物語という方法

幻 想 の 断 片のMari先生の推薦で「小児救急 「悲しみの家族たち」の物語」を読んでいる。
良書である。Mari先生御言及の如く、読者諸賢には本書をお読み頂くことを切に希う。本書が世に問われてしまった以上、今後は、本書を読まないで小児救急を語っても単なる思いつきに過ぎず、説得力を持ち得ないのではないかと思う。
本書があくまで「物語」であることが、本書が良書である所以である。過労の末に自死した小児科医の遺族病院をたらい回しになって亡くなった子のご両親、誤診や手違いが重なって亡くなった子のお母さん、小児救急の体制改善に取り組む小児科学会理事の中澤誠先生と、4組の人々の物語が語られる。中澤先生に関連して、日本小児科学会の構想や、先進的な態勢で小児救急に取り組んでいる藤沢市民病院や徳島赤十字病院の事も語られるのだが、いずれにせよ筆者は物語るのみである。正当化も断罪もしない。彼の描写する家族の姿は清く正しく美しいものではなく、父や子の死に苦しみ葛藤する人々のそれである。例えば自死した父をひとたびは恨んだ娘を筆者は蔑まないが、しかしその恨む気持ちを物語から省くこともない。病院をたらい回しにあった子にしても、ご両親の段取りの仕方は決して満点をつけられるものではないのだが(この子に関して「たらい回し」という語を使うのは病院に対して酷なのではないかという気さえしないではないのだが)、その受診の経過を経過のとおりに記述してある。理想的な段取りで受診した親子とたらい回しにあった親子をキメラにして「悲劇の主人公:Aさん(仮名・32歳)」を捏造するようなマネはしない。
総説や論文では語り得ないことを、物語は語り得る。ただ論文なら要約を読めば把握できるが、物語を要約すると物語の本質は抜け落ちてしまう。敢えてその形式を選んだために、本書に安易な結論は出ない。複雑な問題はその全体像を複雑なありようのままに記載され、結論のないままに提示される。あとは読者の側に「つまるところ何が言いたいんだ」という底の浅い質問を自制できる程度の知性があれば、この方法は小児救急の現状を語るのに極めて有効な方法である。
著者の鈴木敦秋という方の名前は知らなかったが、読売新聞社ウエブサイトの「医療」で彼の名前を検索してみると署名記事に多数ヒットした。中には以前に唸らされた記事も多かった。
些末なことを2点。3色ボールペンで読むときは緑で傍線を引く項目ですが。
「小児救急のありがたさって、子育ての時期が終わると忘れてしまうんです」という言葉に胸を突かれた。そういう視点は持ったことがなかった。指摘されてみれば当たり前の事ではあるが、しかし、世の親御さんには、我が子の成人式に際して「この子が赤ん坊のとき真夜中の病院に走ったなあ」と感慨にふけることがあったら、その病院で我が子を診察したその小児科医が今日その日もまだ救急当直をやっているかもしれないってことに思いを致して欲しいものだと思った。そもそも成人式ってだいたい休日だし。
中澤先生は京都にお生まれになって諫早で育った由。私とはちょうど逆。まあ、どうでもいいけど。

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