妻が風邪で寝込んだので昨日は夕暮れ時に家事をしにちょこっと帰った。どうせたいしたものは作れないんだが、がさがさと慣れない料理をして、夕食後に病院へ戻った。町内に勤め先があるとこういうときは便利。
しまい込んであったエプロンを久々に出してくる。家事が終わり次第病院に戻るつもりでいるから背広のままである。さすがにエプロンは必須。娘がお父さんのエプロンなんて初めて見たと目を丸くしていた。娘の記憶にないって事は、自分はエプロンをするような家事をしなくなって何年経つんだろうと、遠い目になる。それはつまりそのころから、息子の自閉症にそれなりに折り合えて、家の中が落ち着いて、家事が妻の専業主婦仕事で間に合うようになったってことなんだが。
夕暮れ時にちょこっと帰るって、昨日は水曜日なんだから午後1時には帰ってしまってもよかったと言えばよかったんだけれども。それを許さない事情ってのは確かにあって。家で妻が発熱して寝てるっていっても、病院には発熱したうえに人工呼吸中の子が居たりするわけだから。
今日は当直。家で大丈夫なんだろうかと思ったが、まあ何とかするだろう。娘もレトルトパックのカレーを茹でるくらいの事はするし。
月: 2006年3月
英語での症例提示について内田先生の記事から再び考える
当科ではスーパーローテート研修医に英語で症例提示させるらしいが考え物だよというエントリーを書いたのと相前後して、御大内田樹先生が内田樹の研究室: 母語運用能力と『国家の品格』をお書きになった。英語教育に関して示唆に富む文章であった。最近内田先生には楯突くことが多いのだけれども、今回は「それそれ、まさに私はそれを言いたかったのですよ」という御高説であった。
そりゃまあ、内田先生の記事を読むまではそんな深遠な水準までは思い至らなかったのが正直なところだけれども。
臨床の所見は言葉にしないと他者と共有できない。臨床での言葉は繊細であればあるだけよい。内田先生曰く『「梅の香りが・・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。』ということである。臨床の言葉でもこれは全く同じである。一人として全く同じ患者さんはないと、指導医なら必ず言う。ならば患者さんの容態を語る言語はなるだけ多様であったほうがよい。難解な詩じみた理解困難な言葉をつかえというのでもなく、平易で、互いに理解可能で、しかも千差万別の病状をそこそこ的確に表現できるような、そういう言語運用能力が欲しい。
貧困な言語で自分の得た所見を叙述していると、そのうち、その貧困な言語能力に見合った所見の取り方しかしなくなるものだ。それはすなわち杜撰な診療しかできなくなるということだ。風邪の外来診療一つとっても、咽頭所見に関してカルテに”throat: injected”としか書かないでいると、そのうち咽頭をみるのに赤いかどうかしか気にしなくなる。問題意識をもって見ないものは、大概、認識できないものだ。特に、想定外の事象に注意を払うゆとりのない駆け出し時代には。
むろん言葉にならないものの意義を否定するわけではない。何とはなく立ち去りがたい気分があってNICUにうだうだ居残ってたら急変したという経験も、長年やってると確かにある。でも、多分に、そういう非言語的な「勘」は、自分の見たもの聴いたものを事細かに考え抜く習慣の産物ではないかと思う。考え抜くために周囲に神経を張り巡らしていてこその勘働きではないかと思う。それに、そういう経験には、自分の言語運用能力が臨床医としての必要を満たし得なかったという一面もあるのではないかと思う。言葉が達者なら自分の感じた警戒信号を他スタッフと共有できたのではないか?チームで動くべき現代のNICUスタッフにとって、勘働きによる独走的行動ってのは決して手放しで自慢できるものではない。
さらに内田先生は続けてこう仰る。
外国語を学ぶときに、私たちはまず「ストックフレーズ丸暗記」から入る。
それは外国語の運用の最初の実践的目標が「もうわかったよ、キミの言いたいことは」と相手に言わせて、コミュニケーションを「打ち切る」ことだからである(ホテルのレセプションや航空会社のカウンターや税関の窓口で)。
