学会

今年も重症心身障害学会へ出席してきた。
相変わらず不器用な運営をする学会である。客席では飲食禁止の会場でランチョンセミナーをやろうとする。当然に昼飯返上セミナーになる。用意された弁当は終わって出てくるところへ配布することになる。それをみんなで食べ出すから午後1番の会頭講演ががら空きである。
そうはいってもランチョンセミナーはForrest M. Bird先生の講演だから会頭講演よりも優先である。彼が開発した人工呼吸器「バード」の名前を聞いたことのない小児科医など居るまい。でも古い人の回顧話ではなくて、パーカッションベンチレータの原理を離して行かれた。いまだに最新式の開発に取り組んでおられる。1921年生まれだというからいま幾つだよ。お若い頃からパイロットでもあるという。零戦と空中戦した世代である。
昨年は旭川で台風にあって大変だったけど、今年の新宿も疲れた。長崎で生まれ京都で勉強して神戸で研修してという経歴だと、風景のどこかに山が見えないと方向が掴めない。東京の道は奇妙にまっすぐな人工血管みたいな道かあるいは無軌道に増殖した悪性腫瘍の新生血管みたいな細く入り組んだ道かで、人が通りやすいところを通りやすく歩くうちに踏み跡が次第に固まっていったような歴史が感じられない。当然に迷う。まあ新宿と参宮橋をちょろっと歩いただけでそこまで言うかとは自分でも思うけども。四条烏丸と北野白梅町周りとをちょろっと歩いただけで京都の道路事情を云々するようなものだよね。
でも中央線の快速と各駅停車の路線が違うというのはあんまりだと思う。
今回の目玉は学会じゃなくて、自分が喋ることになった講演のほう。都内のNICUで「NIDCAPってTEACCHだよね」という話をした。関西でなら笑いが取れるはずの間合いでも誰もくすっとも笑ってくれないのには参った。内容が外れでみんな怒っていたのだろうか。歴史の深い施設だからこういうお話を受け止める懐の深さはじゅうぶん備えているはずなのだけれども。

鳥人間コンテスト

人力飛行機部門で優勝した日大チームの機体は、最終的にギヤが折れてペダルからプロペラへ動力が伝わらなくなり着水を余儀なくされた。悔し泣きするパイロットを、よくやったじゃないかと周囲が慰めていた。いや彼は自己の非力さに泣いてるんじゃないですからと、見ていて歯痒く思った。不良部品を載せてしまった制作陣が自己批判もせんと、パイロットがもっと気合い入れれば35キロとか50キロとか飛べたのにと言わんばかりの脳天気な慰めことばを吐いてるのは、そりゃあ後の反省会で真相を知って青くなるんだろうけれども、みていて滑稽だし物悲しくもあった。

