正しく弔うこと  

yamakaw さまへの返書
丁寧なご回答をありがとうございました。貴地での具体的な状況は私の想像を絶するものでした。心臓血管外科医が他院の応援に行くときは心臓血管外科手術の術者をやるものだと、無根拠に決め込んでいました。帝王切開の加勢までなさって頂いていましたか。なんと我々の分野がそこまでお世話になっていたとはと驚きました。お礼の申しようもないです。

新生児科医としてはその帝切に新生児の蘇生ができる小児科スタッフは立ち会ってるのかなと、新たな危惧を感じてもいるのですが、これはabsinth先生に応答責任を求める事柄ではありませんね。失敬。


そこまで医療のリソースが貧困であればなおのこと、そのリソースを最大限の効率で活用する道を探すのがこれからの地域医療のあり方だと思います。「おらが村での心臓の手術」をスローガンとするような地域医療で、心臓血管外科その他の治療成績が最高であればよいのでしょうけれども、術者に2時間3時間の睡眠時間を確保することすら困難であるような医療体制では、最大効率はおろか持続可能な態勢だとすらどうしても思えないのです。患者さん側にしても、『「おらが村」で手術されたのであれば「専門の先生に診ていただいたんだから本望だ」といって不満足な治療成績で満足なさる』という時代ではないでしょう。端的な話、「おらが村」の病院に心臓血管外科をというのを公約にした村長の、本人なり身内なりが心臓病で倒れた場合、多少無理押しに搬送してでも「町の大きな良い病院」での治療を望まれるということはないでしょうかと思ってしまいますが、邪推でしょうか。
ちなみに、現在の救急部門をはじめとした小児科医療の窮状に際して、小児科学会は小児科施設の再編に乗り出しています。先は長そうだけれども。このリンク先の提言をまとめた面々は今の小児科学会の中でも最高に実践的な人々です。おそらく心臓血管外科でもこういう発想はあるはずですよね。
absinth先生が先達への尊敬を欠かさない点は常々見習いたいと思ってます。いかに現役世代に無理を強いるシステムも、そのシステムが成立してきたのにはそれなりの経緯があり、我々にも増しての先達の苦労があったのだと思います。ですが時代的に役割を終えたシステムには退場願わなくてはなりません。それは必ずしも先達への尊敬を捨てることと同値のことではないと思います。私らが共通に愛読していた(はずの)内田樹先生は「明日は明日の風と共に去りぬ」の11月29日分で仰っています。

あらゆる人間的事象には誕生があり、成長があり、停滞があり、死がある。
生体としての人間がそうであるし、集団もそうであるし、イデオロギーや科学的理説や、芸術や表象や記号もそうである。
そのひとつひとつについて、その死に臨んで、正しく弔うこと、それがとてもたいせつだと私は思っている。
『女は何を欲望するか?』というのは、フェミニズムを「弔う」本であった。
フェミニズムはイデオロギーとしてその歴史的使命を終えた。
そのときに、死体に唾し、鞭打つのは不敬な行為だし、死体に化粧をさせて踊らせるのも冒涜的であることに変わりはない。
ただしく弔うというのは、その歴史的功績を称え、成し遂げた偉業を数え上げ、その上で、しずかに棺に蓋をするということである。
そうすればフェミニズムは歴史的経験として記憶されると同時に、私たち全員にとってアクセス可能な「知的リソース」として開かれる。
しかしフェミニズムが瀕死のまま私たちの社会でのたうちまわっていれば、それはもたらすものより破壊するものの方が多い。
死ぬことによって、善きものを後代にもたらしきたす、というのがすべての人間的事象の宿命である。
オレは死にたくない。永遠不変の真理であり続けたい、とわめき騒ぐのは「さもしい」ふるまいである。
どのような理論もどのような学説も、かならずいつかは死期を迎える。
そのときに「正しく弔われた思想」はそのあとも長期にわたって人間社会に恩恵を注ぎ続ける。
弔われなかった思想は、やがて腐臭を放つようになり、ついには野辺に棄てられる。
それがかつてどれほどの輝きをもち、どれほどの「善きこと」を地上にもたらしたかをもう思い出す人は誰もいなくなる。
だから、死んだものは正しく葬らねばならない。

とは申しながら私自身、弱小NICUが乱立する京都で空床探しに泣きながら新生児搬送に走り、NICU当直と称して事実上は小児時間外救急の当直を行い、一日の半分は外来でNICU退院後の子どもたちの「発達フォロー」に携わっているのですが。今回のテーマは私にとって他人の話ではありません。多忙さの量的レベルはabsinth先生には及ぶべくもないですけどね。京都じゅうをカバーできるような十分な大きさのNICUで終日フル回転で新生児集中治療に携わりたいものだと思っています。NICU退院時点で赤ちゃんを「後は任せた」と発達フォロー部門に引き継ぎたいものだと思います。我が身の非才さ脆弱さを鑑み、NICUに期待される医療の高度さを鑑みると、一人の新生児科医が極低出生体重児を就学後まで丸抱えで診ようとするのは、これからの時代には些か謙虚さを欠く事かもしれないと思います。でも現実には誰も引き継いでくれないし任せてもおけないしというのも、これもやはり程度の差はあれでしょうけれども、我が身も同じだよなあと嘆息しています。

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