街場のアメリカ論 その一

「街場のアメリカ論」内田樹著・NTT出版がBK1から届いたので読み始める。
ちなみに書籍のネット通販は可能な限りアマゾンからBK1に乗り換える予定である。アマゾンは梱包が嵩張り過ぎる。
読み出したところで早速にも書き込むのは、偏に、昨日の記事は本書を読む前に書いたのだよとオリジナリティを主張する目論見なのであるが、しかし内田先生のブログを常日頃読んでいてはあの記事にはどのみちオリジナリティなど私は主張すべくもないのである。あれあれ。私は何を言いたいのか。
本書に、何故にアメリカンコミックは面白くないのかの論考がある。それは出版社がコピーライツを持って、シナリオライターや画家を雇って描かせているからだそうだ。それじゃあ画家には芸術的想像は無理だ。アメコミの発行部数は年間600万部、日本の漫画の発行部数は年間15億冊だとのこと。

出版社がコピーライツを占有して、完全な分業制作体制で漫画を流れ作業で作っていること。これは「テーラー・システム」以来のアメリカ産業の標準的システムであり、ひさしくアメリカ社会の強みとされてきたものですが、こういうところでは期せずして致命的な脆弱生を露呈してしまう。作業工程を分割して、各工程では単純な繰り返し作業をさせて、だから担当者をいくらでも取り替え可能にしてあるシステムだと、誰かがいなくなっても、違う人を連れてきて、その工程に押し込めば、システムは破綻しない。そういった機能的分化というものは、すでにできあがったシステムを効率的に運転するうえでは有効です。でも、そこからイノベーションは生まれません。各単位が取り替え可能に構築された分業システムには創造はできないんです。残念ながら。

新生児医療もそうだよねと思う。
Journal of Perinatologyの本年9月号で米国発の「腸穿孔を起こした極低出生体重児の神経学的予後」なる論文を読んでいた。論文そのものは私らの業界筋の内容なのだが、その中に「4年間通算で腸穿孔を起こした62人の極低出生体重児では・・・」と論じてあった。4年で62人ってどういう人数だよと思った。私らの施設で過去10年通算でも腸穿孔を起こした赤ちゃんって10人居ないんじゃないか?どういう全身管理してるんだよヘボいなと思ったが、母集団の人数を見たら、そのNICUには過去4年で極低出生体重児が1357人入院してるんだそうだ。平均で300人以上。毎日一人の極低出生体重児。

靖国参拝

「特攻と日本人」を読み終えたところへ、小泉首相の靖国参拝のニュースが入った。型どおりに中国と韓国から批難され、米国からは「靖国参拝と6カ国教義は別だということを関係諸国はちゃんとわかってるはずだ」と国務省の誰かが高踏的な口調で述べた。東アジアで日本と中国韓国があんまり親密になっては米国の立場がなくなるので、日本政府は中国や韓国の神経をときどき逆撫でしておく必要がある。内田先生のブログに書いてあったとおりの筋書きである。
小泉さんを無思慮な直情径行の人と予断してはならない(そう予断して大変な目にあった人が今回の選挙で数多く居た)。彼の行動は老獪な政治家のそれだ。首相の靖国参拝も、日米関係の問題として考えれば全く筋が通ったことなのだ。靖国参拝は米国の国益に適うことなのである。小泉さんは日米友好のために靖国へ参拝しているのである。そうでもなければ、A級戦犯を祀った神社を首相が参拝するのを、米国が黙認するはずがない。彼らをA級戦犯と断じた東京裁判の中心になったのは米国である。東京裁判の結果を受け入れますって言うから講和したんじゃないかよと言われて当然なのである。米国民にとっても、イオウジマやオキナワというのはそれなりの犠牲を払った土地として記憶されていると聞く。米国の退役軍人会の面々から「コイズミがトージョーを神として拝むのはけしからん」と批難の声が上がらないのは本来不自然だ。原爆の正当化に関してはあれだけ神経質な面々なのに。その声が上がらないのは上がらないようにする意図がどこかで働いているのである。
首相は毎夏の原爆忌において米国非難の色彩をいかに薄めるかには可哀想なくらい神経質になっている。原爆忌を報じるニュースに登場する小泉さんの顔色の悪さは目に余る。まるでブレジネフ時代のチェコ首相がプラハの春の犠牲者を追悼する集会(ブレジネフ時代にそんな集会を開催できたとしてのことだが)に出席して挨拶をしているかのような怯え方である。特攻の記念館で泣く人が原爆の犠牲者には無神経というのでは判断力の一貫性を欠く。思想の左右を問う前に責任能力を問わねばならぬ。首相も大変だよなと同情する。私は以前ほどには、小泉さんの靖国参拝を非難する気分になれなくなっている。

