先の日曜日、息子が田宮模型から出ている「メカふぐ」を作った。
例によって設計図を一目見るなりギヤボックスをするすると組み上げてしまった。この子の目や頭はどういう構造になっているんだろうと、毎度のことながら不思議でならない。ただ、部品番号と絵で理解しているのは確実なようで、文字で書かれた「グリスを塗ります」という指示は最初はきれいに無視した。多少気にはなったが、実は私もギヤに油を塗らないとどうなるかよく分からなかったので、口を出さずにおいた。
電池ボックスとギヤボックスを本体に取り付けて、試しにスイッチを入れてみる。わくわくしているのが見ててよく分かった。しかしモーターが呻るばかりでまるで動かない。そこでグリースのチューブを渡してやると、黙々とギヤボックスを取り外し、ギヤ表面にグリスを塗り込んでいた。その淡々としたリカバリーぶりが、傍目には冷静沈着な職人に見えて、我が子ながら惚れ惚れした。
それにしても、組み立て中の模型が期待通りに動かないとか、PS2で遊んでいるときに妹が電源コードにけつまずいて抜いたとか、そういうトラブルにはこの子は全く動揺しない。まるで、これで遊べる回数が1回増えたとしか思っていないようだ。本当に好きなことってのはそういうものなのかもしれない。
月: 2005年8月
自閉症者の身体感覚
「自閉っ子、こういう風にできてます!」ニキリンコ・藤家寛子 花風社 遅まきながら拝読しました。
自閉症者の身体感覚について書かれた本です。自閉症というと精神や心理のことばかりに私は気を取られていて、こういう肉体的な面倒もいろいろ抱えておられるというのは初耳でした。全く新しい分野の本を読んだ気がします。面白い本でした。
うちの息子見てたら、自閉症児って身体はやたらタフに出来てると、無根拠に独り決めしていたのですが(少なくとも私は小児科医としてうちの息子を診たことがほとんど無いです)、認識が甘かったかも知れません。
もう一つ、自閉症ではない人をさして「定型発達」という語を使ってあります。なるほどこういう風に使うのかと腑に落ちました。良い語です。今後は私も自称に使うと思います。
「親のせいにすること」の構造的欺瞞
発達障害の原因を母親の育て方に求める考え方は、科学的にいかに荒唐無稽でも、構造的に無敵である。
自分の言うとおりにテレビを消してひたすら「言葉掛け」をした家の子に言葉が増えたら自説の正しさが補強される。しかし言葉が増えなくとも、それは親御さんの努力不足のためであって、自説の正しさは些かも揺るがない。努力不足だとどうして分かるか、それは努力すれば増えるはずの子どもの言葉が増えないからである。
どう転んでも彼の説が否定されることはない。だから臨床では破綻がない。いつまでも生き残れる。生き残っているということが彼の説に信憑性を増すかにも見える。生き延びるのみならず偉くもなるかもしれない。
しかしこの破綻の無さは彼の説が科学的に正しいことの証左にはならない。言説の内容がどんな内容であれ、この構造をとらせれば破綻することはないからである。
例えば「海辺で念じれば鯨を目撃できる」という論(たったいま私がでっち上げた論だが)を検証してみる。念じて実際に遠方にでも鯨が出たらこの説は正しい。鯨が出なくともそれは念じる人の努力が足りないためであるからこの説自体は正しい。努力が足りないとどうして分かるか、それは鯨が出ないためである。
構造的に反証不可能になっている言説を科学的言説とは呼ばない。たしかカール・ポパーとかいう人がそう言ってなかったかな。「矛盾のない公理系はそれ自体が無矛盾であることを証明できない」ってのは誰の言葉だったっけか。まあ、そこまで大層な話かよとも思うけど。
みみっちくて誠のない説だよなと思う。欺瞞的で無責任である。この説を唱えて子どもの言葉が自分の言うとおりに増えなくても、全然自分の責任にはならないんだよね。上手く行かないのは全部が親のせい。気楽だろうなあ。自信たっぷりに毎日外来が出来るだろうなと思う。これだけで一生喰っていけるかも。俺ももう少し矜持とか良心とかを振り捨てることができたら、この説を採用した「言葉の発達外来」で大繁盛できるかもしれない。
ただ、帰る家が無くなりそうだね。どの面下げて妻や息子に会えようか。
アメリカの個人破産の半数は高額な医療費が原因なのだそうだ
暗いニュースリンク: アメリカ:個人破産の半数は高額な医療費が原因
