王様の夢占い

旧約聖書にあるお話。メソポタミアだったかの王様が配下の占い師を呼び集めて命じるには「俺の夢を占え」とのこと。占い師たちが「どのような夢でしたか」と質問しても、王様は教えない。内容を教えない夢の、内容を割り出した上で吉凶を占えという命令である。そんなこと不可能ですと占い師たちは答え、王様は怒って彼らを皆殺しにする。
古代の王様がいくら暴君だからってこれは理不尽だと思う。でも最近になって思うのは、現代でも似たような理不尽を私たちはけっこう人に突きつけたり突きつけられたりしてるんじゃないかなと言うことである。自分達が何を要求しているかを具体的に明らかにしないまま、あるいは自分でも明瞭に言語化できないままで、相手が自分の要求を満たしてくれることを期待し、意に沿わない対応には相手を抹殺せんばかりに怒る。突然呼び出されて理不尽な命令を突きつけられる占い師としてはたまったものじゃないし、それで意に沿わないからってその場で殺されてしまうのはあんまりだと思う。でも医者やってるとこの占い師たちみたいな立場に置かれることは結構よくあることのような気が最近してきた。いや、医者なんてまだマシな方かも知れない。客商売しててお客さんのクレームに対応する人なんてみんなメソポタミアの占い師みたいなものかもしれない。
この王様は自分の夢を本当に記憶していたのだろうか。夢なんて吉凶の印象しか残らず具体的内容は忘れてしまってることが私はよくあるのだが。この話の続きでは当時メソポタミアに虜囚になっていたユダヤ人預言者が、王様の夢を言い当て、吉凶も占ってみせるのだが、王様はこの預言者が夢の内容を言い当てるまさにその瞬間まで、自分でも自分の夢の内容が分かってなかったんじゃないかとも、疑ってみる。
私たちが他人に突きつける要求も案外とこれに似たものかもしれない。要求された人からの回答に接してはじめて「そうそう俺の言いたかったのはそれなんだよ」と膝を打つことが、案外と多いのかも知れない。ひょっとしたら、要求した時点では自分の頭の中にはそんな内容は無かったと十分自覚できるけど、でも相手の回答に接してみたら自分の真意に自分自身よりも相手のほうが肉薄していたということを認めざるを得ない、とか。それはそれであり得る話だと思う。コミュニケーションを通して理解が深まるメカニズムにはそういう機構もあるはずだと思う。
メソポタミアの王様と占い師たちのコミュニケーションも、実り多いものとなり得たかもしれないのだ。王様が苛立って占い師たちを皆殺しにさえしなければ。