岡田尊司著「脳内汚染」文藝春秋を一読した。
著者は京都医療少年院に勤務する精神科医である。本書によれば、昨今凶悪な少年犯罪が世界的に増加しているのは、刺激の強いメディア、特にテレビゲームが、世界の青少年の心理や認知に悪影響を与えている結果なのだそうだ。著者はとくにテレビゲームの危険性に警鐘を鳴らし、法的規制の必要を訴えている。
著者のいうゲーム嗜癖のような概念が1疾患単位として成り立つ可能性は否定しない。平たく言えば、そういう病気の人もあるかも知れないねってことです。それは否定できないと思う。アルコールやタバコあるいはギャンブルは言うに及ばず、実に多くの事物に、嗜癖は報告されている。テレビゲームに嗜癖が決して生じないとしたらかえって珍しいことだと思う。実際に本書で著者はゲーム嗜癖の例を何件か紹介しているが、内容を拝読すると、患者さんたちは確かに憂慮するべき状況に陥っていると思えた。状況の深刻さに比して著者の紹介はいささか短すあっさりしすぎではないかとすら思えた。ゲーム嗜癖という疾患について学ぶには本書は物足りないと感じる。医師として学ぶには無論のこと、一般教養として学ぶにしてもである。
本書では、そうした著者ご自身の貴重な臨床経験に基づく報告をあっさりと端折ってまで、ゲームの魔の手から世界を救おうとすることに重点を置かれている。この著者の執筆姿勢が、一臨床医をもって自認される著者にはいささか大仰でセカイ系すぎるかと私には思われ、残念でならない。
著者が一臨床医の視座を離れセカイ系に飛翔すると、とたんに文体から独特の香りが立ち上る。相対性理論の誤りとか、地球内部の空洞から北極の穴を通じて地表の侵略を図る地底人の存在とか、特定の民族あるいは職能団体による非公然な世界支配の計画とか、そういった話題を扱う書物に多く嗅ぎとれる類のものである。むしろパスティーシュとして意図的に狙ったスタイルなのかとすら思えるほどに、その手の書物の基本をきっちり押さえた文体である。著者ご自身の臨床経験を語られる部分にはそういう香りがしないだけに、なおさら意図されたものではないかと思えてしまう。
その文体で著者は、彼しか気付いていない問題について語るが、彼がいかに警告しても世間一般にはなかなかその主張が通らないということも既に見通しておられる。それは問題そのものが持つ構造により世間の人々の目が眩まされているからだとお考えのように、私には読めた。具体的には、嗜癖の対象について悪く言われた時には嗜癖症の患者は無闇に反発する:それこそが嗜癖の病態そのものだという構造である。あるいは、例によってテレビゲームその他のメディア業界が持つ大きな経済力や、あるいは同分野の研究者の臆病さという構造もまた、世間の人の目眩ましに一役買うものとして言及しておられる。自説を再帰的に議論のメタレベルな水準まで踏み込ませてしまうこと、自説に反対するものとしてセカイ的な陰謀とか愚昧な既存学会とかが登場すること、そういう点でも、その手の書物の基本をふまえている。
そのような飛翔は一臨床医がなすべきことではない。おかげで、ゲーム嗜癖という重要な臨床概念までもが胡散臭い印象を持たれ(本書に対するアマゾンのレビュー諸氏の酷評ぶりを参照)、著者の貴重な臨床経験が生かされないことになっている。確かに、著者は一臨床医ではない。小笠原慧のペンネームで小説を執筆され、「DZ」で第20回横溝正史賞を受賞された人だ。なぜか本書の著者紹介ではこの事がすぽっと抜けているが。文藝春秋からも最近「サバイバー・ミッション」という作品を上梓されているというのに、なぜ無視されたのだろう。