戦後60年の「零のかなたへ」

この夏から秋にかけて、先の太平洋戦争に関する書物やテレビ番組を色々とみた。最初はNHKで8月に放送された「零戦ニ欠陥アリ ~設計者たちの記録」を観た。装甲が皆無であるとは知っていたが、急降下時に速度を上げすぎると操縦が不安定になるという欠陥は初耳だった。
ついで「零のかなたへ」なるテレビドラマを観た。現代の漫才師が交通事故のはずみに昭和20年8月の特別攻撃隊基地にタイムスリップするという設定。これまで特攻隊を扱った番組はテレビであれ映画であれ種々の理由で忌避してきたので、映像で特攻隊員の姿を見るのは初めてであった。この物語はそれなりに評判を集めていると噂に聞いたので敢えて観ることにした。
やはり、「零戦ニ欠陥アリ」の予備知識のお陰か、「それ嘘だろ」と突っ込みたくなる点が多くあった。
ドラマでは出撃した全員が突入に至り命中してたけど、20年8月の時点で、戦闘機の護衛も無しに特別攻撃機が米艦へ無事に到達できるものかよと思う。制空権なんて全部向こうがもってるのに。実際には米軍機に撃墜される恐れがあるため本土基地での飛行訓練もままならなかったと聞く。あるいは、もともと高速で降下する際の不安定さが最大の弱点であった零戦に、練度の低い操縦士と重い爆弾を積んで敵艦に体当たりさせるって、全員が全員命中するわけないじゃないかとも思う。海面に突っ込んでしまった機体も数多いのではないか。あるいは一直線のコースしか取れないために容易に艦上から機銃で狙えたりとかするんじゃないか。
出撃間際に米戦闘機が飛行場に攻撃してきたときに、特別攻撃機がそのまま離陸して撃墜するというシーンもあった。タイムスリップした漫才師たちの心情の転機にもなる重要なシーンだったけど、特攻機はそもそも機銃や銃弾は積んでいなかった。計器類に至るまで取り外していたはずだ。ドラマでは爆弾を捨てた形跡もなかったけど(あれば爆発して滑走路に穴があいたはず)、爆弾を積んだまま離陸直後に急上昇して当時の米機に追いつけるほどの出力は零戦にはない。むしろ、急激に機首を上げた場合、失速して墜落する危険のほうが遙かに大きいのではないか。しかもその零戦の機銃弾数発で米軍機が炎上してたけども、装甲の厚い米軍機が零戦の機銃弾が数発当たっただけで爆発炎上するはずがない。そもそも、ろくに飛行訓練もしていない学徒兵が重い爆弾をくくりつけた零戦で米軍機とまともにやり合って勝てるようならね、戦争に負けるわけが無いじゃないか。
フィリピンで撃墜王と言われた名パイロットが、志願して特攻隊員になり他をも誘っていたという逸話もあった。それってどうなの?残り少ない熟練パイロットを使い捨てるような作戦にそこまで積極的に志願できるものだろうか。俺を捨てるようじゃもう負け戦だと諦めて自分ひとり参加するというのなら分かるけど、他人まで誘うかな。これは嘘だろうとまでは言わないけれど、なんかあり得ないことのような気がする。
全体に、あり得ないくらい神風特別攻撃隊の作戦が上手くいっていたかのような錯覚を抱かせるドラマであった。隊員たちも体当たり攻撃の成功率に関してはあんまり疑念を持ってないようで、彼らの思索は体当たりが成功して一定の戦果が挙がることを前提として始まっていた。途中で撃墜される確率が例えば9割越えてますよという話になれば、隊員たちももうちょっとドラマには描かれなかったような事をあれこれと考えてたのではないかと思う。史実の上ではどうだったのだろう。隊員のみなさんは作戦の実情をどれくらいご存じだったのだろうか。現場はもうちょっとじたばたした状況じゃなかったのだろうか。そのジタバタをそのまま描いたとて彼らを冒涜することにはならないと思うのだが。こんなお気楽なドラマには、もうちょっと大変だったのだよと、むしろ彼らから時を越えてのクレームが付くのではないか。
タイムスリップして当時の特攻隊員の身体に入れ替わってしまうという設定で、漫才師たちもだんだんと元の特攻隊員の精神が入り交じってしまって、最終的には特攻隊員として出撃して行く。むろん、そうでもしないと漫才師がいきなり零戦を操縦できるという話の設定が成立しないからしかたない。しかし、彼らが妙に達観して飛び立っていったのも、必然的な帰結なのだろうか。当時の特攻隊員の同僚たちですらそれなりに死を思って苦悶の末に出撃して行く中にあって。私は、現代の漫才師でも十分納得して自発的に特攻へ行けるんですよと、そういうメッセージを番組に読んでしまった。あるいは特攻ってそういうリーズナブルな作戦なんですよと。爆弾かかえて敵に突っ込むって案外と抵抗無くできることですよと。なんかすごく特攻隊員の方々を馬鹿にしたお話じゃないかとも思うんですけど。しかも漫才師だけは突入シーンが無いんだよね。現代人が我が身に置き換えて観るべく配置された登場人物の死ぬシーンだけは描かれない。なんか欺瞞的な気がします。
それってどうなの?戦後60年に語る物語としてふさわしいの?むしろこれから米軍相手に自爆テロやりますよって人らが戦意鼓舞のために観るのに手頃なドラマじゃないかって気がするんですけど。海外メディアは自爆テロを報じるのに”Kamikaze”の語を常用してるんでしょ?あるいは逆に、元々は「誰だって死ぬのは恐いにきまっとるやろ」とか、「ことわられへんかっただけなんとちゃうん?」とか言ってた漫才師ですら最後には自ら飛び立ってしまうと言うところで、心理操作って恐いよというメッセージを籠めたんだろうか。そうは読めなかったけどな。

