「岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記」江弘毅著・晶文社を読んでいる。耽読すると言うに近い。二度、三度と読む。どこを開いても内容が濃い。
だんじり祭についての話は、それこそ「なんぼでも」あり、話し出すと止まらないのだが、それをよく分かるにはとにかく、何ごとに関しても「よく生きる」ことが精神において中心命題である、というオーソドックスな「生とは何か」を確認していくようなひたむきさが必要だ。
「オレが行かんとだんじりは動けへん」「自分一人でだんじりを走らせ曲がらせてる」と思っている個性的な男たちが、けれども決して一人だけででしゃばらずに、諸先輩方から伝承された祭のさまざまな約束事の上で、祭礼組織や祭礼団体の中で、個としてやっていく。
それは「自分のなしうるものの果てまで進んでいく力」(ドゥルーズ)みたいなもので、だからこそたくさんの男の力が一つの大きな動きとなる、だんじりの姿は何よりも美しい。
江氏を始め岸和田の人々は毎年の祭を極めて丁寧に扱っている。ご当地なりの荒々しさではあるが。生活は祭を中心に回っている。祭は決して当日だけで完結するものではない。一年掛けて寄り合いを重ね準備をする。準備と言ってしまっては軽々しいような気もする。年間通して生業と祭とを二重に暮らして居られる。だんじり祭の当日はあくまでもそのクライマックスである。まったき平々凡々とした地方都市の冴えない日々がその日だけ相転移するというような軽率な話ではない。その日が来たら観に行って日頃の憂さを晴らしてこようというような使い捨てのイベントではない。
年齢を重ねるにつれ祭において自分が果たす役割が変わっていく。同じ年齢での祭は二度と無く、従って祭は毎年行われるが一期一会でもある。この祭は二度とない。その掛け替えの無さを全員が知り尽くしているから、白けた人間が居ない。余力を残して事に当たるような怠惰で不誠実な人間が居ない。責任をとるなどという半端な言説を弄ぶ者も居ない。責任は全うするものだ。
ライフサイクルの中でその時々の位置云々と、書こうとしたがどうにもしっくり来ない。ライフサイクルなどという小規模な個人的視点を中心とした概念ではなく、彼らはもうちょっと高いところから俯瞰した大きな構造の中の一部として自分の立ち位置を考えている。しかし決してそれが自分を矮小化することにはつながらない。その大構造を自分が支えていると思っている。そういう強烈な矜持をもつ人々である。一方でその矜持も出過ぎた姿勢にはつながらない。各人の責任を強烈に全うしておられる。
祭りの後の物憂げさなど、祭の当日だけやってきて祭を消費しようとしただけの通りすがりが、この大きな構造に当然にも参加できなかったことで感じる身の置き所の無さではないのかと思う。そんな部外者の感傷は詩にはなるかも知れないが祭りの本質を語るものではない。部外者が感傷に浸っている時分には、祭の主人公たちは早速に次の祭へ進み出しているものなのだ。祭が一期一会であるということと、終わった祭を自分一人が終わらせ得ないで居ることとは、決して同じ事ではない。祭は一期一会である故に、終わるときには潔く終わるものなのだ。