コミュニケーションの双方向性を確保する

保育器の前にいるお母さんやお父さんに対して「これからすくすくと大きくなるのだから前向きに考えなければならない」と強制的な説教をしても反抗を買うだけに留まるのがオチだ。「前向きになったらどうだろうか」と言う提案も受け入れられる可能性は低い。おそらくその提案を得意げに語る人間が考えるよりも桁が3つくらい低い。「心の中では泣いておられるはずだ」と決め撃ちするかのような推量に「よくぞ分かって下さいました」と感謝されることもなさそうである。遠距離で無言の視線に籠もる「他人のことは分からないから何も言えません」という姿勢も棘となって刺さる。
これらに共通する欠陥とはなにか。
共通するのは言葉の内容ではなく、相手に語らせないために自分だけが饒舌になる態度であろう。コミュニケーションの双方向性を否定する態度ではないかと思う。相手を気遣うようでいて、実は相手のネガティブな心情に接する不愉快さを避けるのが主眼であるように思える。それはあたかも、柔道で相手の構えを全く崩さずに力任せの技をかけるかのような、優雅さに欠けるばかりか、技をかける方もかけられる方も危険でさえあるような行為である。
傾聴することが大事だと言い切って結論としていては月並みなような気がする。この態度の危険さにみんな気がついてるからNICUに臨床心理士が入ってカウンセリングするようになってきてるのだろうけれども、傾聴は傾聴の専門家に任せておこうやってのはちょっと違うような気がする。
コミュニケーションはそれ自体が自己目的化するものだと思う。蛾が光に集まるようにホモ・サピエンスはコミュニケーションを生得的に志向しているのではなかろうか。コミュニケーション回路が通じていると感じられるときの快さは種族的な深みから湧き上がってくるものではないか。逆に保育器の前に座っていてもコミュニケーション回路が自分から他人方向へはやたら流れが悪いと感じられるとき、その感触から生じる困惑とか絶望とかは、生命倫理とか人権とか人情譚で言語化されるような理性の地殻にとどまるものではなく、もっともっと深くの、動物的な、精神の地核に端を発するものではないかと思う。
この「通じている状態の快さ」を全員が念頭に置いてケアしても良いのじゃないかと思う。案外と、交わされる言葉の内容はどうだっていいことなのかも知れない。「通じているぞ」という実感を得て頂くのは交わされる言葉の内容よりももっと非言語的・身体的な水準のやりとりに依存しているのかもしれない。何を言ったらよいか分からんから敬遠するというのではなく、取り敢えず回線を開くというだけでも、互いがかなり深い快感を得られるということを念頭に置くべきなのだ。その快感は人間の根源的に深い水準から発せられるもので、質的にも強度的にも極めて重大なものであると言うことも。これを特定の専門職にだけ任せておくのは非効率に過ぎる。ケアに当たる者の全員が回線を双方向に開いておくのが、最大限の効率を達成する道だと思う。
ringさまのコメントに触発されたものです。

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