audi よりもステファニーが欲しいな

audiを買いませんかというスパムトラックバックが来た。私に言うてるのなら残念ながら見込みを誤ってる。私には宝の持ち腐れだろう。メカニックとしての自動車には魅力を覚えないでもないが、京都市内では車の維持費を考えたら外出のたびにタクシーを使う方が余程安価だ。
そもそも私は完全なペーパードライバーだ。しかしペーパードライバーだから安い車でいいやなんて思ってると、結局は安い車なんだから大事にしなかったり車庫に入れたまま全然乗らなかったり(だって大事にして重宝に使うんだったら最初から高い車を買えば快適で良かったんじゃないかなんていう後悔がつきまとうだろう)それが事故につながったりして色々と不愉快だろうと思う。車を買うとしたら、ペーパーだからこそアウディかもしれん。
ちなみに先のコメントで大変羨ましかった人工呼吸器「ステファニー」もこの手の車と同じくらいの価格である。人工呼吸器は医者の私費で買うものではないにせよ、どっちかというとアウディよりもステファニーが欲しいなとは思う。
このスパムは消しませんが管理不行き届きのお叱りはご勘弁下さい。それと、別にアウディを推奨してる訳ではありませんので(貶してるわけでもないけど)、ご購入の際はご自身の判断とリスクでお願い致します。

