公言した段階から批判が始まるのでは

拙稿に貴重なコメントをいただいたのですが、長いお答えになりましたのでコメント欄では不便すぎ、ここは管理者の権限を濫用して新しい記事で回答とさせていただきたく存じます。
私自身はホームレスの方々の医療の公的負担について疑問を持つ立場にありません。道徳的に高潔だというのではなく、単に、この7年ほど小児しか拝見していないからです。時間内は言うに及ばず、当直帯にもNICU当直の傍ら小児のみ時間外救急を拝見しています。一般当直は内科や外科の先生方が別に全科当直で居られますので、成人の診療はほとんどせずに済んでいます。
駆け出しの頃は時間外には救急で成人の患者さんも拝見していました。でも、初期研修はそんなことを考える余裕もないほどハードな三次救急で勉強させて頂きましたし、後期研修はかなり僻地の病院でしたのでホームレスの存在そのものがありませんでした。関西から北陸へ抜ける旧街道沿いではありましたので、ときに行きずりの方が倒れて担ぎ込まれてこられましたが、それほど多数でも高額でもありませんでした。
さすがにホームレスの子どもが患者さんとしてお出でになったことはありません。もしもお出でになったとしても、その子の治療費の支出について疑問を呈される方はまず居られないと思います。むしろ、もしも私が「こんな子の治療のために医者になったんじゃない」などと申したら、「そんなら辞めてしまえ」という憤激の声が多数寄せられると思います。
自分では診てもいないくせに偉そうなことを言うなよとのご批判(今回のご質問をお寄せ下さった関係者さまにそういう愚かなご批判は頂かないものと存じておりますが、一般的意味での関係者様の中にはひょっとしてそうお思いの方もあるかもしれません)に対しては、それならいつでも小児科に歓迎しますよとお答えいたします。「こんな事をやるためにこの仕事に就いたんじゃない」という嘆きの度が過ぎるのは、恐らくは”right time, right place”(@内田樹)におられないということだと思うので。当科も苦労は多いけれども、するべくしてする苦労ばかりのように思います。
その上での考察ですが。
ご指摘の、最初は内心に考えることそのものを問題にしていたが、そのうちそれを公言することを問題にするようになったという、私の問題意識のシフトについて考えてみました。
確かにそういうところはあったと思います。最初は、そんな事を考えるのは思慮が浅いというところから批判を始め、そのうちに、そういうことを公言するのは同業者の面汚しだと申すようになりました。
内心に思うことは、内容が何であれその人の自由だと思います。そもそも公言されないと何を考えておられるかは知りようがないので、方法論的にも批判の対象となり得ません。公言されて初めて批判の対象となると思います。その時点で初めて、その思考の内容を聞く立場というものが成立します。聞く立場からの批判が可能となった時点で初めて、公言するなよと言う批判が生じ、ひるがえって(あるいは我々の業界用語では「後方視的に」でしょうか)、そんな思考内容は間違っているという批判も生じ得るのだと思います。ですからこの二つの批判は、まったく別口というよりは、渾然一体となって生じる批判なのではないかと思います。
ホームレスへの嫌悪に限らず、内心に思うことは色々あると思います。それをおくびにも出さず日々の臨床に精進しておられる先生方は、関係者様のみならず、世に多いと思います。そのような己を律しておられる先生方を偽善者呼ばわりするのは中傷というものだろうと思います。むろん諸氏ご指摘のように経済学的考察その他の背景を勉強することで、そういう内心のわだかまりが軽減されればなお喜ばしいと思います。でも臨床の多忙な毎日でそういう知識にアクセスできず、わだかまりをわだかまりのままで抱えておられたとしても、それをじっと抱えたまま日々の臨床に従事しておられるのを、責めるのは不当であると思います。医療行為をきちんとやるのは確かに当たり前のことですが、当たり前の事を当たり前に日々淡々と継続するというのは、ほんらい尊敬に値することではないかと思います。いかなる専門的営為もそうであるように、医療もまた決して容易い仕事ではないのです。その当たり前のことをことさらにお褒め頂いても、それはそれで面映ゆいのですが。わかってるけどお互い面映ゆいから口に出してまでは言わないってくらいが程良いでしょうか。
でも一部の医師が匿名でそれを公言してしまうと、公言した当の本人は当然としても、医師全体がその公言をしたかのような悪印象が生じると思います。とにかく医師は構造的に嫌われることになっている職業です。こんな良い医者が居るから医者って素晴らしいものだという評判よりは、こんなスカな医者が居るから医者って厭なんだという評判の方が世間によほど迅速に駆けめぐるものです。むろん公言したのはその本人だけなので、医師全体がそう公言したかのような悪評というのは正当なものではありません。でも悪評が迷惑なのはその評が正当か不当かにはよらないと思います。正当な評価なら悪評とは言わないとも思います。

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自分はどういう思考フレームにはまっているか

おそらく自分の思考は医者のフレームにはまっていると思う。医者のフレームったってそう貧困と決まったものでもなくて、古来からある職業でもあり、それなりに色々とよくできたフレームではある。
なにより膨大である。これだけ膨大だと量が質に転化するんじゃないかと思う。世の中のたいていの事象にはアナロジーとして使える疾患がある。世の中の営為には「これが診断ならこう・治療ならこう」と対比して考えられる医療行為がある。医療内部のことは言うに及ばず、社会を見る目も、医者のフレームで見ると色々と面白い結論が出せるんだろうと思う。特にそのフレームの極限ぎりぎりまで思索が及べば。
ただやっぱり弱点はあって、世の中の全てを治療対象として眺めてしまうということは、世の中の全てが健常じゃないように感じられると言うこと。ゼロ以下のものをゼロ近くまで戻すというのが我々のフレーム。プラスレベルのものをさらに良い方向へと言う思想は医者の仕事じゃない。
医者あがりの政治家にあんまり大物が出ないのは、そういう医者のフレームを卒業できない限り、あんまり周囲に夢を持って頂けるようなことを語れないためじゃないかと思う。
医者の中でも新生児科医は、小児科医という特殊集団の中のさらに特殊な一団である。自分が医師のフレームと思っている思考形式が実は新生児科医に特有のものだったりすることもあるだろう。あるいは、自分一人の思いこみであることも。
また自分のもう一つのフレームに自閉症児の父というフレームがある。時に医者のフレームと融合したり、対立したり、入れ替わったりする。このフレームもまた自閉症児者の家族に共通するフレームかもしれないし、自分一人のフレームかもしれない。元々自分が医者だったということである程度は歪んでいる。うちのような精神発達遅滞を伴う中機能の、いわば自閉症の王道を行くタイプと、たとえばアスペルガー症候群の子の親御さんとでは、違うところも多々あるだろう。
自分がどういうフレームにはまっているか、何を見ようとしているか、何を見ようとしなかったか。