私は自分の書いた文章を読むのも好きだ。書くのが嫌いなら最初から書かないだろう。書くのは好きだけど自作を読むのが嫌いなら片端から書いて保存せずにファイルを捨てればよい。
時にはあえてそうすることもある。「王様の耳はロバの耳」と叫びたいことは私にだってある。
自分の書いた文章と言っても、私自身にとってもこのブログはyamakawという他者の書くブログである。彼はときどき私にも意外な事を書く。yamakaw君そんなことを考えていたのかと自分でコメントつけたくなる事もある。むろん、彼の語ることには私は責任をとる。
内田先生の著書で拝読してなるほどと思ったのだが、私もまた自分という他者の言葉を聞くという形でしか自分の考えている事を知り得ない。頭の中で考えている段階で、既に、私は自分という他者が頭の中に語り出す言葉を聞き続けている。思考の訓練が中途半端なもので、その語りだした言葉をさらに物理的に書き出してみると、頭の中に聞いた言葉とは何となく違うことを言っているように感じられる。まして、過去に書いたブログ記事から私に語りかけるyamakaw君は、過去の私の分身であって、今の私とは異なる。彼はあくまでyamakaw君であって今の自分じゃない。
読み返しても、決して自分の文章だから陳腐だとは思えない。こう申し上げては読者諸賢に失礼かも知れないが、このブログを私以上に愛読している方はそうそう居られないのではないかと思う。自己陶酔に浸っているばかりじゃない。自分の記事を読みながら、自分の思考のフレームを探っているつもりである。書いたこととともに、ここで自分が書かなかったことは何かと考える。思いつけなかったのか、あえて無視したのか、耐え難くて書けなかったのか。
日: 2005年9月8日
なぜブログを書くのか
私にとってはこの問いへの答えは単純だ。私はまだ飽きていないからだ。
将来もしも止める事があるとしたら、その理由は「飽きたから」だけでありたいと思っている。ブログ以外にもっと面白そうな形式ができるとか、ネット以外にもっと面白い趣味を見つけるとか。飽きたらいつでも捨てるという闊達さを保ちたいものだと思う。一方で「諸般の事情で残念ながら」休止することもないようにしたいものだと思う。
今のところはブログという形式に満足している。
まず便利だ。自分の書いたものを時系列で自動的に整理してくれる。検索機能やカレンダーもついて、過去に書いた文章へのアクセスも自在である。そりゃあgrepと正規表現で検索一発な人ならシンプルなテキストファイルで十分なんでしょうけれども、私はそこまで達人じゃないし。
見栄えもよい。他人様の作ったスキンを次々取り替えて勿体ない限りであるが、どれをとっても自分では作れないレベルである。自分で作ったものなら多少アンバランスでも辛抱してつかう性分のくせに、その方面に労力を使わないから美しい作品を取り替え引き替え使い放題である。スキン作者の方々には感謝してます。ありがたいことです。
オンラインに置くことでデータの散逸を防ぐことができる。ローカルディスクにテキストファイルで保存するとすぐにどこへ行ったか分からなくなるし、携帯機とデスクトップでシームレスな作業ができないし。デスクトップ機なんて気分によってWindows立ち上げたりLinuxを立ち上げたりしてるからなおのことである。
オンラインに公開することの是非に関して議論はあろう。しかし私はオンラインに拙稿を公開するようになってから読者諸賢に多くの良縁を得た。大変にありがたいことである。このご縁が公開の最大のメリットであったと思う。他サイトに比べても私は読者諸賢のご縁には恵まれているほうではないだろうか。記事の出来映え自体には種々のご意見はあろうが、コメント欄に寄せられる読者諸賢のご意見やトラックバックの読み応えにおいては人後に落ちないと自負している(私が自慢することでもないですが)。自負するどころか、軒下を貸して母屋を取られたような重厚なコメントを頂けることも再々で内心悔しく思ったりもする。なんでこの視点でこの記事書けなかったかなとか。悔しいから滅多にそう認めることはないけれど。