自分では自由奔放に考えを巡らせているように思っても、実は思考のフレームワークが出来上がっているものだ。なかなか存在すら認識できないものだけど、でも医師がものを考えるときの医師特有のフレームワークは確かに存在する。
これを考えはじめたのは、超低出生体重児の分娩立ち会いとその後の処置から帰った夜に、農学部林学科卒の妻に「林学じゃあ弱い苗は捨てるんだけどね。貴方は一番弱い苗まで一本残さず植え付けようとするものね。」と言われたときである。無論彼女は障害児の母である。弱い苗を簡単に諦めろという人ではない。未熟児医療がつまんない仕事だと言ってる訳じゃない。
例えば医師は物事をトラブルシュートと考える。しかも医師の慣れ親しんだトラブルシュートとは、極めて特殊な形態のトラブルシュートである。
医師のトラブルシュートの仕方は、既存の極めて複雑なシステムを設計図も無いまま与えられ、システムの基本部分は稼働させたまま、手を加えてはシステムの反応を見ることの繰り返しで状況を改善していこうとするもの。システムを全停止してオーバーホールすることはあり得ない。丸ごと捨てて買い換えることもあり得ない。手を加えると言っても、悪くなった部分に手を付けずその機能を代替するサブシステムを付加するという形は滅多に取り得ない。大抵は悪化した部分の除去と、既存の部品の組み替えでしのぐ。これはトラブルシュートを生業とする他業種の方々から見たら相当に特殊だろうと思う。
最も特殊なのは、対象のシステムが自然に回復することがあるということだろう。自然治癒をも計算に入れるトラブルシュートが他の業種で存在するだろうかと思う。とくに小児科は他の診療科よりも自然治癒を多く経験する。それは私の思考にも大きな影響を与えているに違いない。卑近な話、NICUの血液ガス分析装置のメンテナンスをしていて、そういえばこいつは様子を見るうち自分で良くなるということはないんだなと、ふと気付いて新鮮な思いをすることがある。
医師は物事をトラブルシュートと考える。じゃあ何とは「考えない」かというと、メンテナンスだと考える発想は無い。無いと言って支障があるなら、極めて薄いと言ってもよい。例えば病状の安定した子に毎3時間で哺乳しおむつを換え日に一回は風呂にも入れて泣けばあやしてと言った哺育業務を、医師が自分の業務と受け止めることはまず無い。あるいは他科であれ、入院であれ外来であれ、病状が安定しだしたら医師は診察の間隔を開け始める。病状が不安定でトラブルシュートの真っ最中の時期(業界用語では急性期という)と同じ頻度で診察を行うことは滅多にない。たいがいはそれは無駄だと考えている。医師にとってメンテナンスはあくまで「指導」するだけのものであり、実践はあくまで看護師や患者さん本人やご家族によると思っている。だから、医師にとってこの診察は、メンテナンス業務と言うよりは、新たにトラブルシュートの必要な事態が生じるのを予防し、かつ必要時のシュート開始を怠らないための助走段階である。あくまでトラブルシュートの一環なのである。
自分達の言葉の扱われ方も世の中に普遍的なものだと考えがちだ。だが、自分の関連する業務の全てが自分の指示で動くということを法的に規定されている職種が他にあるだろうか。そのために、臨床での医師の言葉は、それが医師から発せられたと言うだけでそれなりの重みを持ち、聞くものに傾聴を強制する。何か言えば取り敢えずは他よりも一段重い言葉として聞いて貰えるという体験が、それを日々体験している人間の語り口に影響を及ぼさないなんてありえない。一般的には、私たちと同年代の人間の言葉は、医師が思う以上に、周囲から聞き流されているのが普通だと思う。「そんな大層に受け止めないでくれよ言いたいことも言えないじゃないか」という贅沢な言説は医師ならではのものだ。たいがい、私たちの同世代は「俺の言いたいことを聞いてくれ」という要求の方が大きいものではないだろうか。違うかな。
医師にとっての理想とは負の状態が零レベルに戻ることである。零レベル以上に持ち上げることは少なくとも医師の義務感のうちにはない。そのフレームワークで、世の中のあれこれを「治療対象」として見ている限り、世の中は問題だらけの負の世界である。世界が基本的には善きものの詰まったプラスレベルの存在だとは考えない。そしてその善きものが善きもののままに保たれるための日々のメンテナンスに、自ら汗を流して直接参加しようとする意思は薄い。自分の言うことが傾聴され、自分の指示が常に誰か他の人によって実行され、誰か他の人がより細やかな目配りで日々の善を維持し続けているという状況に慣れている。
正直、「お母さん」と「看護師さん」がいなけりゃ小児科医なんて口だけの木偶の坊なんだよね。
自己批判的な現状認識でした。