「理解される」というのは「それ以上言葉を続ける必要がなくなる」ということだからである。
自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーションが外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的なかたちである。
それは母語のコミュニケーションが理想とするものとは違う。
『「もうわかったよ、キミの言いたいことは」と相手に言わせて、コミュニケーションを「打ち切る」こと』というのは回診において研修医が一様に念じることである。教授回診みたいな高圧的なイベントなら尚のこと。英語であろうが日本語であろうが、研修医はたいがい、上手に症例呈示するために、その疾患の「ポイント」となるストックフレーズを文献やアンチョコや先輩の台詞から収集してくる。外国語なら尚のことそのストックフレーズ蒐集に拍車がかかるであろう。外国語学習の構造と、回診の構造とが、共通して、研修医にストックフレーズ丸暗記を勧めているのだから。研修医たちは善意にせよ点取り根性にせよ『自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれをできるだけ早い段階で察知できるコミュニケーション』を理想的な形としてもとめるのであろうから。
しかし内田先生の仰るとおり、そんなプレゼンを聞かされ続ける回診は『継続したいという欲望を致命的に殺がれる』ものである。研修医がどっかで聞いたような読んだような台詞を棒読みしている光景は想像するだけで気恥ずかしい。そんな点取り回診が何の役に立つのだろう。そんな回診で交わされる議論にどれほどの豊穣さが期待できるのだろう。豊穣な回診が求めるのは恐らくは『母語のコミュニケーションが理想とするもの』に近いものであって、決して『外国語のオーラル・コミュニケーションの理想的なかたち』ではないはずなのだ。
創傷治療の常識非常識
創傷治療の常識非常識―〈消毒とガーゼ〉撲滅宣言
夏井 睦 / 三輪書店
ISBN : 4895902021
創傷治療の常識非常識〈2〉熱傷と創感染
夏井 睦 / 三輪書店
ISBN : 4895902412
これからの創傷治療
夏井 睦 / 医学書院
ISBN : 4260122533
夏井先生の仰るとおりに外傷治療を閉鎖療法で行うと、ものすごくよく治る。実際に外傷の診療にあたる立場の臨床家には、最近はスタンダードになりつつあるんじゃないかと思う。むろん消毒とガーゼを頑迷に使い続ける人らもあるけれども、閉鎖療法の治りの良さを知ってそれでもなお意識的に消毒薬とガーゼにこだわる向きってのは少数派になりつつあるんじゃないかと思う。
実はNICUでも閉鎖療法の考え方は重宝する。極低出生体重児の皮膚はサージカルテープを剥がすだけで表皮剥離を起こしかねないほど弱い。夏井先生の本を読んだら、彼らの皮膚の処置に消毒薬やガーゼを使うのが恐くなった。彼らの脆弱な皮膚でも、よく洗浄したうえでフィルムドレッシングなどを駆使すると、傷の治る速さが全然違う。今までなにしてたんだろうと思うくらいに。リバノールなんてもうお払い箱である。
閉鎖療法に今さらケチをつける向きがあるんだろうかとも思うのだが、夏井先生の著書を拝読すると、EBMに対して先生は過剰なほどに攻撃的である。よほどエビデンス云々と陰口をたたかれてるんだろうかとご心労が偲ばれる。なに言われてもほっておけばいいのにと思う。そんな陰口をたたく奴らなんて、自分では外傷の治療なんてしないようなお偉い大先生ばかりなんだろうから。読者としては淡々と閉鎖療法の解説が述べられてあるだけで十分である。
それはネットに限らず医療でも
アンカテ(Uncategorizable Blog) – 退却戦としての治安維持(ネットに関わる領域における)のあり方より
とにかく、その時点での世論の動向に乗っかってグレーゾーンに手を出すとヤケドする、というのは、もはや法則として確定している。
だから、こういうことの善悪を裁定する機関は、次のような性質の別の機関(「情報なんとか委員会」みたいなもの)にまかせた方がいいと思う。
