生命学について森岡正博先生のお話を伺った

森岡正博先生のお話を伺う機会を得た。先生の「生命学」と仏教思想との関連はどうなんだろうと思った。
生命学の目標として「死ぬ時点で後悔のない」という表現をなさったので、講演後の質疑応答で「それは仏教で言う『成仏』ってことでしょうか」と尋ねてみた。他にも森岡先生が「まだ名付け得ない概念」として色々とお話になった内容が、「因果」とか「煩悩」とか「不立文字」とかといった仏教の言葉でクリアに説明できそうな気がした。先生は延々と「車輪の再発明」をなさっておられるのではないかとさえ思えた。
先生のお答えでは、あくまで従来の宗教の外から、例えば仏教の生命学的断面といった考察も出来ようということであった(そう理解しました)。そのときは納得したような気もしたんですが、しかし、今になって考えればそれって「在家」ってことではないかとも思える。先生が採用されたお立場すらも仏教には表現する言葉があるってことでは?
第一、生老病死の四苦を「諦める」のが仏教の本質とすれば、仏教の生命学的断面と言ってしまえばそれは即ち仏教そのものを語ることになりはしまいかとも思える。先日の講演でお伺いした限りでは、如意棒すら操らぬ浅学非才の身で大人を批判して誠に失礼ながら、森岡先生が釈迦の掌を出ることは難しそうに思えた。
私の理解が生命学に関しても仏教に関してもまだまだ未熟であるから、いたずらに相手が矮小に見えているだけかもしれない。それはそうなんですけどね、でも私が質問で仏教用語を出したら会場から失笑が洩れたにはちと呆れた。私の理解の浅さを笑ってではなく、単にこの仏教用語が手あかの付いた陳腐な日常語に聞こえた故の失笑のように思えた。仏教の思想体系がどれほど豊穣なものか、笑った面々の半分以上はおそらく考えたことも無いんだろうなと思った。あるいは森岡先生は既に仏教について詳細な論考をなさっておられ、私が「FAQ」とか「過去ログ」とかを読んでない愚かな初心者的質問をしてしまったってことだろうか。よく分からん。

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