米国内で破産した人のおよそ半数が、医療費の高騰が原因で破産しており、病気のために自己破産に陥った人々の大半は中産階級で医療保険加入者であることが調査で判明した。
とてもよくまとまった記事で読みふけってしまって、ついでにアマゾンで推薦図書まで買い込んでしまった。
日本の医者はダメだねえと米国の医療が引き合いに出されるたびに、仰るような医療にかかる高額な費用はどうやって捻出されるんだろうと不思議に思っていた。李啓充先生の「アメリカ医療の光と影」はむろん既読で、向こうには向こうの色々な事情があるのだろうと思っていたが、こういう悲惨な実情があるとまでは思ってなかった。
これじゃあ医療が本当に人を幸せにしてるのだかどうだか分かったものじゃあない。病気は治って無一文、か。治らなくて無一文っていう可能性もありか。それじゃあ医者を訴えたくもなるよな。
大丈夫の言葉が欲しくて来院する人が9割以上。それは当然
小児科外来は時間内も時間外も「大丈夫」の言葉が欲しくて来院する人が圧倒的大多数。
それはもう、プライマリ・ケアに近いところに居る人間ほど身に染みて分かってることで、今さら語るに落ちる内容だからあんまり言葉にしないんだけど、病院は病気を治すところだと思ってる人にはけっこう意外なことなんだろうなと、時にこの事実に戸惑う人に出会うたびに新鮮な気分になる。
小児科は唯一病気が
相応の権威を持って「大丈夫」と申し上げる、この言葉そのもに言霊的な治療効果があるんじゃないかと思うこともある。むろん大丈夫じゃあない子に大丈夫とは言いませんよ。それなりの診断手段を尽くし、説明を尽くした上での「大丈夫」という結論の一言を心掛けてます。うちの小児科で一番採血をし点滴をし再来予約をマメに取るのは私だと思ってます。一方で単純な感冒の子に「念のため抗生物質」を処方することが最も少ないのも自分だと思ってますけど。
闇雲に「大丈夫」と申し上げてるつもりじゃなくて相応の勉強はさせて頂いてるつもりです。例えばメジャーリーグの強打者が打撃の秘訣を聞かれて「来たボールを打つだけじゃないか」と答えたとして、その「来たボールを打つ」というシンプルな言葉にどれほどの彼の努力と才能が籠もっているかというような、そういう重みを私は医者の「大丈夫」という言葉に籠めたいものだと思います。
だったらどう説得したんだろう
高校野球の全国大会で広島県の代表が、8月6日の8時15分に黙祷をしようと他県の代表に呼びかけようとしたところ、大会関係者に止められたということ。その際に大会関係者が「原爆は広島だけのこと」「みんなを巻き込むのはよくない」と発言したと、某全国新聞に報じられた。
そんなことは言ってないという大会主催者からの抗議があって確認したところ、そのような発言はなかったということが分かったとのことで、この某全国新聞社が謝罪したとのこと。ちなみにこの新聞社は別シーズンの全国大会に関連が深い。
妙にリアリティに溢れた記事だと思ったんだけどね。
いかにもありそうなお話だなと思ったし。
まあ、仰ってないということだから、仰ってないんでしょうけれど、ね。
それにしても、この理屈立て以外のどのような論理でもって、高校生たちを説得したんだか、ぜひ聞いてみたいものだ。私にはどうにも思いつけない。いや、根も葉もない話にしては妙に出来過ぎてるとか、大会関係者が強硬に出たら毎日新聞も選手たちも逆らえないだろうとか、選手たちだって言ったの言わないのの七面倒な話などさっさと忘れて試合に集中したいだろうしとか、そういう無根拠な推定はしてませんよ。ただ、思考の訓練としてね、この場合自分なら何と言うかな、ってね。
実際、他府県に出てみると原爆って俺たちが思ってた以上に広島や長崎だけのことだしね。
京都では時々、3発目はお前らだったんだぞと、嫌みの一つも言いたくなったりしますからね。
でもまあ、8月9日と言えばソ連の対日参戦の日じゃないかと、旧満州でご苦労なさった人に言われたら(例えば私の母とかね)、返す言葉もない。酷い目にあったのが自分らばかりだと主張しているように思われては理解も連帯もあったものじゃないしね。
私の年では自己嫌悪も許されない
仕事の段取りが悪くて、やれやれ俺はダメだなと自己嫌悪。これ自体はよくある話なのだが、今日、ふと、自己嫌悪そのものが俺にはもう許されない悪徳なのではないかと思った。
今の自分がダメだと思うのは今以上の自分を想定しているからだ。高校生ならともかくも30台も後半に入った俺が「今以上の自分」に現状の自分以上のリアリティを感じててどうするんだよと思う。それは未熟者にのみ許容される特権である。
