反証に関して開かれた語り方–畏れながら申し上げよ

前回の記事に頂いたコメントでもご指摘を頂き、成る程と思ったのだが、やはり内容に負けず劣らず、語られ方が重要なのだと思う。私にとっては、であるが。
名著「寝ながら学べる構造主義」(内田樹著)既読の人間が今さら何を言うかと自嘲。
対話、とくに反証に対して、いかに開かれた語られ方であるかが重要なのだと思う。
内容は何でも書けるのかもしれない。「ホンネ」として語られる類の、一見して他人の目を憚る内容でも、「これは『ホンネ』なんだから反証は野暮だ」という態度が見えなければ、案外、許容できるかも知れない。常軌を越えた筆力を持つ論者なら、医療ブログの記事で人類の滅亡を希求してなお説得力を持ち得るような文章すら可能かも知れない。具体的にどういう文面になるかは想像も付かないけれど。
逆に、公序良俗に些かも反しない内容であっても、反証を茶化したり拒否したりといった不真面目な態度は面白くない。周知の正論だから論証不要というのは横着かつ怠慢な油断である。反証に対して閉じていると言う点においてはホンネと同様だ。まして、いわゆる「正論」によくある、論証不可能な無茶苦茶な論に正論という銘を刻むだけで読者に丸飲みさせようという不誠実な語り方は、なお面白くない。
私が「医師ブログ」に期待するのは、医療に関してはあくまでも真面目に語られる論説である。何を主張しようと自由であるとしても、語り方においては反証を予期し誠実に対応する真面目な口調が必要だと思う。自分の誤謬の可能性や自説よりも説得力ある異論の存在に関して常に意識した文章を書きたいと思う。その意識があれば自然と、居住まいを正した文章が書けるのではないかと思う。自分の正当さをナイーブに信じて疑わぬ怠慢な文章は、そもそも文章として面白くないし、知性のレベルとして同業者の面汚しにもなりかねない。紋付き袴で居住まいを正して、畏れながら申し上げよ。それに尽きるのではないか。

閑話休題で紋付きについて考えた

内田樹先生の著書のどこかで拝読したことだが。武士のたしなみについて。
紋付きに紋は5つ付いている。前に2つ、後に3つ。紋の中でも最大のものは背中の中央に着いている。自分では最も見えにくいところだが、他人には最も目につく場所である。しかもその背中の紋を見る他者の視線もまた自分からは見えにくい。自分の背中を見る人ってたいてい自分からは見えないところに居ますからね。でもそういう他者から背中の家紋に汚れでも付けられたら正当不当以前に自分の名折れであったわけだから、気を抜くことは許されない。かくして、自分からは見えない場所にいる人が自分の身体の自分からは見えにくい部分に着目する視線を常に意識することとなる。書くだけでややこしいけど、実践はもっとややこしかったはず。
腰にさした刀は自分の左後方へ伸びている。これもまた自分には見えにくい位置である。この刀の先端を他者の刀の先端へ当てるのを「さや当て」と言う。最高に無礼な行為のひとつである。人の刀に当てぬよう、また当てられぬよう、佩刀の先端まで意識することが必要であった。

しかもそこまで面倒な思いをして携える刀を、抜くときは即ち我が身も滅ぶときである。江戸城中ではいかなる理由があろうと抜いたら切腹が決まりであった。どこの家でも家来の口減らしに熱心で、田舎侍が江戸城下で無礼討ちなどしようものなら浪人になるのは確実であった。侍ってやれやれなものだと思う。ご先祖には申し訳ないが。

自分の身体の、自分からは見えにくい部分までも、配慮を怠りなくすること。自分の身体を自分の目以外の視点から俯瞰すること。それが武士のたしなみであったという。割と、現代に通じることかなとも思う(だからこそ内田先生が論じられるのだけど)。私にはリアルの身体に加え、このブログという、我が身に準じるものがもう一つあったりするからなおのこと。