車を出したいんでその救急車をどけてくれない?

久々の新生児搬送。なんか最近私が搬送番の時には依頼がなくて、救急車に乗ってみたらずいぶん久しぶりな気分がした。
赤ちゃんは、まあ搬送になるくらいだから何でもないって訳じゃないんだけど、とりあえず申し送りを聞いて搬送用保育器に載せ替えて、お母さんの病室へ立ち寄ってちょっと面会してから救急車でNICUへ帰る。産院到着から出発まで約15分。
帰路、運転手さんが苦笑して言うには、病院駐車場で待ってたこの15分間に、「車を出すからその救急車をどけてくれないかな」と言われ救急車を車道まで出さなければならなかったとのこと。それも2回も。
聞いてちょっとムカッとしたけれども。患者さんの搬送出発をじりじり待ってる救急車にどけよって言われてもなあ。身内の搬送じゃなかったら救急車なんかどうでも良いのかな。しかし考えてみればこの救急車が車寄せに何時まで居座ってるか分かったもんじゃないし、保育器の積み下ろしの真っ最中ならともかくも、徒然なさそうに運転士が待ってるだけのうちに用件をさっさと片づけておこうという配慮を頂いたのかも知れず。まああんまり世の中をひねた目で見ないようにしよ、と思った。
帰り道にちらっと見えた外来ロビーのテレビに、話題の永田議員が出演していた。釈明の会見だったのかな。そういう午後のお話。

京大病院に70億円

任天堂の山内相談役、京大病院に私財70億円寄付
人の心は堀江貴文氏の想定の範囲を超えて高価なものだし取引場所も限られる。でも、もしも金で人の心を買うとしたら、こういう買い方がもっとも真っ当な買い方ではないかと思う。
堀江さんは人の心は金で買えると気付いていながら、実際には全然買ってなかった。金を担保に借りてただけだった。だから担保を失ったとたんに人心が離れた。正しく買っていたのなら、今でも、堀江さんを弁護する声がどこからか聞こえてくるはずだ。私が今まで聴いた堀江弁護の声はリングサーバーがらみの一件だけだ。
それはそうとしても山内さんの浄財70億円を得て新築される病棟はどういう病棟になるか。
1.8階建ての外壁をぶち抜いて高さ30mのピカチュウの絵が描いてある。
2.診察券はポケモンカードで絵柄はランダムに選ばれる。レアカードを持つお爺ちゃんは孫の友人一同の尊敬と羨望の的になる。
3.院内のネットワークはNintendo64やゲームキューブを並列に接続して実現。
4.職員はNintendoDSを携帯し、ベッドサイドで電子カルテ記載などの業務を行う。
5.医師は新しい処置を行うときはまずゲームキューブ上のシミュレーションで規定の点数を稼ぐことを求められる。
6.シーズンオフには城島とイチローが遊びに来てくれる。
横腹にピカチュウの絵がはいってても良いからうちのNICUにも新生児搬送の救急車を一台新調してくれないかな。

ラッキーガールが辞める

うちのNICUから今月で退職する看護師のところへ、彼女がプライマリーナースとして受け持ったこどもたちが親御さんに連れられて次々と挨拶に来る。いったい看護師の人事なんていう情報をどこから聞きつけてこられるのやら、彼女の退職も外来で親御さんに教えて頂いたような次第である。
その来る面々がみな錚々たる面々であった。医学的には重症だが、経過の転機で不思議に良い方へ良い方へと転んで元気に退院した子ばかり。むろん、上手くいったんだからこういう時にも挨拶に来て下さるんだろうというバイアスはあるだろうけれども、来て下さった方々のお顔を拝見するだけでも、この看護師の仕事の良さに加えて、どうしても、彼女のラッキーガールぶりを見直さずにはいられなかった。なんだか弁天様に逃げられたような気分である。
辞めて故郷に帰るらしいが、地元での再就職先はうちより余程大きいNICUを抱えた病院だということで、もう引き止めようがない。むしろ、程良く腕を上げた時点でしがらみなく故郷へ帰ってさらに職を深められるのが羨ましくさえある。私だって大村湾の海の色が恋しくない訳じゃないのですよ。
色紙に寄せ書きを書く。ラッキーガールでしたと書こうとして、待てよそれじゃあ実力がなかったと言わんばかりじゃないかと思ってしまう。運も実力のうちなんていう思想を共有できるほどには、彼女がうちにいた期間は長くなかった。結局は意気込んで書き出したメッセージを当たり障りない結論に落としこもうとして、支離滅裂になる。寄せ書きは苦手だ。こういうときに周囲と調和の取れた適切なメッセージを型どおりに書けるってのもまた、私に欠けた資質なのだろうと思う。

