じて事故防止云々と声を上げても、それは観る阿呆から踊る阿呆に変わっただけのことなのだろう。
なにせ、0歳を過ぎたら本邦の小児の死因のトップは「不慮の事故」なのである。白血病よりも心臓病よりも、何よりも子どもは事故で死んでいるのである。しかしいったい、小児の事故予防を小児の脳死移植よりも喫緊の問題だと認識している大人がどれくらい居るだろう。小児科医のなかにすら少数派かも知れない。

大雪

深夜帯に一回も起こされなかったので、よく眠れたなと思って当直室を出てみたら外は真っ白だった。この冬一番の大雪である。
大雪と言っても積雪は深いところで足首程度だから、雪国の人にとっては鼻で笑う程度の可愛い雪なのだろうが、長崎に生まれた人間には、そもそも自然界に水が固体で存在すると言うこと自体が野蛮に感じられる。
NICUには朝から日勤の看護師たちが出勤の状況を伝えてくる。出町柳でバスもタクシーも来ないとか、北区からのどこそこで渋滞で動けないとか。どうやら京都のドライバーは冬になっても必ずしも凍結路面対応のタイヤに換装するとは限らないらしい。そんな一台が立ち往生すると覿面に渋滞である。深夜帯の看護師たちは半ば覚悟を決めていたのか、淡々と日勤のはじめの業務までこなしていた。偉いものだと思う。
同じ京都でも岩倉は市街地よりも雪深いので、岩倉からの通勤者はけっこう楽に来れたらしい。スタッドレスの四駆なんて乗ってるらしいし。
外来も閑散としていた。お陰で小児内科の今月号をほとんど読んでしまった。