ER

昨夜は遅く帰った。眠いのに頭の芯が冷えなくて寝付けず、テレビを付けたらERをやっていた。9シーズン目の初回作らしかった。カーター君がずいぶん逞しくなっていた。ルイス先生が随分と太られた。外科の女医さんが随分と傷心だったがこの人はカーター君と昵懇だったんじゃなかったか?久しぶりに観たので勝手がわからない。何シーズン目まで見てたんだっけか。あの杖をついた女医さんが登場したときに何なんだこの厭な奴はと思ったのは覚えているのだが。
医学的に考察して彼らの処置がどうよというのは私はあんまり考えてない。お国柄も違うし。例えば私は医者になってからこれまで「Oマイナス10単位!」と叫んだことはない。でも他の番組のように「挿管しろよ!」とかテレビに突っ込んで妻の苦笑を買うことも無い。それなりに高レベルの監修者がついてるんじゃないだろうか。あるいは、ERではなくてNICUだったら突っこみどころも見えるのだろうか。
この番組では目下の患者さんの処置が終わる前に次の患者さんがやってくる。これは臨床の様子を正確に描写している。この番組で私が最大に評価しているのはこの点である。他の番組みたいに拗れた患者さん一人に尽きっきりになってても他の仕事が滞らずに済むってことは、実際にはあり得ない。

祭について 「岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記」江弘毅著・晶文社

「岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記」江弘毅著・晶文社を読んでいる。耽読すると言うに近い。二度、三度と読む。どこを開いても内容が濃い。

だんじり祭についての話は、それこそ「なんぼでも」あり、話し出すと止まらないのだが、それをよく分かるにはとにかく、何ごとに関しても「よく生きる」ことが精神において中心命題である、というオーソドックスな「生とは何か」を確認していくようなひたむきさが必要だ。
「オレが行かんとだんじりは動けへん」「自分一人でだんじりを走らせ曲がらせてる」と思っている個性的な男たちが、けれども決して一人だけででしゃばらずに、諸先輩方から伝承された祭のさまざまな約束事の上で、祭礼組織や祭礼団体の中で、個としてやっていく。
 それは「自分のなしうるものの果てまで進んでいく力」(ドゥルーズ)みたいなもので、だからこそたくさんの男の力が一つの大きな動きとなる、だんじりの姿は何よりも美しい。

江氏を始め岸和田の人々は毎年の祭を極めて丁寧に扱っている。ご当地なりの荒々しさではあるが。生活は祭を中心に回っている。祭は決して当日だけで完結するものではない。一年掛けて寄り合いを重ね準備をする。準備と言ってしまっては軽々しいような気もする。年間通して生業と祭とを二重に暮らして居られる。だんじり祭の当日はあくまでもそのクライマックスである。まったき平々凡々とした地方都市の冴えない日々がその日だけ相転移するというような軽率な話ではない。その日が来たら観に行って日頃の憂さを晴らしてこようというような使い捨てのイベントではない。
年齢を重ねるにつれ祭において自分が果たす役割が変わっていく。同じ年齢での祭は二度と無く、従って祭は毎年行われるが一期一会でもある。この祭は二度とない。その掛け替えの無さを全員が知り尽くしているから、白けた人間が居ない。余力を残して事に当たるような怠惰で不誠実な人間が居ない。責任をとるなどという半端な言説を弄ぶ者も居ない。責任は全うするものだ。
ライフサイクルの中でその時々の位置云々と、書こうとしたがどうにもしっくり来ない。ライフサイクルなどという小規模な個人的視点を中心とした概念ではなく、彼らはもうちょっと高いところから俯瞰した大きな構造の中の一部として自分の立ち位置を考えている。しかし決してそれが自分を矮小化することにはつながらない。その大構造を自分が支えていると思っている。そういう強烈な矜持をもつ人々である。一方でその矜持も出過ぎた姿勢にはつながらない。各人の責任を強烈に全うしておられる。
祭りの後の物憂げさなど、祭の当日だけやってきて祭を消費しようとしただけの通りすがりが、この大きな構造に当然にも参加できなかったことで感じる身の置き所の無さではないのかと思う。そんな部外者の感傷は詩にはなるかも知れないが祭りの本質を語るものではない。部外者が感傷に浸っている時分には、祭の主人公たちは早速に次の祭へ進み出しているものなのだ。祭が一期一会であるということと、終わった祭を自分一人が終わらせ得ないで居ることとは、決して同じ事ではない。祭は一期一会である故に、終わるときには潔く終わるものなのだ。