君は岡本太郎を知っているか

いや、うちのNICUの看護師に岡本太郎を知らない娘が居ましてね。
副主任が驚き呆れているので何かと思って首を突っ込んでみたら、この子は岡本太郎をしらないらしいと言います。実際、本人はきょとんとしています。
驚きました。
太陽の塔って見たことないの?
「芸術は爆発だ」って言葉を聞いたことないの?
そりゃまあ経験は浅いけど最近はずいぶんしっかりした仕事をするようになった子だし、新生児の看護にはとりあえず岡本太郎に関する知識は必要ないけれども。でも基礎的教養に関してこういう予想外のところにぽかっと穴が空いてるのを見つけたりすると、それが世代の差だと割り切っていいものか、あるいはひょっとしてもっと大事な事項に関して、共有してるはずの知識が抜けてやしないかと警戒を怠らないようにするべきなのか、ちょっと考えてしまいました。
別に岡本綺堂が半七捕物帖の作者だなんて知ってろと要求してる訳じゃないんだけどねと思いましたが、考えてみれば岡本太郎の没後20年近くたってるし、看護学校の卒後間もない年代の彼女には、もう過去の人なんでしょうね。彼女にとっては太陽の塔だって東寺の五重塔とどっちが古いのって感じなんだろうし。
まあ、かくいう私にとっても、岡本太郎はまずギャグのタネとして意識されましたし。その作品に触れて実は凄い芸術家だったんだなと知ったのは、実はずいぶん後になってからでした。あんまり若者のことを笑ってはよくないかもしれない。

「私の嫌いな10の人びと」中島義道著・新潮社刊 真っ当で狭量な主張

「私の嫌いな10の人びと」中島義道著・新潮社刊を読了した。
 中島先生の仰ることは本作でも至極真っ当である。方向性としては決して間違ってない。単に了見が極端に狭いだけだ。その狭い了見の依って立つところを至極明瞭に言語化できるのが先生の異能なのだ。
 本作で先生は嫌いな人間のタイプを列挙しておられるが、総括すれば、考えるということに関して怠惰な人ということなのだそうだ。これは内田樹先生が常々仰る、「身体で考える」ということにも通底するのかと思った。この2人の考えていることはかなり近いように思う。
 この中島先生の極端な狭量さには、一種の嗅ぎ慣れた臭いがある。息子に、あるいは多少なりとも自覚もしている、独特の臭いである。妻もまた同意見のようで、中島先生の著書は新刊が出るたびに夫婦のどちらかが買い求めてくる。読みながら、息子が満足にものを言えたらこういう事を言いたいんだろうなと妻は言う。ことに、どの著書でであったか、先生が灰谷健次郎さんの著書を評して、灰谷さんの言うこの「やさしさ」が理解できない人間はどうすればよいのか云々と書かれているのを読んで、私もその感を強くした。先生これが分かりませんと仰るなんてそれだけでウイングの三つ組みの一画が埋まりますぜと思った。
 蛇足ではあろうが、本書に中島先生と小谷野敦さんとが論争された顛末が記されてあり、濃い組み合わせの論争であるなと思った。中島先生は小谷野さんに人格を攻撃され、カント研究者とも思えぬと評された。中島先生は、いやカントもまた人格的には低劣な人間であったと私は常々主張してきたのだから、私の人格を腐すのは勝手だがカント同様に低劣な人格であると言って貰いたいと答えられた由。

色々と忙しかった

自宅待機番の日曜日。朝からいちど出勤して病棟回診と外来。NICU当直医の手があいた時点で全部引き継いで帰ったのが正午頃。5時頃また呼び出されて外来。インフルエンザの子に混じって腸重積の子があり整復した。
今日のNICU当直医は若手なのだが、彼女は最近NICUにも一般病棟にも妙に多くの患者さんを抱えている。その患者さんの処置で手が離せなくなった時間帯のカバーを私がしていたわけであるが、なぜ彼女にそれほどに仕事が集中したかなと考えてみる。その目で当直表をみると最近は彼女に当直とか自宅待機とかが集中している。これは受け持ち患者さんが増える道理である。当直や自宅待機が連続する上に、他の医師より長い超過勤務をこなしたが故になお時間内の仕事も雪だるま式に増えていく。私もかつてこの蟻地獄に嵌ってもがいたが、今は彼女がはまり込んでいる。
今月の当直表はいったん決まった後で大幅な組み替えがあったので、部長も仕事の負担の均衡をうまく取れなかったのだろうと思う。もとより、うちの部長は仕事の配分に均衡をとるなんていう意識がかなり薄いし。それに、医者をやってると誰しも経験することだろうが、普段通りの勤務をしていても何故か「当たる」ことは稀ならずある。今は彼女に「当たり」が来ているのだろうと思う。
仕事の負担に公平さを求める性向が、私は強すぎるかなと常々思う。若手が淡々と仕事をこなしているのを傍から眺めていると、この仕事配分では自分ならさんざん不平を垂れるだろうなと思う。その点で彼女には感心しきりである。内心に不平をため込んで腐ってないかと少し心配でもある。カバーはしなければならんと思う。しかし口を出しすぎると、診療のプレッシャーに加えて口うるさい先輩をいなすという負担も掛けることになる。難しいものだと思う。

