偉い偉い研修医大先生へ苦言

陽だまり日記
こういう小言めいたトラックバック記事は、書いてて、幼稚園の砂場で玩具を取られて涙ぐんでいる子どもを慰めているような気分になるが、こういう幼い詠嘆は早めに卒業しておかれる方がなにかと為になる。ちと酷だがあれこれ申し上げることにする。
まず私はこの記事が非常に不愉快である。それは申し上げておく。私が筆致を抑えているように思われたら、それは彼女への気遣いではなく自分の品位への気遣いだと思われたい。
Mari先生の時とはずいぶんと態度がちがうじゃねえかというご指摘はたぶんあるでしょうがこの人とMari先生との差はけっこう大きいと思うので。同じ診療科の身びいきかもしれませんが。でも、うまく言語化できないけれど、なにか違います。やっぱり。


医療現場には考えたら動けなくなる現実が普通に横たわっている・・・って、この場合は先生の考えが足りないから動けないのである。この記事にある、「定職に着いたことはなく、親が死んでからホームレスとなった」という記載には、私は発達障害をもちながら支援の足りなかった人の最悪の行く末を感じさせられる。元記事の筆者にはそういう視点は全く無いようだけれど。救急当直の研修医にそこまで診断しろとは言わないが、そういうことを考える分野も医学のうちにはあるのだよとは、学部で勉強しておいて欲しかったなと思う。
ひょっとしたら知的障害を伴う自閉症である私の息子も、将来はこうなるかもしれんなと思う。何とか就労させ自立させたいものだとは思うが、定型発達の大卒者ですらフリーターとかニートとか言ってるご時世に、彼の就労が100%可能かどうか。危うい要素はどうしても残る。親の残した財産の切れ目が世間の好意の切れ目なのかと思うと、息子を残しては死ねないなと思う。割と謙虚なブログを書く研修医さんですら、医療を一人前に身につける以前に、既にこういう弱者に対する厳しい眼差しだけは一人前に身につけておられる。何だか世間の誰にも息子を任せられないなと思ってしまう。時おり報じられる、子の障害を苦にしての無理心中というニュースの、親御さんの気持ちに初めて心底の共感を覚えた。いや、今日明日死にますとは言いませんけどさ。
このホームレスの方の、既に亡くなった親御さんの心情を思う。元記事では問題にされてないけれど、草葉の陰でさぞや嘆いておられることと思う。しかもその嘆きを正当な嘆きとは扱って頂けないのだ。息子は真っ当に働きもせず健康保険の負担もせず「彼のような人の医療費」に研修医先生が「一生懸命払っている税金」が使われるとブログで嘆かれるような日陰者扱いを受け、親は親でそういう世間への迷惑を残して死んだ親あつかい。嘆いたとて、自業自得と唾棄されるのが関の山。迷惑そうに息子を診る医者に、この人にも親がありこれまでの来し方があるという視点はなくて、単に道ばたに湧いて出た虫を見る目以上の暖かさが感じられない。虫以上と「言えなくもない」とくらいは思っておられるかも知れんが。この親御さんの姿が将来の俺の姿。このホームレスの姿が、そうあって欲しくはないけれど、でも無視し得ぬ可能性としてあり得る息子の将来の姿である。他人事ではない。
「一生懸命」と仰るなら私とて月7回のNICU当直、さらにその上の自宅待機をこなし、恐らくこの研修医先生の年間所得くらいの金額を税金に払っている。大学院進学とか留学とかのアカデミックな将来はきれいに諦めた。労働の負担が公平なのかなと思わないこともないけれど、この子の為にもと奮起する毎日ではある。でも、今いくら頑張って働いても、幾ら赤ちゃんのご両親に感謝されようとも、そういう俺の息子であってもその縁は全く一顧だにされることなく、俺が死んだ後は結局は息子は厄介者扱いされるのかよと思う。他人の赤ちゃんを救うのがアホらしくなってくる。当直なんか止めて生きているうちに少しでも長く息子との生活を楽しんでおくに限るかもしれぬ。
そうは言っても私は実際にはNICUで手を抜くことはない(読者諸賢はご安心されたい)。何となれば自分が幾ら税金を払ってるかってのは私事であり、その税金がどう使われるかというのは一市民としての関心事に過ぎぬ。医者としてどう仕事するかという専門職のあり方の問題は公的な問題である。不愉快な相手を不愉快を理由にして退け得るのは私事の範疇だ。公的な立場に身を置く者は不愉快な相手と共存せねばならぬ。自分より強い相手とは自分がどう足掻いても共存せざるを得ないが、仮に排除しようと思えば出来るような自分より弱い敵であっても、共存せねばならぬ。それが公の立場に身を置くと言うことであり、医師として社会的尊敬を得たければ必須の条件である。その公私の区別がついていないのを、世間では「学生気分が抜けない」といって軽蔑することになっている。
そういえば最近の研修医先生は、他人様に胸張って威張れる税額を払える程度の報酬を頂いておられる様子で、年配の同業者としては慶賀至極である。むろん労働に対して報酬を得るのは当然のことであるが、歴史的にはその当然が実現したのはつい最近のことであった。神戸市は10年前研修医だった私に相応の給与をくれていて有り難いことではあったが、しかし他人様に自慢できるほどの税額を納付していた訳ではなかった。非課税すれすれの年収であった。
自分の世代が過去にした不当な苦労を、現役世代が免れているということについて、あれこれ言うのは卑しいことではあろう。しかし不当な苦労を免れるというのは、必ずしも、実現して当然のことではない。当然の権利すら自他の不断の努力が無くては維持できないのがこの世の世知辛さ。生活が苦しいと言うからちょっと給料を上げてやった途端に世間を舐めた口を利くとか、修行中の半端者であるうちはやっぱり貧窮させておいたほうが弱い者の立場に立てるのではないかとか、そういう世間からの糾弾を誘うような言動は慎まれた方がよい。不特定多数が読むブログサイトで修行中の仲間の足を引っ張るようなナイーブな油断は見せないようにされたい。
早い話、自分の書いたブログ記事が原因で病院を放り出されたら、明日から自分もホームレスの仲間入りかもしれませんぜ。つぶしの利かない商売だし。

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