お父さんのエプロン

妻が風邪で寝込んだので昨日は夕暮れ時に家事をしにちょこっと帰った。どうせたいしたものは作れないんだが、がさがさと慣れない料理をして、夕食後に病院へ戻った。町内に勤め先があるとこういうときは便利。
しまい込んであったエプロンを久々に出してくる。家事が終わり次第病院に戻るつもりでいるから背広のままである。さすがにエプロンは必須。娘がお父さんのエプロンなんて初めて見たと目を丸くしていた。娘の記憶にないって事は、自分はエプロンをするような家事をしなくなって何年経つんだろうと、遠い目になる。それはつまりそのころから、息子の自閉症にそれなりに折り合えて、家の中が落ち着いて、家事が妻の専業主婦仕事で間に合うようになったってことなんだが。
夕暮れ時にちょこっと帰るって、昨日は水曜日なんだから午後1時には帰ってしまってもよかったと言えばよかったんだけれども。それを許さない事情ってのは確かにあって。家で妻が発熱して寝てるっていっても、病院には発熱したうえに人工呼吸中の子が居たりするわけだから。
今日は当直。家で大丈夫なんだろうかと思ったが、まあ何とかするだろう。娘もレトルトパックのカレーを茹でるくらいの事はするし。

英語での症例提示について内田先生の記事から再び考える

当科ではスーパーローテート研修医に英語で症例提示させるらしいが考え物だよというエントリーを書いたのと相前後して、御大内田樹先生が内田樹の研究室: 母語運用能力と『国家の品格』をお書きになった。英語教育に関して示唆に富む文章であった。最近内田先生には楯突くことが多いのだけれども、今回は「それそれ、まさに私はそれを言いたかったのですよ」という御高説であった。
そりゃまあ、内田先生の記事を読むまではそんな深遠な水準までは思い至らなかったのが正直なところだけれども。
臨床の所見は言葉にしないと他者と共有できない。臨床での言葉は繊細であればあるだけよい。内田先生曰く『「梅の香りが・・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。』ということである。臨床の言葉でもこれは全く同じである。一人として全く同じ患者さんはないと、指導医なら必ず言う。ならば患者さんの容態を語る言語はなるだけ多様であったほうがよい。難解な詩じみた理解困難な言葉をつかえというのでもなく、平易で、互いに理解可能で、しかも千差万別の病状をそこそこ的確に表現できるような、そういう言語運用能力が欲しい。
貧困な言語で自分の得た所見を叙述していると、そのうち、その貧困な言語能力に見合った所見の取り方しかしなくなるものだ。それはすなわち杜撰な診療しかできなくなるということだ。風邪の外来診療一つとっても、咽頭所見に関してカルテに”throat: injected”としか書かないでいると、そのうち咽頭をみるのに赤いかどうかしか気にしなくなる。問題意識をもって見ないものは、大概、認識できないものだ。特に、想定外の事象に注意を払うゆとりのない駆け出し時代には。
むろん言葉にならないものの意義を否定するわけではない。何とはなく立ち去りがたい気分があってNICUにうだうだ居残ってたら急変したという経験も、長年やってると確かにある。でも、多分に、そういう非言語的な「勘」は、自分の見たもの聴いたものを事細かに考え抜く習慣の産物ではないかと思う。考え抜くために周囲に神経を張り巡らしていてこその勘働きではないかと思う。それに、そういう経験には、自分の言語運用能力が臨床医としての必要を満たし得なかったという一面もあるのではないかと思う。言葉が達者なら自分の感じた警戒信号を他スタッフと共有できたのではないか?チームで動くべき現代のNICUスタッフにとって、勘働きによる独走的行動ってのは決して手放しで自慢できるものではない。
さらに内田先生は続けてこう仰る。

外国語を学ぶときに、私たちはまず「ストックフレーズ丸暗記」から入る。
それは外国語の運用の最初の実践的目標が「もうわかったよ、キミの言いたいことは」と相手に言わせて、コミュニケーションを「打ち切る」ことだからである(ホテルのレセプションや航空会社のカウンターや税関の窓口で)。
「理解される」というのは「それ以上言葉を続ける必要がなくなる」ということだからである。
自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーションが外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的なかたちである。
それは母語のコミュニケーションが理想とするものとは違う。