* どうやっても権威が失墜し批判が多いことを想定して、警察や検察本体から切り離す
* 多少拙速でもいいから状況の変化にすばやく対応できる身軽さが必要
* 対象領域や原理原則を明確化して、その原理原則はきちんと政治的な承認を得る
* その機関の運用自体の透明性、公平性を警察、検察が外からチェックする
そのようにして、警察や検察は、狭い分野の治安維持できちっとした仕事をしてほしい。それが国民にとってもいいし、彼ら自身にとっても結局はいい結果をもたらすと思う。
元記事はネットに捜査機関が関わることへの警鐘であったが、医療に捜査機関が関わることにも同様の問題があるよなと思った。で、essa氏が記事のまとめとされた上記提言の「別の機関」は我々の業界にこそ切実に求められていることだろうと思った。
医療に警察や検察が絡むことのデメリットは警察・検察側にもあるわけで、「警察のご厄介にならないように」という言葉は比喩ではなく、実際に医療紛争は本当に厄介なのだ。医者が偉そうな人種で捜査機関の言うことを聞かないから厄介だというのではなくて、現代の医療の水準ってのが猛烈に高度で精緻になってしまったから。今回の福島県の大野病院事件では、全国の医師がこぞって検察を批判する側にまわっちゃったわけだが、そしてその批判は感情的反感ばかりではなく専門的な知識に立脚したプロとしての批判だったわけだが、それだけで警察や検察の権威はある程度は失墜したんじゃないかと思う。
医療に関わるトラブルの内容を分析する、専門的知識と中立性を確保された第三者機関の設立が、医療の業界内部からも切望されている。でもその機関は、できあがってみればessa氏の分析どおり、「どうやっても権威が失墜し批判が多い」、まるで検非違使のような不浄職になるんだろうなと思う。その機関の権威を今の医療業界が本当に尊敬することになるだろうかと一抹の疑問はある。よほど構造的にその権威を上手に担保しておく必要がある。
その汚れ役を買って出る人物が医療の業界内部にあるんだろうかと思う。私自身にもその覚悟があるかどうか、今ひとつよくわからない。でもまあ、今回の不当逮捕事件の教訓として、専門的知識を有さない外部の捜査機関が介入してくることの不条理さをしっかり記憶しておかねばならないと思う。
赤ちゃんがピタリ泣きやむ魔法のスイッチ
ハーヴェイ・カープ 土屋 京子 / 講談社
ISBN : 406211576X
生後2週間から3ヶ月くらいまでの赤ちゃんの、突然の大泣き。それまでは全く機嫌良さそうにしていたくせに、泣き出すと何をしても泣きやまない。一晩だって勢いよく泣き続けかねない勢い。この泣き方に悩まされる親御さんは多いと思う。魔法のスイッチのオンオフでこの悪夢のような大啼泣が収まってくれたらと、お思いになった親御さんもまた多いはずである。
本書は、そういう赤ちゃんを泣き止ませる方法を、具体的に解説してある。まるで魔法のスイッチを操作したかのように、泣き狂う赤ちゃんがぴたっと泣き止むという。
あまりに夢のような出来過ぎたお話で、タイトルには胡散臭い印象が拭えない。しかし内容は真っ当なものであった。決して、秘孔の突き方を解説する書物でもなく、自作の機器類や薬品を宣伝する書物でもない。代わりに、おくるみとか、適度の「騒音」とかといった、古来からの知恵を上手に解説してある。洗練されたオーソドックスという感がある。失敗しやすいポイントも丁寧に解説してあるので、独学で実習せざるを得ない新米のお母さんやお父さんにも親切な本である。
昔から、老練の小児科医や保育士には、抱くだけで赤ちゃんが泣き止むという「魔法の腕」伝説が言い伝えられる人があるが、恐らくは本書に記載された内容を長年の経験で会得し実行されておられるのだろうと思う。監修の仁志田博司先生はご自身でそう仰ってる。
無論、赤ちゃんは病気で泣き止まないこともある。さすがに腸重積で泣いている子に本書の「魔法のスイッチ」で対応していては致命的だ。本書では、本書の「魔法のスイッチ」に頼らず小児科を受診するべきなのはどういう状況であるかが簡潔かつ的確に解説してある。この解説を読むと著者は小児科医として優秀な人なのだろうなと思える。とかく「訳もなく泣き止まない」という主訴には、夜間の小児救急担当医もまた悩まされるものだが、この主訴に関するまとめとして、本書は小児科医にも勉強になる。