「発達心理学がよ~くわかる本」橋本浩著・秀和システム 人生攻略本

「発達心理学がよ~くわかる本」橋本浩著・秀和システムを読了した。
何故に秀和システムが発達心理学を?との疑問はある。装幀や版組はまったくコンピューター関連のノウハウ本のそれである。著者もこのオファーには面食らったという。
本書については、たしかに、よ~くわかった、というのが一読しての感想である。とてもよく分かる。私が著者と同じく小児科医であって、ものの考え方に共通する要素が大きいせいかもしれないが、たしかに、よく分かった。断片的な知識を系統的に見直す、良い機会を与えられたと思う。皮肉抜きに本書は良書であると思う。
しかし読んでいて快い本ではなかった。見開き2ページ単位で人生の各ステージを語った本書には、人生をテレビゲームに見立てての攻略本といった趣がある。「人生:アルティマニアオメガ」みたいな。テレビゲームならそれでも良いんだろうけれど、人生ってもう少し奥深いもんではないかと私は思う。本書の見開き2ページ単位で語られる各々のテーマに、古来の哲学者や文学者は生涯をかけて答えようとしてきたのだ。秀和システムの2色刷の見開き2ページで例えば恋愛とは云々と語られても、それがたとえ正鵠を射ていたとしても、実も蓋もないという印象が拭いがたい。
発達心理学という学問が人生攻略本を書く分野だというのではなく、初学者向けに分野の全貌を語ろうとすればどうしてもそういう本になってしまうのだろうとは、理解しているつもりである。

命令形のほうが快いらしい

自閉症の人に一般化できるかどうかは分かりません。うちの息子に限ることかもしれませんが、「依頼」されるのが苦手のようです。「命令」の形で語られる方がよいらしい。
「テレビを消して」と言われると「消せ」と言い直してから消す。「鉄道データファイル」の今週号を見せてよと言われると「見せろ」と言い直してから自室へ取りに行く。試しに命令形を使ってみると、言い直しはしません。言うことを聞くかどうかは言われる内容によりますが、依頼の言葉で頼まれたときに予想される程度の素直さで実行に移ります。その様子を見ていると、彼は命令形を使われたこと自体に立腹するということはなさそうです。むしろこちらのほうが、ふだん命令形の言葉で人に接するなんて軍隊的なことはしてないので、慣れなくて戸惑います。
親など目上の人からの依頼というのは実質的には命令ですから、実質的な命令を依頼の形で語られるのは彼の世界観では欺瞞的で許すべからざることなのかもしれません。あるいは、「依頼」されると自分の責任や判断で動くということになりますから、面倒くさい問いには悉く「選べない」という返答で済まそうとする彼には、その責任がたとえ形式的なものであったとしても、ストレスであるのかもしれません。
定型発達の11歳の男の子に下手に命令形で言いつけた日には臍を曲げること必定ですが、息子は違うようです。その点、横山浩之先生の「軽度発達障害の臨床」で述べられている、「自閉症で無い子どもに、自閉症の扱いをしてはならない。なぜなら、自閉症としての扱いは、自閉症でない子どもには、非常な苦痛になるからである。」という至言が当てはまるようにも思います。
そういえば、と此処まで書いて思い出しましたが、陸上自衛隊の幹部に登用された若い女性が、自分の父親ほどの年齢の部下(男性)に対して遠慮がちに依頼型で仕事の指示を出していたところ、部下から「命令形で語って下さい。そのほうがやりやすい」と要請されたという話です。この部下の人もまた息子と同じような心情だったのでしょうか。