『「もうわかったよ、キミの言いたいことは」と相手に言わせて、コミュニケーションを「打ち切る」こと』というのは回診において研修医が一様に念じることである。教授回診みたいな高圧的なイベントなら尚のこと。英語であろうが日本語であろうが、研修医はたいがい、上手に症例呈示するために、その疾患の「ポイント」となるストックフレーズを文献やアンチョコや先輩の台詞から収集してくる。外国語なら尚のことそのストックフレーズ蒐集に拍車がかかるであろう。外国語学習の構造と、回診の構造とが、共通して、研修医にストックフレーズ丸暗記を勧めているのだから。研修医たちは善意にせよ点取り根性にせよ『自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーション』を理想的な形としてもとめるのであろうから。
しかし内田先生の仰るとおり、そんなプレゼンを聞かされ続ける回診は『継続したいという欲望を致命的に殺がれる』ものである。研修医がどっかで聞いたような読んだような台詞を棒読みしている光景は想像するだけで気恥ずかしい。そんな点取り回診が何の役に立つのだろう。そんな回診で交わされる議論にどれほどの豊穣さが期待できるのだろう。豊穣な回診が求めるのは恐らくは『母語のコミュニケーションが理想とするもの』に近いものであって、決して『外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的なかたち』ではないはずなのだ。

創傷治療の常識非常識

創傷治療の常識非常識―〈消毒とガーゼ〉撲滅宣言
夏井 睦 / 三輪書店
ISBN : 4895902021
創傷治療の常識非常識〈2〉熱傷と創感染
夏井 睦 / 三輪書店
ISBN : 4895902412
これからの創傷治療
夏井 睦 / 医学書院
ISBN : 4260122533
夏井先生の仰るとおりに外傷治療を閉鎖療法で行うと、ものすごくよく治る。実際に外傷の診療にあたる立場の臨床家には、最近はスタンダードになりつつあるんじゃないかと思う。むろん消毒とガーゼを頑迷に使い続ける人らもあるけれども、閉鎖療法の治りの良さを知ってそれでもなお意識的に消毒薬とガーゼにこだわる向きってのは少数派になりつつあるんじゃないかと思う。
実はNICUでも閉鎖療法の考え方は重宝する。極低出生体重児の皮膚はサージカルテープを剥がすだけで表皮剥離を起こしかねないほど弱い。夏井先生の本を読んだら、彼らの皮膚の処置に消毒薬やガーゼを使うのが恐くなった。彼らの脆弱な皮膚でも、よく洗浄したうえでフィルムドレッシングなどを駆使すると、傷の治る速さが全然違う。今までなにしてたんだろうと思うくらいに。リバノールなんてもうお払い箱である。
閉鎖療法に今さらケチをつける向きがあるんだろうかとも思うのだが、夏井先生の著書を拝読すると、EBMに対して先生は過剰なほどに攻撃的である。よほどエビデンス云々と陰口をたたかれてるんだろうかとご心労が偲ばれる。なに言われてもほっておけばいいのにと思う。そんな陰口をたたく奴らなんて、自分では外傷の治療なんてしないようなお偉い大先生ばかりなんだろうから。読者としては淡々と閉鎖療法の解説が述べられてあるだけで十分である。

それはネットに限らず医療でも

アンカテ(Uncategorizable Blog) – 退却戦としての治安維持(ネットに関わる領域における)のあり方より

とにかく、その時点での世論の動向に乗っかってグレーゾーンに手を出すとヤケドする、というのは、もはや法則として確定している。
だから、こういうことの善悪を裁定する機関は、次のような性質の別の機関(「情報なんとか委員会」みたいなもの)にまかせた方がいいと思う。
* どうやっても権威が失墜し批判が多いことを想定して、警察や検察本体から切り離す
* 多少拙速でもいいから状況の変化にすばやく対応できる身軽さが必要
* 対象領域や原理原則を明確化して、その原理原則はきちんと政治的な承認を得る
* その機関の運用自体の透明性、公平性を警察、検察が外からチェックする
そのようにして、警察や検察は、狭い分野の治安維持できちっとした仕事をしてほしい。それが国民にとってもいいし、彼ら自身にとっても結局はいい結果をもたらすと思う。