本書の根底には、人類の赤ちゃんは理想よりも3ヶ月早く生まれてくるという発想がある。脳が大きくなりすぎて、それ以上待つと頭が産道を通らないのだ。とりあえず下界に出てみただけの、この生後3ヶ月くらいまでの赤ちゃんは、子宮内の環境を模倣してやれば落ち着くということではないかと著者は言う。これは、普段から私たちがNICUで「ディベロップメンタルケア」とか称してあれこれ工夫している活動とも共通する。新生児科のスタッフや発達心理学の研究者には、首肯する人が多い考え方ではないかと思う。
読者諸賢には、どうしてもっと早くに本書を紹介しなかったのかと恨めしくお思いになる方もいらっしゃるのではないかと、それだけが危惧される。ご勘弁賜りたい。
医療ミスで給付の傷病手当、主治医に負担請求
医療ミスで脳に重い障害を負い、民事訴訟で勝訴した大阪市内の元開業医の男性(79)が加入する「大阪府医師国民健康保険組合」が、男性に給付した傷病手当約240万円を「加害者が負担すべきだ」として、当時の主治医に求償手続きを取ったことがわかった。(2006年3月16日14時45分 読売新聞)
そういうもの、なんでしょうか。そういうものと納得するのが、現代に求められる医師の覚悟というものなんでしょうね。厳しいです。むろん、交通事故の加害者は被害者の医療費を負担するじゃないかと言われると、返す言葉もないように思えます。交通事故や傷害事件やと医療過誤とが同列なのか?とも思えて釈然ともしませんけど。
福島県の産婦人科医が逮捕起訴された事件以来、治療の結果が思わしくないときは医学的考察を抜きに医者の責任とする風潮が強まる中で、今度は医療過誤の治療費は主治医もちということになれば(全額負担となればものすごく大きい額です)、医師として生きていくことが今後ほんとうに可能なのかどうかと思えてしまいます。疑心暗鬼とは思いますけれど、例えばの話、あと10年もしたらNICU退院後の極低出生体重児に生じた脳性麻痺の治療費は全額NICU担当医負担という時代が来るかもと、一抹の不安を覚えます。そうなった時に、若い医師を新生児科に勧誘できるかどうか。あるいは、例えば娘が医者になりたいといってくれたときに、激励してやれるかどうか。かなり気弱になってしまいます。
自動車を運転する人がみな自賠責に強制加入になっているように、今後は医師も医療過誤対策の保険に加入することが必須となるでしょう。私も実は入ってはいるのですが。しかし今後の風潮次第では今の自分の設定で足りるかどうか分かりません。保険料はどんどん上がるんだろうな。家のローンの一軒二軒ではすまない額を入れることになるでしょう。収入の大半を保険に持って行かれるかも知れない。米国では年間数百万円相当の保険料もざらだと聞きますし。
一昨日にウインドウズがアップデートしてたんですね。どうりで日本語変換が馬鹿になったと思った。例の如くにATOKからMS-IMEに勝手に変更されてたんです。それで、この原稿を書く時にも、いしゃと入力したら医者じゃなくて慰謝と変換してきました。お慰謝さん、か。ゲイツさんの冗談はきついぜ。
うちはNICUであってNOVAではないのだが
4月からスーパーローテート2年目の研修医が来るとのこと。一人2ヶ月ずつの小児科研修である。
部長が張り切っている。彼が作成したらしい研修プログラム案ってのが配布されてきた。その中に、”English presentation”をさせると書いてあった。どうやら研修医たちは受け持ち患児について、毎朝毎夕、英語で病状を述べなければならないらしい。
昨今の研修医はそこまで英語に堪能なのだろうか。たった2ヶ月の研修で、それまで経験の無い小児患者をおっかなびっくり診ているときに、その病状を英語で喋れと要求されるなんて、大抵の研修医にはハラスメントもいいところではないだろうかと思う。「お前みたいな凡庸な奴は小児科に来るな」というメッセージだと受け止められかねないとも思う。逆説的な言い草だが、そういう些細な事にも「俺はそれで大丈夫なんだろうか」と自分を振り返るような、謙虚で自己を顧みることのできる研修医さんにこそ、小児科を選んで頂きたいのだけれども。
