かねてより尊敬しているサイトにて+ 駝 鳥 + – ナチスドイツの障害者抹殺計画は財政論的に根拠付けられていた~なぜ国家によって人は抹殺されうるのかなる記事を拝読した。
高度な議論が展開されているサイトにトラックバックするには、拙文はいささか幼稚な感慨ではあるが、下記のようなことを考えた。
ナチスの優生思想は、まがりなりにも生命倫理の思想が行き渡ったはずの現代とは全く隔絶した異常なものだと思っていた。いちおう、それが我々の業界筋の公式見解でもあることだし。しかしこの記事を拝読すると、現代の障害者に対する視線のごく合理的な延長線上に、ナチスの優生思想が無理なく乗っかってくるように思えた。ナチスを克服したように思いこんでいて、実際はナチと我々の差は強度の差に過ぎないようにも思えてきた。
今さらそんな事に気付いたというのでもなく、あえて無視してきたという面はあるかもしれない。NICUで重症新生児の治療方針について議論しているときに、ふと、今の自分達の議論とナチの倫理との境界はどこかと考えることがある。境界を考えるということは、同一の空間で互いに接しあっていると暗に認めたということではないか。これ以上続けても苦痛しか生まない延命処置を中止するべきだろうかという議論と、生きるに値しない命の抹殺と、その間には境界線が必要になるだけの連続性があるということか。
境界線が必要なほどお互いに接しているというだけで許され難いような気もする。しっかりした境界線があればそれでよい、十分な緩衝地帯が確保されていればなお宜しいという論も成り立つような気もする。どうなのだろう。
自分達は生命を慈しんでいるがナチは障害者をゴミのように捨てたという境界線の引き方ができるだろうか。ナチス時代の面々だって、自分達は生命を慈しみ尊重する故に生きるに値しない人生から解放してさしあげるのだと、自ら信じていた面があったかもしれない。彼らは慈悲に溢れた心でガス室のスイッチを押していたのかもしれない。あるいは、ユダヤ人であるという不幸や障害者であるという不幸から彼らを救い出す方法がこれしかないのだという無力感や慚愧の念に涙していたかもしれない。彼らの自身に対する倫理的評価は、決して、今の私たちのそれより低くはなかったに違いないとは思う。
不勉強で彼らが実際にどう考えていたのか私は知らない。知りたいと思う。後世に批判者により書かれた本では、彼らが鬼畜であるとの思い込みが先に立って、彼ら自身は自分達のやってることを何とも思わなかったか或いは自分達でも鬼畜行為だと思ってやってたかのどちらかだったように決めつけられている。少なくとも私はそんな本しか読んだことがなかった。でも、彼らは案外と私たちと紙一重な考え方をしていたのかもしれない。あるいは後世の私たちのほうが、自分達が思っている以上に彼らと紙一重なところに居るかもしれないとと申すべきなのか。
トラックバックもと記事のコメントで、筆者のswan slab氏は
現代の監視社会なり管理アーキテクチャーのなかでの音を立てない静かな暴力というものに、”全体主義”の連続性をみるわけです
と御言及である。この言葉が胸に響く。
重症新生児の治療方針に関して、私たちは万能の指針を欲しがる。その指針にさえ従えば道徳的にも法的にも免罪が得られるような指針を。「疾患Aなら救命不要」などという露骨なものは言うに及ばず、「多くの意見を求め倫理委員会にも諮って決めましょう」といったメタレベルの指針であっても、結局は免罪を得られる万能の指針には違いない。これもまた「現代の監視社会なり管理アーキテクチャー」なんじゃないかと思う。私たちは自らを監視し、社会に対して自らを弁明する。
むろん、とことん心マッサージを続けることが最善ではない。どこかの時点で、自分たちの手から母親の手へ赤ちゃんをお返しせねばならぬ。それはそういうものだと私は思う。でも「そういうものだ」というこの言葉こそ、コメント欄に議論されている「空気」ではないかとも思う。それで我々の仕事が完遂できたと申しあげてしまっては、その空気に流されているだけじゃないかとも思う。赤ちゃんの生命を慈しんだつもりで、実は「音を立てない静かな暴力」をふるっているのではないかという懸念がどうしても残る。
赤ちゃんに対しても、じつは親御さんに対しても。