10年目過ぎた医者には、自分はまだ未熟者ですと述べる権利はない。単純に文学的な謙遜ならまだしも、暫しの猶予を頂ければご満足頂ける程度に成長しますから本日のところはご勘弁を等と言っても、誰もそんな言い草を許してはくれない。臨床にはそんなロートルな未熟者を飼い殺しておくゆとりはない。後進にポストを空けてくれよと言われるのがオチだ。私も自分より年上の医師に、直接は言わないまでも内心そう思って舌打ちすることが屡々であった。そう言われ得る年代になってそう言われる程度に無能なら、言われることを甘受するのがフェアというものだ。
今さら自分の将来への成長分を自分の価値として現在の評価に組み入れるような(例えば今のところはろくに配当も出せないようなドットコム企業があと何年かしたら云々言って投資を得ようとするような)マネが許される年齢ではなくなった。自分の評価は現在の自分のスペックでしか得られない。結構厳しい。
徒弟奉公に憧れるんじゃねえよ
読売新聞の8月5日の「編集手帳」より引用。
料理人の修業は鍋洗いから始まり、厨房(ちゅうぼう)では「鍋屋」と呼ばれた。底にソースが残っている。味見できれば先輩の技を盗める。盗ませてなるかと、渡される鍋には石鹸(せっけん)水が混ぜてあった。18歳の鍋屋は肩を落とした◆オムレツを焼いた。火の通り具合がむずかしい。「こんなものをお客様に出せるか、責任を取れ」。お前が食べろ、という。焼いても、焼いても失敗した。先輩の前で20個のオムレツを食べたことがある◆帝国ホテルの総料理長を務めた村上信夫さんは本紙に連載された聞き書き集「時代の証言者」(読売ぶっくれっと)の中で、せつなくも懐かしい修業の昔を回想している
けっ。
という一言で終わっては記事にならないから注釈的に書き足すことにする。読売新聞の編集手帳君には些か八つ当たり気味で酷かもしれないがご容赦賜りたい。
無批判にこういう記事が世に問われるたびに、「徒弟奉公ってワイルドで格好いいじゃないか」と勘違いするバカな年寄りがいて、「医者の修行も徒弟奉公だから」云々と言い出す。講義で、医局で、ブログで。
おそらく彼らは理不尽さを容認する自分が世間に通じていると思っている。世間知らずの尼ちゃん揃いの医者の世界にあって自分は世間を知ったタフな例外だと言いたいらしい。徒弟や丁稚奉公の8年なりというのは小学校を卒業してから徴兵までの年月なのだということすらご存じ無いくせに。単にその年代の若年労働力をタダ同然で収奪しようとするのが戦前まであった徒弟制度の真相である。
徒弟奉公を否定しては徒弟奉公をしてきた自分たちが尊敬されなくなるとでもご心配なのだろうか。別にご心配になるまでもなく、医者の修行が徒弟制度だと肯定的に書く論説は最初からいっさい信用しない。俺たちに後進を潰せるような余裕はない。後進が未熟なままもたついて時間を潰すことすら容認できない。知識も技術もこちらから口をこじ開けて突っ込んで無理矢理太らせるものである。
先生方がお手本にしたがってる職人さんの世界の一流どころでは今じゃあ新入りが一人前のキサゲをかけるようになるまで2年で到達するらしいですよ。
村上信夫氏の名誉のために下記の言葉を引用したい。http://www.french.ne.jp/mst/24/24-2.htmより。
怒鳴りつけるよりも良いところを褒めて悪いところを教えてあげればいい。私たちも昔はスパルタ式ですから、バカヤローって殴られる。いじけて仕事をしていたら決して良い仕事はできません。やはり楽しく料理を作るとおいしい料理ができます。
怒ると味つけが乱れますね。興奮すると舌が乱れます。料理を作るときは冷静に。昔のお坊さんが言ったように”平常心”で作らないといけないし、楽しんで作ったら良い料理ができます。
それからやっぱり勉強しなければ進歩はないですね。我々の先輩は師匠から習ったことをそのままやって工夫しない。なぜこうするのかと聞いても、昔からやってるからだとしか答えられない。やっぱり勉強してきちんとした説明ができないと若い人も納得できない。上に立つものはいくつになっても勉強しないといけないと思います。
そして教えることも小出しにしちゃいけない。どんどん公開するべきです。私は料理書も書いていますけれど、良いものは公開します。味の良い料理を作るということは、長い経験から生まれるものですから。
私も生物を履修していない医学部生でしたが何か?