英語力はともかくも、研修医は医学が未熟であるから研修にくるわけなのだろう。私ら多少は年の功を積んだ医者なら無意識に感じ取ってるような、至極ありふれた徴候でも、彼らには新奇な初体験のことばかりのはずだ。いくら勉強を重ねていたとしても、患者さんの発する生情報が、読み囓ってきた知識のどれに該当するのかさえ、覚束無く思っていることだろう。彼らは見るもの聞くもの全てに、目をこらし耳を澄ませて意識化しなければならず、それを表現するにも、考え抜いて自分の言葉に言語化することに多大な労力を要する。であれば、私ら指導側は、彼らに最大限リラックスさせて自在に喋らせてやらねばならず、彼らの言うことは一言残さず受け止める姿勢を示さねばならず。部長は自分が新米の時のことを覚えてないんだろうか。
例え研修医でなくとも、私はNICUでは医者に英語で喋って欲しくない。何となればその内容が看護師に通じないからだ。看護師もベテランになればなるほどに、病棟内で交わされる会話や赤ちゃんの立てる物音やといった森羅万象に聞き耳たてているものだ。医者同士がその赤ちゃんの何に医学的関心を持って議論しているかなんてことは、優秀な看護師なら何をおいても聞きたい内容のはずだ。彼女らに「俺たちの議論に参加するな」というメッセージを送ってどうするんだよと思う。
やれやれ。ピンクの兎が踊ってるぜ。うちはNICUであってNOVAではないはずだが。
アルカリ性パイプ洗浄剤
ルックパイプマン(粉のほう)を口に含んでしまった幼児があった。アルカリ性の強力な洗浄剤である。嚥下してなかったのがせめてもの幸いだった。とにかく口腔内を大量の生理食塩水で洗って(水道水で流そうとしたら痛がったので)、精査フォロー願いますと言って救急センターへ紹介受診の手配をした。
アルカリは酸よりも危険である。組織を溶解するので酸よりも障害が深くまで届く。何様、パイプに詰まった髪の毛やなんかを溶解するようにわざわざ作られたものなのだ。嚥下しておれば消化管穿孔や瘢痕狭窄の危険もある。うちの部長は、豆腐のにがりを飲んでしまって、胃管による食道形成術まで必要になった子を診たことがあるという。それって食道癌の手術法じゃないか。
本件では、掃除中に本剤の分包を家人がテーブルの上に置き、ちょっと目を離した隙に、子が口に入れてしまったらしい。ラムネ菓子かなにかと間違えたのだろうか。でも処置の時も落ち着いてこちらの話をよく聞いてくれる子で、特別に多動だとか注意力がないとかいう子ではなかった。この子に発生することなら何処の幼児でも(あるいは小学生ですらも)本件は起こり得ると思った。
常套的には、テーブルの上に置いた家人が悪いとか言って、きつく叱り置いて一件落着とするのがこれまでの小児科のやり方であった。でもそんな遠山金四郎のお白砂でもあるまいし、誰が悪いと特定して落着と考えるのは、小児科医の発想ではない。とにかく負傷を治療するのが第一として、本件の背景を考えるなら、如何に再発を予防するかってことが最重要だ。
敢えて製品名を挙げてメーカーサイトにリンクを付けたが、このパッケージは幼児が食物と間違えるパッケージだろうか(読者諸賢はどう思われますか?)。あるいは、スティック状の、簡単に幼児の手で開封できる分包は大丈夫なのか?もうちょっと開けにくい方が安全ではないか?しかし開けにくいものを無理に開けようとすると中身が飛び散るものではあるし。それに幼児は器用である。大人のすることは何だって見ている。幼児が開封できないようにと工夫した安全パックは、たいてい大人のユーザーにも不便だといって放棄されることになる。
10包も入っている必要があるのか?髪の毛ってそんなによく詰まるものか?例えばの話、使用は一回きりで使い残し無しの製品にしておけば、残った分包に幼児が手を出すことは無くなるんじゃないか?あるいは、容器も、正しく排水溝に嵌め込んで固定して水を掛けて初めて洗浄剤が出るような、正しい使い方でないと中身を露出することが極めて困難なような、そして正しく使えば中身が全部使い切ってしまえて廃棄物としての空容器は安全なような、そういう容器は出来ないものか?