ネットの混沌は滅びません。絶対。

元ORJPの隠れ家に、かつてこのブログにコメントを下さったorjpさんが、ネットのアングラ的な混沌を保つという観点で記事をお書きである。私のことにも言及していただいたので、ありがたく拝読した。この記事はorjpさんへの回答である。氏のコメント欄に書き残さなかったのは、ひとえに私の不器用さによるものとしてご容赦いただきたい。なにさま「コメント欄」の狭さが私には手に負えないのである。
それと、私がもっとも応えたのは、orjpさんのブログの冒頭「どうしてまず、YAHOOとかGOOで調べないんだ?失礼じゃないか?」というご指摘でした。コメント頂いたときに調べればよかった。失礼ご容赦下さい。
以下、本文。
インターネットには、御言及の「ゴミ溜めみたいな部分」は確実に残ると思います。路傍のゴミをいくつか拾ったところで世界中のゴミを消し去れる訳ではないですから。私とて、今後も、世界のゴミ拾いに邁進しようとまでは思ってません。ただ、目に付いたゴミくらいは拾うこともあるかなと思います。病院の廊下にゴミを捨てる研修医は許さないだろうと思います。病室の床に血液の付着した注射針を投げ捨てる研修医は張り倒すかもしれません。
アングラな世界は決して絶滅できないと思います。どうしても絶滅させようとするなら、陽の当たる世界で公認することこそもっとも早道かと思います。マルクス主義を骨抜きにするのにはソビエト連邦や中華人民共和国が多大な貢献をしたわけですし、旧社会党だって与党になったとたんに崩壊したわけですし。アングラなものの輝きは、内容自体もさることながら、その語り口に大きく左右されるのではないでしょうか。マルクス主義は少数の反体制派によって語られてこそのマルクス主義でした。
アングラな言説は少数者が人目を憚ってこっそり語っていてこそ命脈を保てるものではないでしょうか。まだネットに接続すること自体にすら技術的困難が伴った時代なら、ネットで語ること自体が少数者として語ることだったので、アングラなこともそれなりに語れたのでしょうけれども、現代では、もう語る場所がWWWだというだけでは、語る自分は少数派だということの十分条件ではない。WWWで語っただけで、語られた思想のアングラな輝きは失われてしまいかねないと思います。
「プライベートな日記サイトで自らの心の暗部を曝け出す事」に関しても、もはやWWWで不特定多数へ向けて公開していてはプライベートな日記サイトなんて成立しないんじゃないかと思います。それは語りにくいことを語る語り方ではないと思います。休日に自室で下着姿で寝ころんでいること自体はだれも咎めないけれど、でももしも公道から自室が丸見えだったとしたら、カーテンくらいは引けよと言われるもんだと思います。覗いてるんじゃねえよ自室で何をしようと勝手じゃないかと、言われりゃそれがもちろん正論ですよ。でも窓の外の公道をとおりかかった人に覗くんじゃねえよと言うネットよりは、下着姿で寝ころぶときにはカーテンを引くネットのほうが、私は好きです。カーテンの奥で何をしようが自由だと思いますし、その行動に誰か相手が欲しいときには人選のうえで扉から招じ入れればよろしいと思います。そこを敢えてカーテンを開けて寝ころぶのは、疲れたということに関する共感の前に、何かほかのメッセージがあるのかなと勘ぐってしまいます。
私がぶち挙げた内容には是非、「医師を名乗って書くブログでは」という限定条件を省略せずつけて欲しいです。そこがけっこう勘所だと思ってますので。医者というのはネットの外で成り立っている職業だし、医療もまたネットの外にある世界です。例えネット内でも、医者を名乗って医療を語るなら、ネットの外の医者のコードで批判されるものだと思います。ネット内のコードで語られたければ自分をネット内の存在として、ネット内に自立した内容を語るべきです。アジールに守られたければアジールの住民になり切るべきだと思います。orjpさんがごく自然にそうなさっておられるように。
生意気ご容赦下さい。ご批判賜れれば幸甚です。

チャリティ精神と進化論と猫の色

最近になって拝読し始めたMeditationesという読み応え豊かなブログがあって、その中にチャリティに関する記事があった。多いに賛成しエールを送りがてらに追記させて頂く。
私の勤務する病院はアメリカ南部のキリスト教徒が(すみません宗派を言うと私の身元がリアルばれするんで・・・)、戦後の混乱期に接収されたさるお金持ちの別荘を病院にしたものである。ちなみにそのお金持ちはいま精密機器のメーカーになってて、先だってはノーベル賞受賞者も出た。箱を作っただけではなくて、米国から産科医(ちなみに女性だったらしい)や小児科医や内科医など送り込み、看護師もまた送り込み(宣教師はむろんのことである)、病院や看護婦養成所を立ち上げたのである。オイルショックの前後まで約20年ほどは、教会で集めたお金を運営費として継続的に補助して下さったと聞く。
たまに私のような変な医者も勤務してるけど、でもけっこう京都の周産期医療にはお役に立ってる病院だとは思う。二つの大学病院や日赤病院なみの大きさのNICUやってますし。他分野でも、ホスピスだって本邦の最初期からの伝統があるらしいし。
ちなみに進化論を学校で子どもに教えると怒る人も多いといわれる宗派である。でもねえ・・・進化論信じてる日本人で、だれか発展途上国に病院作って継続的に運営費を送ってる人って、どれくらいあるのだろう。良い猫とは白い猫でも黒い猫でもなくてネズミを捕る猫だと言っちゃえばね、他人様にはびた一文出したかねえよっていう了見をお持ちの人が、彼らキリスト教原理主義の面々を頑迷だと論えるだろうかって、思います。