搬送に関しては一言申し上げさせて頂きたい

*minx* [macska dot org in exile] – 障害についてちょっと意識調査というか、クイズです
「神は細部に宿る」が信条の私としては本件に関して枝葉末節をつついてみたいと思います。
普段から新生児搬送なんてやってますと、搬送用保育器を救急車に載せて据えるのは日常の業務なわけですが、搬送用保育器は載せてブレーキかけるだけでは危なくて走れません。保育器のフレームに幅を合わせた強力なフックで救急車の車体に対してがっちりと固定しないと、保育器は必ずひっくり返ります。
その普段の経験を敷衍して申し上げれば、鉄道輸送でも、客席が取り外されただけののっぺらぼうな床に車椅子を並べただけでは、危なくて、列車はとうてい走れなさそうに思います。新生児科の感覚では、座席を外した後にはどうしたって車椅子の固定具をつけなきゃならない。いや、別に固定具なんていらないよってのなら通勤用の詰め込み車両を持ってくればいいじゃないですか。乗降口も広くてたくさんあるし段差もないしでけっこう使えるんじゃないかと思います。走れさえすればね。
そこまで手間をかけて車両に細工するなら、わざわざ元に戻すまでもなく、いったん作ってしまった車両は車椅子の団体様専用として保管しておく方が財産になると思います。鉄道雑誌なんて見てると、特定の使用目的に特化した小数の車両ってけっこういろいろありそうだし、車椅子の団体様専用客車をこの機会に保有しても罰はあたらんでしょう。財産になるものなら鉄道会社が費用を負担してもよいと思います。これが問1の答えです。
ですが車椅子での旅行って、車椅子に座り続けるほうが快適なのでしょうか。使用者の身体の形(脊柱の側彎とか)に合わせた「座位保持装置」としての車椅子ならまだしも、病院で見かける通常の車椅子ってあんまり座り心地がよくなさそうな気もします。なんとかこのお客様に通常の座席(あるいは幅が必要ならグリーン車にでも)で旅行して頂けるような工夫をするのが結局は費用対効果がもっとも高くなるような気がします。お客様は快適・鉄道会社も費用がかからないということで。
もう国鉄が記憶の彼方になっちゃったので国有か民営かでの区別はよくわからないけど、例えばJR東海とちほく高原鉄道とに同じ基準をあてようとするのも酷かと思います。JR東海なら特別車両を整備するのもよかろうけれど、ちほく高原鉄道ならダイヤを工夫して人手もあつめてなんとかキハの座席にお乗り頂くってことになるんじゃないでしょうか。あるいはJR北海道が特別ディーゼル車を作ってちほく高原鉄道に乗り入れるってのもいいかな。そういう、金とか知恵とか言った有形無形の費用を分担するのになら、国有も民営も区別はないと思います。

自閉症児の小外科治療

当直をしていたら息子がカッターナイフで膝を深く切り込んだとのことで受診してきた。娘が叫びながら病院玄関に飛び込んできた。妻も動転していた。本人は案外と落ち着いていた。なにやら工作していて手が滑ったらしい。わりと出血したようだが、平然と「洗うんだ」とか言って風呂場にやってきたとのこと。そりゃあ外傷はまず洗浄が基本だけどさ。痛いとか恐いとかないのかねと少し呆れた。
皮下脂肪層の奥深くまで達する傷だった。こんな深い傷は救命救急センターでの初期研修時代からこちら記憶にない。でも息子だし自閉症児だしで縫合があんまり気が進まなかったので、まず最初はステリストリップによるテープ固定を試みた。処置してる時はほぼ止血できて、上手くいったかと甘い期待もしたのだが、ちょっと歩くとすぐにフィルムドレッシングの下が血の海になってしまって断念。結局は縫合を行うこととなった。
実は切創の縫合は久しぶりだった。最近はステリストリップの粘着力がかなり強力になってきて、そうそう縫合しなくても傷を引き寄せることが可能になっているから、小外傷はたいていテーピングで済ませている。NICUでは胸腔ドレーンもテーピングで固定しているくらいで、縫合なんてせいぜい臍帯カテーテルの固定の時くらいしか行わない。やれやれ大丈夫かなと思ったが、救急当直看護師も管理婦長も優秀な看護師で、さり気なく教えてくれたりして助かった。
ステリストリップを貼っていた時は息子は全く落ち着いていた。自分の足を治療して貰ってるんだか玩具を修理して貰ってるんだかといった雰囲気だった。それがさすがに局所麻酔薬を注射する段になると嫌がり始めた。創の中から麻酔薬を周囲に浸潤させたので針が刺さる痛みはそんなに酷くなかったはずなのだが、やっぱり読み囓った知識どおりに26Gとか29Gとかの極細の針を使うべきだっただろうか。インフルエンザのワクチンを接種するときに、刺して注入して抜くまでを4秒で終えるとの約束で注射したらしく、今回も4秒にこだわった。それで4秒ずつ刺しては抜き刺しては抜きを繰り返した。
縫合もじっと見ていた。寝てりゃ終わるのにと思うのだが、傷が塞がっていくのを見て納得するほうを選んだらしかった。何ごとも見て納得する子なので見させておいた。とくにパニックすることもなく(足をちょっと動かしたくらいはかわいいものだ)、割と処置のしやすいほうではないかと思った。普段からモーターに電線をハンダ付けなんてしてやってるので、父親の工作の腕前に信頼があったのだろうか。