パイプマンを貶すばかりだと不公平だし感心したことを挙げておくと、パイプマン外箱には随分目立つように、うっかり飲んでしまった時の対処法が書いてある。家人が取り敢えず自宅で子の口の中を洗ってから救急にお出でだったので、かなり軽症化できてたんじゃないかと思う。落ち着いて対処された家人も立派だが、パイプマンのこの記載もまた良かったと思う。
製品の問題としか思いつかないけれど、他にも着眼点は色々あるのだろうと思う。とかく我々医者の視点は目の前の患者さんとその周辺のミクロなレベルにとどまり、鳥瞰俯瞰といった視点のとりかたは苦手である。子どもを守るのには多彩な知恵が必要だ。しかし、発生点のすぐ近くにいる私たちが「誰が悪い」の責任論とか「気をつけよう」の精神主義とかに留まっている限りは、他分野の専門科を巻き込むのは至難の業であろう。
崩壊は突然に訪れる
文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)
ジャレド・ダイアモンド 楡井 浩一 / 草思社
ISBN : 4794214642
文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)
ジャレド・ダイアモンド 楡井 浩一 / 草思社
ISBN : 4794214650
福島県で逮捕・起訴された産科医師については内科でも大きな話題になっている由、医局で内科の医師から聞いた。普段は消化器内科で内視鏡やってる先生ですら大きな関心を持っておられる模様。たとえ生涯に一度遭遇するかしないかの稀な疾患でも、結果が悪ければ刑事訴追されるという前例ができてしまったのだから、今回の一件は、どの医師にとっても他人事でない。
このまま日本の医療は崩壊していくんじゃないかという危惧を多くの医師が表明している。私もその危惧を共有している。あたかも本書「文明崩壊」で描写されたイースター島の文明のように日本の医療は崩壊して行くように思える。イースター島の人びとが貴重な樹木を次々と切り倒していったように、かつては豊かに見えた医療資源が次々と刈り取られている。そして気がつけば島中に灌木以上の樹木はなくなり、木材を使い尽くして漁労用のカヌーが建造できなくなった。そしてイースター島民は作りかけのモアイも放り出して食料の争奪戦を繰り広げることになった。文明崩壊にお定まりの人肉食も経て、島の人口は激減した。
時を経てヨーロッパの船がイースター島に接近した時、住民は粗末なカヌーで船に漕ぎ寄せ、口々に「木を」と所望したと伝えられる。
医師でない皆様にはあまりこの危機感が共有されているように感じられない。でも本書によると文明の崩壊は突如として訪れるものらしい。イースター島しかり、ノルウェー領グリーンランドしかり、マヤ文明しかり。こんな劇的な崩壊が忍び寄ってくるのに、渦中の人びとは本当に気付いてなかったのか、気付いてて何の対策も打たなかったのかと不思議になるほどに。島中に茂っていた木々が刻々切り倒されていくイースター島で、このまま木が減ったらどうなるかと人びとは考えなかったのか。最後の一本の木を切り倒した人間の胸中に、何か湧き上がるものはなかったのか。しゃあねえや俺が気張って木が生えるもんでなしと、そう呟くことで彼は気が済んだのだろうか。彼もまたその後は飢えることになるのに。