NICUとナチズムの連続性は

かねてより尊敬しているサイトにて+ 駝 鳥 + – ナチスドイツの障害者抹殺計画は財政論的に根拠付けられていた~なぜ国家によって人は抹殺されうるのかなる記事を拝読した。
高度な議論が展開されているサイトにトラックバックするには、拙文はいささか幼稚な感慨ではあるが、下記のようなことを考えた。
ナチスの優生思想は、まがりなりにも生命倫理の思想が行き渡ったはずの現代とは全く隔絶した異常なものだと思っていた。いちおう、それが我々の業界筋の公式見解でもあることだし。しかしこの記事を拝読すると、現代の障害者に対する視線のごく合理的な延長線上に、ナチスの優生思想が無理なく乗っかってくるように思えた。ナチスを克服したように思いこんでいて、実際はナチと我々の差は強度の差に過ぎないようにも思えてきた。
今さらそんな事に気付いたというのでもなく、あえて無視してきたという面はあるかもしれない。NICUで重症新生児の治療方針について議論しているときに、ふと、今の自分達の議論とナチの倫理との境界はどこかと考えることがある。境界を考えるということは、同一の空間で互いに接しあっていると暗に認めたということではないか。これ以上続けても苦痛しか生まない延命処置を中止するべきだろうかという議論と、生きるに値しない命の抹殺と、その間には境界線が必要になるだけの連続性があるということか。
境界線が必要なほどお互いに接しているというだけで許され難いような気もする。しっかりした境界線があればそれでよい、十分な緩衝地帯が確保されていればなお宜しいという論も成り立つような気もする。どうなのだろう。
自分達は生命を慈しんでいるがナチは障害者をゴミのように捨てたという境界線の引き方ができるだろうか。ナチス時代の面々だって、自分達は生命を慈しみ尊重する故に生きるに値しない人生から解放してさしあげるのだと、自ら信じていた面があったかもしれない。彼らは慈悲に溢れた心でガス室のスイッチを押していたのかもしれない。あるいは、ユダヤ人であるという不幸や障害者であるという不幸から彼らを救い出す方法がこれしかないのだという無力感や慚愧の念に涙していたかもしれない。彼らの自身に対する倫理的評価は、決して、今の私たちのそれより低くはなかったに違いないとは思う。
不勉強で彼らが実際にどう考えていたのか私は知らない。知りたいと思う。後世に批判者により書かれた本では、彼らが鬼畜であるとの思い込みが先に立って、彼ら自身は自分達のやってることを何とも思わなかったか或いは自分達でも鬼畜行為だと思ってやってたかのどちらかだったように決めつけられている。少なくとも私はそんな本しか読んだことがなかった。でも、彼らは案外と私たちと紙一重な考え方をしていたのかもしれない。あるいは後世の私たちのほうが、自分達が思っている以上に彼らと紙一重なところに居るかもしれないとと申すべきなのか。
トラックバックもと記事のコメントで、筆者のswan slab氏は

現代の監視社会なり管理アーキテクチャーのなかでの音を立てない静かな暴力というものに、”全体主義”の連続性をみるわけです

と御言及である。この言葉が胸に響く。
重症新生児の治療方針に関して、私たちは万能の指針を欲しがる。その指針にさえ従えば道徳的にも法的にも免罪が得られるような指針を。「疾患Aなら救命不要」などという露骨なものは言うに及ばず、「多くの意見を求め倫理委員会にも諮って決めましょう」といったメタレベルの指針であっても、結局は免罪を得られる万能の指針には違いない。これもまた「現代の監視社会なり管理アーキテクチャー」なんじゃないかと思う。私たちは自らを監視し、社会に対して自らを弁明する。
むろん、とことん心マッサージを続けることが最善ではない。どこかの時点で、自分たちの手から母親の手へ赤ちゃんをお返しせねばならぬ。それはそういうものだと私は思う。でも「そういうものだ」というこの言葉こそ、コメント欄に議論されている「空気」ではないかとも思う。それで我々の仕事が完遂できたと申しあげてしまっては、その空気に流されているだけじゃないかとも思う。赤ちゃんの生命を慈しんだつもりで、実は「音を立てない静かな暴力」をふるっているのではないかという懸念がどうしても残る。
赤ちゃんに対しても、じつは親御さんに対しても。