Scott’s scribble – 雑記。: 大学生の学力低下に
つーか、仮にも大学なら連立一次も解けない奴入れんなよ。
という指摘を拝読して溜飲を下げた。そうだよな。本来そういうものだよな。喝采喝采。馬鹿を入れておいて馬鹿でしたって頭抱えてもねえ。そりゃあ自分らの浅はかさを嘆かなきゃ。
元ネタは「内田樹の研究室」のエントリー「るんちゃん・健ちゃんと日本の高等教育の末路」においての
第一は学生の止まるところを知らない学力低下である。
大学の正規の勉強だけではとても追いつかない。
リメディアル教育の他に、家に帰ったあと自学自習させないとどうにもならない(なにしろ連立一次方程式がとけない工学部学生とか、生物を履修していない医学部学生とかがざわざわいて、ついに小学校の算数からのリメディアルをはじめた私大もあるのだ)。
云々の指摘である。大学生の教養の低下については内田先生の著書やブログには大量の蓄積がある。例えば現在の大学1年生の英語力は内田先生ご自身が中学3年の時のそれに等しいということらしい。私は事情を知らないから「そうなの?」と素直に感心していたものの、今ひとつ釈然としない思いもあったのである。
内田先生のこの指摘にはもう一つ文句を言いたい。連立一次方程式が解けない工学部学生と生物を履修していない医学部学生を一緒くたにしてほしくない。生物を履修していない医学部学生は馬鹿だから生物が理解できなかったわけじゃない。生物のかわりに物理を履修したのである。大学入試では物理のほうが生物よりも高得点をねらえるというのが第一の理由だが、例えばNICUでの人工呼吸管理など最新の医学を学ぶのに高校レベルの物理の知識は必須だから、これは決して邪見的な選択ではない。
古い人や部外の人の想像以上に現代医学は物理の基礎知識を必要としている。しかし医学部を目指すような面々には、決して、インダクタンスだのインピーダンスだのという重要だが地味な概念を自習で身につけるのは容易くない。少なくとも、私は、高校の物理か生物かのどっちかは授業してやるから残りは自習でやれと言われたら、授業では物理を聞くことにして、生物は自分で学ぶ。自分の嗜好はそうなってるから。
後出しじゃんけん
真相は訴訟の過程で明らかにされるであろうとか書いておいて何だが。
もしも今回のこの受験生が不合格になったのが本当に年齢のせいであったとしたら、大学への批判論にはこの場合二通りあると思う。そもそも年齢制限するのがけしからんという論と、年齢制限するのはありかもしれんがそれなら募集段階で前もって明示しておけよと言う論と。
私はどちらかと言えば前者。年齢制限は小賢しげだけど結局は愚かだと思う。
でもまあ、大学の理念に基づいて確信的に年齢制限するというのはありだと思う。例えば防衛医科大学校が「うちは軍医の養成学校ですから」と年齢を制限するのは「あり」だ。でもそれなら何歳以下お断りとか、募集段階で、応募の条件として明示されるものだろう。私が受験したときは年齢はおろか体格の基準まで示された。徴兵検査も彷彿として決して快くはなかったが、しかし公正ではあったと思う。
入試の全過程が終わった後で今さら55歳ではダメだと言い出すような「後出しじゃんけん」は、世間では大抵はルール違反だと見なされる行為だ。公正さに欠ける。
公正であるということがどういうことか、体感として分かってないと、医学部あるいは病院としては危ういのじゃないか。フェアさという感覚を欠いた頭には医療倫理の諸問題も論点を掴むことすらできないのではないか。群馬大学医学部は事を決めるのに「後出しじゃんけん」をしますよと世間に思われることによる損失も大きい。医学部附属病院の診療において患者との信頼関係をかなり損ねるのではないだろうか。