吸引は意外に苦しい

超低出生体重児の気管内吸引(痰の除去)につかう吸引カテーテルを、試しに口にくわえてみた。ヒュッ、と口の中から空気が吸い出される。胸の中からまで空気が吸い出されるような感じ。意外に苦しいものだ。手早くやるようにしないと赤ちゃんもあれは辛いだろうと思う。
口にくわえてサイドホールを開いたり閉じたりしてみる。手元のサイドホールを閉じるとカテ先に吸引圧がかかる。指を閉じるタイミングと口の中に陰圧がかかるタイミングの差をはかってみる。このタイムラグを意識したほうが効率よく優しく吸引ができるだろうと思う。何事も知らないよりはまし。

「靖国問題の精神分析」岸田秀×三浦雅士 新書館

東京からの帰りの新幹線で読み始めて本日読了。
精神分析の人が「自閉」という語を使うと反射的に腹が立つので、私は岸田という人にはあまり好感が持てなかった。しかし三浦雅士さんの語り口が面白くて読み終えてしまった。どうも、この人は基本的に岸田さんを尊敬しているというスタンスで、岸田さんの「岸田理論」を用いて岸田さんの最近の言動(小泉首相の靖国参拝に賛成して居られる)を批判しているらしい。三浦さんの「岸田理論」の読みが岸田さん本人にも否定できないくらい正確で、しかしその読みと応用が正しいと言ってしまうと最近の言動を自ら否定することになるので、岸田さんはかなり困って居られる。岸田さんが「いやそんなことはないでしょう」と言いかけると、三浦さんが「いや岸田さんの「○○」を読んでそう思ったんですと切り返すことが繰り返される。相手を尊敬するスタンスを崩さず相手の言説を用いて相手を論破してしまう。そういう議論の仕方が読んでいて勉強になった。
国家もまた個人と同じように精神分析で語ってしまえるってのが岸田理論らしいんだけれども、

岸田 三浦さんの比喩はちょっと過激すぎますよ。そのような譬え話が日中関係に当てはまるとは思えません。まるで日本兵全員が罪もない中国娘を強姦殺人したみたいじゃないですか。
三浦 国家を個人として描こうとするとそうなってしまうんですよ。

こんな一節を読むと三浦さんはご本人のお言葉ほどに「岸田理論」を尊敬して居られるんだろうかとも思えてくる。
岸田さんは繰り返し、人間は本能が壊れているが動物は無用の殺しをしないと仰る。そりゃあ勝手な思いこみだ。例えば竹田津実先生が書かれた「子ぎつねヘレンがのこしたもの」一冊読んでみるとよい。親ギツネに虐待されて重度の障害を負った子ギツネの話である。児童虐待はキツネにもポピュラーなことなのだと竹田津先生は仰る。キツネもまた本能が壊れてるんだろうか。あるいは人格形成に関してブランクスレート的な考え方をして居られるようにも読めたけど、スティーブン・ビンカーなんて人らの説やらプレヒテル先生らの発達神経学やらをどうご評価になってるのだろう。でもこれは私の誤読だろうか・・・だって人間は本能が壊れてるという言説と人格は生後の体験で作られるという言説は矛盾するようにも思えるし。
一神教云々と語って居られるところも、それって「アンチ一神教」としてそれ自体が一神教と化した言説じゃあないですかと突っ込んで見たくなるんだけれども、岸田さんには「一神教vs多神教」という著書もあるらしいのでそちらをまず読んでから。