総選挙の日に

なんか選挙の日って不思議に当直明けのことが多いんだよなと思いつつ投票へ行ってきた。冷暖房施設のない投票所で、蒸しっと暑かった。私は順路を歩いて全行程を数分で終えたが、立ち会いの方をはじめ係の人たちは大変だろうと思う。
いつの間にか郵便局員の皆様が世の中の諸悪の根源にされている。公務員二十数万人の人員削減って言われても、郵政民営化って最初はそういうお話だったか?確かに公務員云々の話はあったと覚えてるけど、それは全国2万カ所あまりの特定郵便局にまつわる、世襲制の公務員の方々のお話だったように思うが。しかも、それすらも本題じゃなかったように覚えているが。なんか解散の前と後で言うことが違うような気がしますよ。
これは他人事ではなくて、次の次くらいの選挙ではおそらく医療費の削減がやり玉に挙がるから、私らはあと数年で公然と社会の敵になる。その選挙ではたぶん、解散前は医療費総額が高すぎるという話で日本医師会みたいなところが矢面に立つんだろうけど、解散してみたら今度は「全国に勤務医が何人いて病院に勤務する看護師が何人いて検査技師その他の人数が何人いて此奴らの人件費が医療費に占める割合が・・・」と来るんじゃなかろうかと思う。高額すぎる私たちの医療費支払いのこんなに多くをこんな奴らが搾取してるんですよと。
郵便局員というと私はデイビッド・プリンの小説「ポストマン」を思います。映画でこけてハヤカワ文庫から抹消されちゃったけど。核戦争で荒廃したアメリカを放浪していた男が、放置された郵便車をみつけ、その中にあった郵便物を配り始めるという話。荒廃した社会に戦前の日常がとつぜん立ち上がって人々を予想外の求心力でまとめて行くのです。当たり前の日常の営みが持つ底力と言いますか。

