ここで考えているのは、種々の文章の中でも「ホンネ」と分類される一群である。世間の良識に逆らう内容を綿密な論証抜きに語り、読者に論の正邪の判断を保留させたまま、筆者はそう考えているとの理解と許容を得ようとする文章。まじめな反論があったとしてもそんなもの野暮で詰まらない「正論」扱いにしますよという魂胆の透ける文章。あわよくば無条件支持をと期待するかのようなニュアンスをさえ感じることもある。そういうもの。
そういうものがブログのコンテンツとして、特に医師の書くブログのコンテンツとして成り立ち得るのか。成り立ち得るも何も医師がそういうものを書いているサイトは既に存在してきたのだから、可能か不可能かと問われれば可能なんだろう。とすれば、ここで問うべき問いとは、「『医者のホンネ』ブログを許容できるか」ということになろう。
私は、現在の「ブログ」という形態の発表形式では、『医者のホンネ』は倫理的に許容できないんじゃないかと考えるようになった。顛末は読者諸賢には周知の如くだが。
本来、「ホンネ」はその性質上、密やかに語られるものである。信じるままを大っぴらに語って何ら後ろ暗くない内容を述べる論なら、別に「ホンネ」と銘打つことはない。ごく一般的に、主張とか、本懐とか、色々と正々堂々とした呼び方があろう。「ホンネ」というのはその本質上、あくまでも「此処だけの話」であり「君にだから話せる話」なのである。
そういうもの・・・ですよね。そういうものだと思ってたんですけど。違います?
それを不特定多数を相手に語るというのは、もう考えるだにナイーブな行為である。世間知を備えた医師が、そういう『医者のホンネ』を語るサイトの筆者に対して「そういうことは話を聞いてくれる先輩にこそっと語れ」と忠告するのは、「ホンネ」というものが本来はそういう語られ方をするものだからだと思う。
医師が『医者のホンネ』をブログで語ろうとする場合、いったい何を根拠に、不特定多数の読者に対して、内容の正邪に関する判断を控える寛容さを期待するのだろう。「医者も人の子だし」という類の、医師も等身大の生身の人間であるということを根拠にか。「お医者様の言うことだから」という、医療という尊い仕事に携わる自分達を世間は好意的に見てくれて当然という思い込みを根拠にか。
残念ながら、医者はそれほど好かれるカテゴリーじゃない。構造的に、医者は世間に嫌われることになっている。
世間で医者に好意を持って下さっている方々は、決して「医者全般」に好意をお持ちなわけではない。得てしてその好意は「普段お世話になっている主治医の○○先生」や「身内が入院したときに身を粉にして働くのを間近に拝見した○○病院の研修医たち」に向いているのであって、決して「医者全般」が均並みに好きになっておられる訳じゃない。
逆に世間で医者に悪意をお持ちの方々はだいたい医者全般に悪意をお持ちである。むろん直接にご迷惑をお掛けした医者に悪意のピークがあるのだろうが、しかし、悪意は好意よりも容易に医師全般に拡大して行くものである。
しかも拡大したからって一人あたまの悪意の量が減るわけじゃない。分けるごとに総量は増える。それはあたかもイエスがパンくずと魚を分配して5000人を満腹させたかの如く・・・ああそうか・・あの逸話はそういう意味か。いま分かりましたよ。彼が配ったのは悪意ではないですけどね。
それは人情として当然のことではある。良い医者であれ悪い医者であれ、最初にその医者を選んだのは患者さん自身だからである。かかった医者が良い医者だとのご評価は、その医者を選んだ自分の選択眼が確かだったという事をも含意して、その医者が他の医者に比較してもなお一層良い医者だという評価につながりやすい。逆に、かかってみた医者がスカだったとしよう。医者全般は良い仕事をしているのに自分のかかった医者だけがスカだったとすると、そんな医者をわざわざ選んでしまった自分の選択眼もまたスカだったと言うことになる。そんな推定を積極的に認める人はあるまい。医者なんてみんなスカだよと思って溜飲を下げようとするのが人情であろう。
私はここで悪医に迷惑を被るのはそんな医者にかかった人が悪いと主張している訳ではない。こういう風に考えてしまうのが人情だろうという、価値判断を入れないシンプルな事実を述べているつもりである。
構造的に、医者に対する好意は局在化するが悪意は全般化するものなのだ。私らは世間に対しては好意よりも多くの悪意を予想して然るべきなのである。この点には不平不満を言っても仕方がない。そういうものなのだから。
であれば、『医者のホンネ』が好意的に迎えられる状況は予想しがたい。予想されるのはむしろ、不適切な相手にナイーブに漏らされた『ホンネ』の一般的な末路である。論の正邪を越えた受容が得られることはない。正当に論の正邪を問われ、論証の不備を攻撃されて、論に対する責任を問われることになる。
もしもそうはならず『医者のホンネ』が奇跡的に受容される場合も、その受容を支えるだけの好意がどこから来るかには敏感でなければならないと思う。過去に書いた自分のブログ記事の恩恵であるとは限らない。何となれば、読者諸賢の価値判断を留保させて然るべきなほど尊い記事を自分が書いてきたと考えるような、そういう偉ぶった態度に出る論者に、読者が好意を持つわけがない。少なくともそういう偉そうな人の『ホンネ』を許容するほど巨大な好意は得ようがない。『医者のホンネ』を許容して下さる読者は、たいていの場合は、筆者の人徳ではなく、読者ご自身の周囲におられる特定の医者に免じて、許容して下さっているはずなのだ。恐らくはブログ等という余録に手を出さず、黙々と日々の診療に従事しておられる医師に免じて。
要は、ブログで君のホンネを聞いて貰えたからって君自身が好かれているわけではないのだよってことだ。
しかしおおかたの場合、そういう、特定の医師には好意を持って下さっている読者諸賢も、『医者のホンネ』などお読みになったら、「私の尊敬する○○先生もこんな事を考えておられるのだろうか。幻滅してしまった。」とお考えになるのではないかと思う。『医者のホンネ』ブログなど書いている医者は、そのお楽しみにあたって同業者の信用を食いつぶしているのだということに、自覚を持つべきだと思う。黙々と働く同業者にも「ホンネ」はあろうに、じっと胸に納めて働いているのだ。その大多数の沈黙が積み上げた徳を、限られたブログ書き医師が掠め取って独占消費することが許されるだろうか。私の理解では、医師の同業者仲間の倫理観では許されないことになっているはずだ。
それはあたかも高山植物を乱獲する登山者にもにた悪徳だ。大勢の人がそっと見守り育ててきた、元来育ちにくく希少な花々を、突然やってきて無遠慮に踏み荒らして根こそぎ摘んでいくような行為。今どき「ホンネが書けなきゃブログの楽しみがない」と言う医者がもしもあるとしたら、彼(彼女)は「高山植物を採れないと登山の楽しみがない」と言う登山者と同様の恥知らずな事を言ってるんだと自覚するべきではないかと思う。じゃあ止めろよってことで。山に登るのにしても、ブログを書くのにしても、別に義務じゃなし。
『医者のホンネ』はブログの内容としては許されない。今回の結論。
