閑話休題で紋付きについて考えた

内田樹先生の著書のどこかで拝読したことだが。武士のたしなみについて。
紋付きに紋は5つ付いている。前に2つ、後に3つ。紋の中でも最大のものは背中の中央に着いている。自分では最も見えにくいところだが、他人には最も目につく場所である。しかもその背中の紋を見る他者の視線もまた自分からは見えにくい。自分の背中を見る人ってたいてい自分からは見えないところに居ますからね。でもそういう他者から背中の家紋に汚れでも付けられたら正当不当以前に自分の名折れであったわけだから、気を抜くことは許されない。かくして、自分からは見えない場所にいる人が自分の身体の自分からは見えにくい部分に着目する視線を常に意識することとなる。書くだけでややこしいけど、実践はもっとややこしかったはず。
腰にさした刀は自分の左後方へ伸びている。これもまた自分には見えにくい位置である。この刀の先端を他者の刀の先端へ当てるのを「さや当て」と言う。最高に無礼な行為のひとつである。人の刀に当てぬよう、また当てられぬよう、佩刀の先端まで意識することが必要であった。

しかもそこまで面倒な思いをして携える刀を、抜くときは即ち我が身も滅ぶときである。江戸城中ではいかなる理由があろうと抜いたら切腹が決まりであった。どこの家でも家来の口減らしに熱心で、田舎侍が江戸城下で無礼討ちなどしようものなら浪人になるのは確実であった。侍ってやれやれなものだと思う。ご先祖には申し訳ないが。

自分の身体の、自分からは見えにくい部分までも、配慮を怠りなくすること。自分の身体を自分の目以外の視点から俯瞰すること。それが武士のたしなみであったという。割と、現代に通じることかなとも思う(だからこそ内田先生が論じられるのだけど)。私にはリアルの身体に加え、このブログという、我が身に準じるものがもう一つあったりするからなおのこと。

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