公言した段階から批判が始まるのでは

拙稿に貴重なコメントをいただいたのですが、長いお答えになりましたのでコメント欄では不便すぎ、ここは管理者の権限を濫用して新しい記事で回答とさせていただきたく存じます。
私自身はホームレスの方々の医療の公的負担について疑問を持つ立場にありません。道徳的に高潔だというのではなく、単に、この7年ほど小児しか拝見していないからです。時間内は言うに及ばず、当直帯にもNICU当直の傍ら小児のみ時間外救急を拝見しています。一般当直は内科や外科の先生方が別に全科当直で居られますので、成人の診療はほとんどせずに済んでいます。
駆け出しの頃は時間外には救急で成人の患者さんも拝見していました。でも、初期研修はそんなことを考える余裕もないほどハードな三次救急で勉強させて頂きましたし、後期研修はかなり僻地の病院でしたのでホームレスの存在そのものがありませんでした。関西から北陸へ抜ける旧街道沿いではありましたので、ときに行きずりの方が倒れて担ぎ込まれてこられましたが、それほど多数でも高額でもありませんでした。
さすがにホームレスの子どもが患者さんとしてお出でになったことはありません。もしもお出でになったとしても、その子の治療費の支出について疑問を呈される方はまず居られないと思います。むしろ、もしも私が「こんな子の治療のために医者になったんじゃない」などと申したら、「そんなら辞めてしまえ」という憤激の声が多数寄せられると思います。
自分では診てもいないくせに偉そうなことを言うなよとのご批判(今回のご質問をお寄せ下さった関係者さまにそういう愚かなご批判は頂かないものと存じておりますが、一般的意味での関係者様の中にはひょっとしてそうお思いの方もあるかもしれません)に対しては、それならいつでも小児科に歓迎しますよとお答えいたします。「こんな事をやるためにこの仕事に就いたんじゃない」という嘆きの度が過ぎるのは、恐らくは”right time, right place”(@内田樹)におられないということだと思うので。当科も苦労は多いけれども、するべくしてする苦労ばかりのように思います。
その上での考察ですが。
ご指摘の、最初は内心に考えることそのものを問題にしていたが、そのうちそれを公言することを問題にするようになったという、私の問題意識のシフトについて考えてみました。
確かにそういうところはあったと思います。最初は、そんな事を考えるのは思慮が浅いというところから批判を始め、そのうちに、そういうことを公言するのは同業者の面汚しだと申すようになりました。
内心に思うことは、内容が何であれその人の自由だと思います。そもそも公言されないと何を考えておられるかは知りようがないので、方法論的にも批判の対象となり得ません。公言されて初めて批判の対象となると思います。その時点で初めて、その思考の内容を聞く立場というものが成立します。聞く立場からの批判が可能となった時点で初めて、公言するなよと言う批判が生じ、ひるがえって(あるいは我々の業界用語では「後方視的に」でしょうか)、そんな思考内容は間違っているという批判も生じ得るのだと思います。ですからこの二つの批判は、まったく別口というよりは、渾然一体となって生じる批判なのではないかと思います。
ホームレスへの嫌悪に限らず、内心に思うことは色々あると思います。それをおくびにも出さず日々の臨床に精進しておられる先生方は、関係者様のみならず、世に多いと思います。そのような己を律しておられる先生方を偽善者呼ばわりするのは中傷というものだろうと思います。むろん諸氏ご指摘のように経済学的考察その他の背景を勉強することで、そういう内心のわだかまりが軽減されればなお喜ばしいと思います。でも臨床の多忙な毎日でそういう知識にアクセスできず、わだかまりをわだかまりのままで抱えておられたとしても、それをじっと抱えたまま日々の臨床に従事しておられるのを、責めるのは不当であると思います。医療行為をきちんとやるのは確かに当たり前のことですが、当たり前の事を当たり前に日々淡々と継続するというのは、ほんらい尊敬に値することではないかと思います。いかなる専門的営為もそうであるように、医療もまた決して容易い仕事ではないのです。その当たり前のことをことさらにお褒め頂いても、それはそれで面映ゆいのですが。わかってるけどお互い面映ゆいから口に出してまでは言わないってくらいが程良いでしょうか。
でも一部の医師が匿名でそれを公言してしまうと、公言した当の本人は当然としても、医師全体がその公言をしたかのような悪印象が生じると思います。とにかく医師は構造的に嫌われることになっている職業です。こんな良い医者が居るから医者って素晴らしいものだという評判よりは、こんなスカな医者が居るから医者って厭なんだという評判の方が世間によほど迅速に駆けめぐるものです。むろん公言したのはその本人だけなので、医師全体がそう公言したかのような悪評というのは正当なものではありません。でも悪評が迷惑なのはその評が正当か不当かにはよらないと思います。正当な評価なら悪評とは言わないとも思います。

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自分はどういう思考フレームにはまっているか

おそらく自分の思考は医者のフレームにはまっていると思う。医者のフレームったってそう貧困と決まったものでもなくて、古来からある職業でもあり、それなりに色々とよくできたフレームではある。
なにより膨大である。これだけ膨大だと量が質に転化するんじゃないかと思う。世の中のたいていの事象にはアナロジーとして使える疾患がある。世の中の営為には「これが診断ならこう・治療ならこう」と対比して考えられる医療行為がある。医療内部のことは言うに及ばず、社会を見る目も、医者のフレームで見ると色々と面白い結論が出せるんだろうと思う。特にそのフレームの極限ぎりぎりまで思索が及べば。
ただやっぱり弱点はあって、世の中の全てを治療対象として眺めてしまうということは、世の中の全てが健常じゃないように感じられると言うこと。ゼロ以下のものをゼロ近くまで戻すというのが我々のフレーム。プラスレベルのものをさらに良い方向へと言う思想は医者の仕事じゃない。
医者あがりの政治家にあんまり大物が出ないのは、そういう医者のフレームを卒業できない限り、あんまり周囲に夢を持って頂けるようなことを語れないためじゃないかと思う。
医者の中でも新生児科医は、小児科医という特殊集団の中のさらに特殊な一団である。自分が医師のフレームと思っている思考形式が実は新生児科医に特有のものだったりすることもあるだろう。あるいは、自分一人の思いこみであることも。
また自分のもう一つのフレームに自閉症児の父というフレームがある。時に医者のフレームと融合したり、対立したり、入れ替わったりする。このフレームもまた自閉症児者の家族に共通するフレームかもしれないし、自分一人のフレームかもしれない。元々自分が医者だったということである程度は歪んでいる。うちのような精神発達遅滞を伴う中機能の、いわば自閉症の王道を行くタイプと、たとえばアスペルガー症候群の子の親御さんとでは、違うところも多々あるだろう。
自分がどういうフレームにはまっているか、何を見ようとしているか、何を見ようとしなかったか。

