大人と子ども

内田先生の書より引用。

「誰かが、自分には解けない問いの答えを知っている」と考えること、実はこれが「子ども」の定義なのだ。そして、「子ども」が「答えを知っていると想定している人」のこと、これを「大人」と呼ぶのだ。「子ども」と「大人」の定義は尽きるところこれだけだ。

医療を語るときに、その発信者が提供側であれ利用側であれ、また自分であれ他人であれ、自分らがこんなに大変なのは誰かが責任を果たしていないからだ云々の言説を目にするたび、その言説を発した人間に幼さを感じずにはいられないわけだが、内田先生のこの言葉がその感じの依って立つところを明確に語ってくれているように思う。
利用側あるいは供給側でも経験の浅い人ならともかく、私のように臨床に10年の上から居て、まだ分かってないとしたらナイーブに過ぎる。現在私らが小児救急や新生児やで必要以上に汲々とさせられている原因の解決策を知ってる「偉い人」など居はしないのだ。いったい誰のことを、この窮状の解決策を「知っていると想定」できるというのか?君の教授や、院長や小児科部長や、そういった偉いさんたちが本当にこの窮状を解決できると本気で思えるか?京都府庁や府議会に京都府下の小児医療に責任を取る立場の人間が居るか?厚生労働省まであるいは財務省や国会内閣まで話を広げたところで、この窮状を解決できなければ職務上の責任を問われるという立場の人間が誰か居るのか?
いい加減に身に染みて分からなければならない。この窮状を解決してくれる誰かがどこかに居ると思っている限り、俺も君も「子ども」だということを。誰か他の人間が解決してくれると語ることは、自分が子どもであると公言しているに他ならないということを。他責的な言説を弄して当然という顔をすればするほどに、同時に自分の「子ども」ぶりをより強く世間に曝しているのだということを。

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