内田先生がフリーターについて論じておられる2002年初出の文章を一部引用する。
社会的身分としては失業者なのだが、必ずしも「失業問題」の原因とはならない集団は他にも存在する。
自分に職がないのは自分が無能であるか、または努力が足りないか(またはその両方)のせいだと思って「反省」している人たちがそうである。彼らは「失業者」ではあるが「失業問題」という社会問題の主人公にはならない。
気の毒だが、公的支援はこのような集団には決して優先的に向かうことがない。なぜなら、私たちの生きている資本制社会は、失業問題を「人道的」な問題としてではなく、純然たる「政治技術」の問題として、つまりこの問題を放置しておく場合と、解決する場合と、どちらが「よりコストがかかるか」という非人情な算術に基づいて考察するからである。
失業という身分を自己責任において受け入れている人は「住宅を供給せよ」とか「職業訓練をせよ」などという要求をしない。彼らは、公的支援を頼らず、自力で窮状を脱出する方法を考える。失業は彼らにとってあくまで「個人的な問題」であって、誰か他の人が尻拭いをすべき「社会問題」としてはとらえられていないからだ。この人たちは「社会的コストのかからない失業者」である。だから、政府はそういう人たちのためには何もしない。理不尽だと思うだろうが、そういうものなのである。
「期間限定の思想 『おじさん』的思考2」 内田樹著 晶文社刊 p82より引用
誤解のないよう最初に申し上げるが内田先生がここで仰っているのは「そういうものなのである」という事実認識であって、「本来そうあるべきなのだ」という主張ではない。時に意図的にそういう誤読をして内田先生を攻撃して鼻高々になる人があるが同類とは思われたくない。
内田先生のこのご指摘には本件にも通底するものがあると思う。結局のところ研修医の待遇改善は、現状を放置しておく方が「よりコストがかかる」という「非人情な算術」に基づくのであって、研修医をいたわる暖かな配慮によるものではない。だから研修医諸君は救済が永遠に続くとは思わない方がいい。今回の改革ではやっぱり上手く育たないねという結論になったら、今の研修医世代はまるごと捨てられることになる。『そう言えば平成17年卒ってあんまり見ないよね。君のところ誰か居る?』『いや採用段階であの年度前後は人事が断ってるらしいよ』とか語られることになる。
また研修医よりも上の院生や医員の諸先生が、待遇が改善されないまま苦労ばかり増えておられるのも、同じ理屈によるものだろうと思う。院生や医員の皆様は現状で放置しておく方がコストがかからないということだろう。畢竟、院生や医員ともなり自力で一人前の医師の仕事ができる方々は、「自力で窮状を脱出する方法を」お考えになるので、薄給も身分保障の欠如も無保険状態もあくまで「個人的な問題」と考えて、ぶつくさは言うかもしれないがそれなりに働いてくれる。ならば放置しておいたほうが、膨大なこの人数に一気に正当な報酬を払うよりも、はるかに低コストである。
医療を資本制社会のタームで語るならこれが赤裸々な事実である。「理不尽だと思うだろうが、そういうものなのである。」
誤解のないよう再び申し上げるが、私がここで申し上げているのは「そういうものなのである」という事実認識であって、「本来そうあるべきなのだ」という主張ではない。意図的にそういう誤読をして私を攻撃して鼻高々になる人があるかもしれないが、あんまりお近づきになりたくない。そもそも内田先生と違って私など攻撃しても貴方のブログの購読者数は上がりませんよ。
そういう邪悪なコスト計算をしてほくそ笑んでいる奴らのせいでこんなに理不尽な状況になってるんだと、厚生労働省の誰かとか大学病院上層部の誰かとかを、つい攻撃したくもなるけれど、内田先生はそういう精神のあり方をも戒めておられる。
「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとする人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」だ。
やれやれ。「子ども」からの脱却を目指す「こどものおいしゃさん日記」にはこの話型は禁忌だ。
それで結局のところ本論は結論が出ない。なら書くなよとのお叱りは甘んじて受けますがスルーさせて頂きます(偉愚庵亭憮禄で読んだ言い回しです。達人の真似っこでちょっと上達した気分。へっへ。)