自分の書いたものを読むのも好き

私は自分の書いた文章を読むのも好きだ。書くのが嫌いなら最初から書かないだろう。書くのは好きだけど自作を読むのが嫌いなら片端から書いて保存せずにファイルを捨てればよい。
時にはあえてそうすることもある。「王様の耳はロバの耳」と叫びたいことは私にだってある。
自分の書いた文章と言っても、私自身にとってもこのブログはyamakawという他者の書くブログである。彼はときどき私にも意外な事を書く。yamakaw君そんなことを考えていたのかと自分でコメントつけたくなる事もある。むろん、彼の語ることには私は責任をとる。
内田先生の著書で拝読してなるほどと思ったのだが、私もまた自分という他者の言葉を聞くという形でしか自分の考えている事を知り得ない。頭の中で考えている段階で、既に、私は自分という他者が頭の中に語り出す言葉を聞き続けている。思考の訓練が中途半端なもので、その語りだした言葉をさらに物理的に書き出してみると、頭の中に聞いた言葉とは何となく違うことを言っているように感じられる。まして、過去に書いたブログ記事から私に語りかけるyamakaw君は、過去の私の分身であって、今の私とは異なる。彼はあくまでyamakaw君であって今の自分じゃない。
読み返しても、決して自分の文章だから陳腐だとは思えない。こう申し上げては読者諸賢に失礼かも知れないが、このブログを私以上に愛読している方はそうそう居られないのではないかと思う。自己陶酔に浸っているばかりじゃない。自分の記事を読みながら、自分の思考のフレームを探っているつもりである。書いたこととともに、ここで自分が書かなかったことは何かと考える。思いつけなかったのか、あえて無視したのか、耐え難くて書けなかったのか。

なぜブログを書くのか

私にとってはこの問いへの答えは単純だ。私はまだ飽きていないからだ。
将来もしも止める事があるとしたら、その理由は「飽きたから」だけでありたいと思っている。ブログ以外にもっと面白そうな形式ができるとか、ネット以外にもっと面白い趣味を見つけるとか。飽きたらいつでも捨てるという闊達さを保ちたいものだと思う。一方で「諸般の事情で残念ながら」休止することもないようにしたいものだと思う。
今のところはブログという形式に満足している。
まず便利だ。自分の書いたものを時系列で自動的に整理してくれる。検索機能やカレンダーもついて、過去に書いた文章へのアクセスも自在である。そりゃあgrepと正規表現で検索一発な人ならシンプルなテキストファイルで十分なんでしょうけれども、私はそこまで達人じゃないし。
見栄えもよい。他人様の作ったスキンを次々取り替えて勿体ない限りであるが、どれをとっても自分では作れないレベルである。自分で作ったものなら多少アンバランスでも辛抱してつかう性分のくせに、その方面に労力を使わないから美しい作品を取り替え引き替え使い放題である。スキン作者の方々には感謝してます。ありがたいことです。
オンラインに置くことでデータの散逸を防ぐことができる。ローカルディスクにテキストファイルで保存するとすぐにどこへ行ったか分からなくなるし、携帯機とデスクトップでシームレスな作業ができないし。デスクトップ機なんて気分によってWindows立ち上げたりLinuxを立ち上げたりしてるからなおのことである。
オンラインに公開することの是非に関して議論はあろう。しかし私はオンラインに拙稿を公開するようになってから読者諸賢に多くの良縁を得た。大変にありがたいことである。このご縁が公開の最大のメリットであったと思う。他サイトに比べても私は読者諸賢のご縁には恵まれているほうではないだろうか。記事の出来映え自体には種々のご意見はあろうが、コメント欄に寄せられる読者諸賢のご意見やトラックバックの読み応えにおいては人後に落ちないと自負している(私が自慢することでもないですが)。自負するどころか、軒下を貸して母屋を取られたような重厚なコメントを頂けることも再々で内心悔しく思ったりもする。なんでこの視点でこの記事書けなかったかなとか。悔しいから滅多にそう認めることはないけれど。