元記事はネットに捜査機関が関わることへの警鐘であったが、医療に捜査機関が関わることにも同様の問題があるよなと思った。で、essa氏が記事のまとめとされた上記提言の「別の機関」は我々の業界にこそ切実に求められていることだろうと思った。
医療に警察や検察が絡むことのデメリットは警察・検察側にもあるわけで、「警察のご厄介にならないように」という言葉は比喩ではなく、実際に医療紛争は本当に厄介なのだ。医者が偉そうな人種で捜査機関の言うことを聞かないから厄介だというのではなくて、現代の医療の水準ってのが猛烈に高度で精緻になってしまったから。今回の福島県の大野病院事件では、全国の医師がこぞって検察を批判する側にまわっちゃったわけだが、そしてその批判は感情的反感ばかりではなく専門的な知識に立脚したプロとしての批判だったわけだが、それだけで警察や検察の権威はある程度は失墜したんじゃないかと思う。
医療に関わるトラブルの内容を分析する、専門的知識と中立性を確保された第三者機関の設立が、医療の業界内部からも切望されている。でもその機関は、できあがってみればessa氏の分析どおり、「どうやっても権威が失墜し批判が多い」、まるで検非違使のような不浄職になるんだろうなと思う。その機関の権威を今の医療業界が本当に尊敬することになるだろうかと一抹の疑問はある。よほど構造的にその権威を上手に担保しておく必要がある。
その汚れ役を買って出る人物が医療の業界内部にあるんだろうかと思う。私自身にもその覚悟があるかどうか、今ひとつよくわからない。でもまあ、今回の不当逮捕事件の教訓として、専門的知識を有さない外部の捜査機関が介入してくることの不条理さをしっかり記憶しておかねばならないと思う。

赤ちゃんがピタリ泣きやむ魔法のスイッチ


ハーヴェイ・カープ 土屋 京子 / 講談社
ISBN : 406211576X
生後2週間から3ヶ月くらいまでの赤ちゃんの、突然の大泣き。それまでは全く機嫌良さそうにしていたくせに、泣き出すと何をしても泣きやまない。一晩だって勢いよく泣き続けかねない勢い。この泣き方に悩まされる親御さんは多いと思う。魔法のスイッチのオンオフでこの悪夢のような大啼泣が収まってくれたらと、お思いになった親御さんもまた多いはずである。
本書は、そういう赤ちゃんを泣き止ませる方法を、具体的に解説してある。まるで魔法のスイッチを操作したかのように、泣き狂う赤ちゃんがぴたっと泣き止むという。
あまりに夢のような出来過ぎたお話で、タイトルには胡散臭い印象が拭えない。しかし内容は真っ当なものであった。決して、秘孔の突き方を解説する書物でもなく、自作の機器類や薬品を宣伝する書物でもない。代わりに、おくるみとか、適度の「騒音」とかといった、古来からの知恵を上手に解説してある。洗練されたオーソドックスという感がある。失敗しやすいポイントも丁寧に解説してあるので、独学で実習せざるを得ない新米のお母さんやお父さんにも親切な本である。
昔から、老練の小児科医や保育士には、抱くだけで赤ちゃんが泣き止むという「魔法の腕」伝説が言い伝えられる人があるが、恐らくは本書に記載された内容を長年の経験で会得し実行されておられるのだろうと思う。監修の仁志田博司先生はご自身でそう仰ってる。
無論、赤ちゃんは病気で泣き止まないこともある。さすがに腸重積で泣いている子に本書の「魔法のスイッチ」で対応していては致命的だ。本書では、本書の「魔法のスイッチ」に頼らず小児科を受診するべきなのはどういう状況であるかが簡潔かつ的確に解説してある。この解説を読むと著者は小児科医として優秀な人なのだろうなと思える。とかく「訳もなく泣き止まない」という主訴には、夜間の小児救急担当医もまた悩まされるものだが、この主訴に関するまとめとして、本書は小児科医にも勉強になる。
本書の根底には、人類の赤ちゃんは理想よりも3ヶ月早く生まれてくるという発想がある。脳が大きくなりすぎて、それ以上待つと頭が産道を通らないのだ。とりあえず下界に出てみただけの、この生後3ヶ月くらいまでの赤ちゃんは、子宮内の環境を模倣してやれば落ち着くということではないかと著者は言う。これは、普段から私たちがNICUで「ディベロップメンタルケア」とか称してあれこれ工夫している活動とも共通する。新生児科のスタッフや発達心理学の研究者には、首肯する人が多い考え方ではないかと思う。
読者諸賢には、どうしてもっと早くに本書を紹介しなかったのかと恨めしくお思いになる方もいらっしゃるのではないかと、それだけが危惧される。ご勘弁賜りたい。

医療ミスで給付の傷病手当、主治医に負担請求

医療ミスで脳に重い障害を負い、民事訴訟で勝訴した大阪市内の元開業医の男性(79)が加入する「大阪府医師国民健康保険組合」が、男性に給付した傷病手当約240万円を「加害者が負担すべきだ」として、当時の主治医に求償手続きを取ったことがわかった。(2006年3月16日14時45分 読売新聞)


