発達障害の原因を母親の育て方に求める考え方は、科学的にいかに荒唐無稽でも、構造的に無敵である。
自分の言うとおりにテレビを消してひたすら「言葉掛け」をした家の子に言葉が増えたら自説の正しさが補強される。しかし言葉が増えなくとも、それは親御さんの努力不足のためであって、自説の正しさは些かも揺るがない。努力不足だとどうして分かるか、それは努力すれば増えるはずの子どもの言葉が増えないからである。
どう転んでも彼の説が否定されることはない。だから臨床では破綻がない。いつまでも生き残れる。生き残っているということが彼の説に信憑性を増すかにも見える。生き延びるのみならず偉くもなるかもしれない。
しかしこの破綻の無さは彼の説が科学的に正しいことの証左にはならない。言説の内容がどんな内容であれ、この構造をとらせれば破綻することはないからである。
例えば「海辺で念じれば鯨を目撃できる」という論(たったいま私がでっち上げた論だが)を検証してみる。念じて実際に遠方にでも鯨が出たらこの説は正しい。鯨が出なくともそれは念じる人の努力が足りないためであるからこの説自体は正しい。努力が足りないとどうして分かるか、それは鯨が出ないためである。
構造的に反証不可能になっている言説を科学的言説とは呼ばない。たしかカール・ポパーとかいう人がそう言ってなかったかな。「矛盾のない公理系はそれ自体が無矛盾であることを証明できない」ってのは誰の言葉だったっけか。まあ、そこまで大層な話かよとも思うけど。
みみっちくて誠のない説だよなと思う。欺瞞的で無責任である。この説を唱えて子どもの言葉が自分の言うとおりに増えなくても、全然自分の責任にはならないんだよね。上手く行かないのは全部が親のせい。気楽だろうなあ。自信たっぷりに毎日外来が出来るだろうなと思う。これだけで一生喰っていけるかも。俺ももう少し矜持とか良心とかを振り捨てることができたら、この説を採用した「言葉の発達外来」で大繁盛できるかもしれない。
ただ、帰る家が無くなりそうだね。どの面下げて妻や息子に会えようか。