ただ、ねえ。東京新聞の記事を参考にしますとね、この受験生の方に全面的に肩入れする気にもなれんのですわ。何か、違うだろ、と思うのです。
自分の受験能力が奈辺で通学の地理的便利がこうだから受験する大学はこれ、という観点で大学を選ばれたようだが、例えば群馬大学が何を目指しどのような学生を求めているかというような大学側の事情は如何ほど斟酌されていたのだろうか。何だか全国の大学医学部どうしの差異は立地と「偏差値」だけという乱暴な画一視がなされているように思えるが。
例えば京都大学医学部と京都府立医科大学は鴨川を挟んで向かい合ってますから地理的な差異はほとんど無いんですがね。まあ京都駅から市バスの205系統に乗るか206系統に乗るか程度の違いしか無いですね。でも京大と府医大の違いが入試の難しさだけの違いかっていうと、決してそうじゃないと思うのですが。その差異って、けっこう、大学が「俺たちのここを見てくれ」とこだわっている部分じゃないかなとも思いますし。
自分は相手を十把一絡げの駅弁大学扱いにするけれど相手には自分の特別な志を評価して欲しい、ってのはどうなんだろう。公正なんだろうか。大学の理念がどうあろうと募集前に明示していなかった以上は選考段階で年齢を理由に不合格にするのは不法であるとの主張は、弁護士の主張としては良い主張だと思う。しかし、医者のする主張としては、何か違和感がある。
お互いが「出来上がった主張」をぶつけ合って勝敗を決め、勝った方の言い分が通るってのは、法廷での対話はそうなのかもしれないが、臨床で行われる対話のありかたではない。
患者さんは自分のここにこれこれの不調を感じるとは仰るが、医学的にそれが何という疾患だと仰るわけじゃない。いや、「仰る」とここで書いたが、患者さんがご自分の意向を明瞭に言語化して下さることはむしろ稀だ。医者とて患者さんに出会う前に診断できるわけでも無し。患者さんに相対してからおもむろに、その不調の内容を分析し、患者さんが求めるところを推察し、患者さんに代わって言語化する。それから、自分が提供できることが何かを説明し、患者さんと共有できる結論を作り出す。各々の主張が固まってから対話にはいるのではなく、対話の中から各々の主張が生成され、それを摺り合わせていくのが臨床のコミュニケーションである。臨床のコミュニケーションは、決して、相手構わず論破することを目指すディベートではない。
およそ医療を目指す人ならば、そのような臨床におけるコミュニケーションの理想の、せめて萌芽でも、態度に表れるものではないかと思う。だったら具体的にどうすればよかったんだと問い返されたら言葉に窮するので申し訳ないのだが、もうすこし、コミュニケーションの態度に肌理細やかさとか柔軟さとか相手に沿う姿勢とかが匂ってこないものだろうか。それともマスコミがいかにも対決色ありありに演出しているだけか?「貴学が過去に公示した情報から公正な契約の考え方に基づいて考察するならば貴学内部の事情に関わらず貴学には私を入学させる義務がある」と言ってしまったとしたら、それは法科大学院の入学希望者に相応しい台詞かと思われるのだが。
むろん、法律は社会の基礎だし、医療でも公正な契約というものは決して軽んじられるべき存在ではないから、この台詞が医学部入学希望者から発せられたとて、けっして矛盾するというものではない。こう要求する権利が医学部入学希望者には無いというわけでもない。むしろ正当な要求であって、支持か不支持かと言われれば多いに支持したい。
ただ、何か違うんだよなという呟き程度の違和感はありますよ、というに過ぎない。
この違和感は決して些細なものじゃないはずなんだけど。