そういうもの、なんでしょうか。そういうものと納得するのが、現代に求められる医師の覚悟というものなんでしょうね。厳しいです。むろん、交通事故の加害者は被害者の医療費を負担するじゃないかと言われると、返す言葉もないように思えます。交通事故や傷害事件やと医療過誤とが同列なのか?とも思えて釈然ともしませんけど。
福島県の産婦人科医が逮捕起訴された事件以来、治療の結果が思わしくないときは医学的考察を抜きに医者の責任とする風潮が強まる中で、今度は医療過誤の治療費は主治医もちということになれば(全額負担となればものすごく大きい額です)、医師として生きていくことが今後ほんとうに可能なのかどうかと思えてしまいます。疑心暗鬼とは思いますけれど、例えばの話、あと10年もしたらNICU退院後の極低出生体重児に生じた脳性麻痺の治療費は全額NICU担当医負担という時代が来るかもと、一抹の不安を覚えます。そうなった時に、若い医師を新生児科に勧誘できるかどうか。あるいは、例えば娘が医者になりたいといってくれたときに、激励してやれるかどうか。かなり気弱になってしまいます。
自動車を運転する人がみな自賠責に強制加入になっているように、今後は医師も医療過誤対策の保険に加入することが必須となるでしょう。私も実は入ってはいるのですが。しかし今後の風潮次第では今の自分の設定で足りるかどうか分かりません。保険料はどんどん上がるんだろうな。家のローンの一軒二軒ではすまない額を入れることになるでしょう。収入の大半を保険に持って行かれるかも知れない。米国では年間数百万円相当の保険料もざらだと聞きますし。
一昨日にウインドウズがアップデートしてたんですね。どうりで日本語変換が馬鹿になったと思った。例の如くにATOKからMS-IMEに勝手に変更されてたんです。それで、この原稿を書く時にも、いしゃと入力したら医者じゃなくて慰謝と変換してきました。お慰謝さん、か。ゲイツさんの冗談はきついぜ。

うちはNICUであってNOVAではないのだが

4月からスーパーローテート2年目の研修医が来るとのこと。一人2ヶ月ずつの小児科研修である。
部長が張り切っている。彼が作成したらしい研修プログラム案ってのが配布されてきた。その中に、”English presentation”をさせると書いてあった。どうやら研修医たちは受け持ち患児について、毎朝毎夕、英語で病状を述べなければならないらしい。
昨今の研修医はそこまで英語に堪能なのだろうか。たった2ヶ月の研修で、それまで経験の無い小児患者をおっかなびっくり診ているときに、その病状を英語で喋れと要求されるなんて、大抵の研修医にはハラスメントもいいところではないだろうかと思う。「お前みたいな凡庸な奴は小児科に来るな」というメッセージだと受け止められかねないとも思う。逆説的な言い草だが、そういう些細な事にも「俺はそれで大丈夫なんだろうか」と自分を振り返るような、謙虚で自己を顧みることのできる研修医さんにこそ、小児科を選んで頂きたいのだけれども。
英語力はともかくも、研修医は医学が未熟であるから研修にくるわけなのだろう。私ら多少は年の功を積んだ医者なら無意識に感じ取ってるような、至極ありふれた徴候でも、彼らには新奇な初体験のことばかりのはずだ。いくら勉強を重ねていたとしても、患者さんの発する生情報が、読み囓ってきた知識のどれに該当するのかさえ、覚束無く思っていることだろう。彼らは見るもの聞くもの全てに、目をこらし耳を澄ませて意識化しなければならず、それを表現するにも、考え抜いて自分の言葉に言語化することに多大な労力を要する。であれば、私ら指導側は、彼らに最大限リラックスさせて自在に喋らせてやらねばならず、彼らの言うことは一言残さず受け止める姿勢を示さねばならず。部長は自分が新米の時のことを覚えてないんだろうか。
例え研修医でなくとも、私はNICUでは医者に英語で喋って欲しくない。何となればその内容が看護師に通じないからだ。看護師もベテランになればなるほどに、病棟内で交わされる会話や赤ちゃんの立てる物音やといった森羅万象に聞き耳たてているものだ。医者同士がその赤ちゃんの何に医学的関心を持って議論しているかなんてことは、優秀な看護師なら何をおいても聞きたい内容のはずだ。彼女らに「俺たちの議論に参加するな」というメッセージを送ってどうするんだよと思う。
やれやれ。ピンクの兎が踊ってるぜ。うちはNICUであってNOVAではないはずだが。