多分、崩壊間際の文明の渦中にあった人びとが崩壊の予兆に気付いてなかったのかどうかについては、1944年当時の日本の状況も考察の一助になるんじゃないかと思う。って、勝手な想像でしかないんだけど、軍の内部に居れば、問答無用でこれはもうダメだと多くの人が感じていた事だろう。例えば私ら医者が医療界内部にあってもうダメだと考えているようにさ。市民も、身のまわりを見渡せば、生活がますます窮乏してゆくことに、出征してゆく兵士が老年兵や少年兵ばかりになってゆくことに、空襲されたと噂される町がつぎつぎ増えていくことに、何らかの徴候を薄々と感じ取っていただろう。ご近所の病院でまた産科が閉鎖されたとのニュースを聞いてる貴方のように。しかし翌年8月15日の玉音放送を、そういう形で呆気なく突然の終わりが来ることを、誰か予見していただろうかと思う。私も貴方も、崩壊がどのようにやってくるか想像できてない。でも、それは決して、崩壊が明日起こらないと保証するものではない。
折しも、今回の診療報酬改訂で病院の収益がどうなるかという説明を、医事課職員から聞けた。何でもうちの病院の2月分で試算してみると2.8%の減収だそうだ。それでもまだ他所よりはマシなんだと。小児科は増額だなんて呑気なことは言ってられない。赤字の幅が減っただけだ。道楽息子が手すさびに描いた書画の価格が少々上がったとて、傾いた家業を立て直すには至らんものだ。普通はね。
中二日に思うのは防弾のしっかりした機体に乗りたいと言うこと
金曜に当直して土曜に半ドンで帰って、今日は一日オフ。明日はまた当直。中二日をフルタイム勤務したり当直明けに自宅待機番に当たってたりってのもよくある話なので、今回のこのシフトは楽な方である。楽なのを幸い、色々と見聞を深めているところ。
「旧日本軍弱小列伝」には、旧日本軍の兵器が現代に信じられているよりも遙かに弱体なものだったと解説されている。零戦については私も蒙を開かれる思いをした。大和や潜水艦のコンテンツもこれから楽しみにしている。
サイトの本旨には外れるかもしれないが、私が一番衝撃を受けたのが、この言葉と写真。
「その堅牢な防弾装置は、いくら日本機に撃たれてもタンクに火はつかず、乗員すらも傷つかないと日本のパイロットを嘆かせます。それは、たとえ新米の乗る F6Fが、ベテランの乗るゼロ戦に大量に機銃弾を浴びせられて穴だらけにされても生還できるということを意味し、そして次にそのパイロットがゼロ戦と対戦したときには、彼はもうルーキーではないのです。」
ここまでぼっこぼこに撃たれて、それでも無事に帰り着いている。写真で見ると壮烈である。パイロットは余裕の笑みをうかべている。対して、零戦は操縦席にも燃料タンクにも防弾がされず、零式マッチと揶揄されるほどに発火しやすい機体であったから、ここまで撃たれて生きて帰れる見込みはない。現に戦史として、これは引用サイトに詳しいけれど、旧日本海軍は中国戦線で鍛えられたパイロットが失われて以降は、初心者パイロットがろくに戦闘経験も積まぬうちに次々と戦死し、いたずらに消耗を重ねるばかりであった。
俺らも零戦に乗って医療やってるんじゃないだろうかと思う。防弾設備もろくな無線装置もない時代遅れの戦闘機。ちょろっと被弾すれば一巻の終わりで、ろくに経験も積まぬうち戦力にもならぬうちに戦列を離れることになる。零戦には卓越した格闘能力があるんだから大和魂で弾丸などひらりひらりとかわすのだという思想だったと聞くが、これは個人の注意力で医療事故をひらりひらりとかわすのだという現代医療の精神論に通じる思想だと思う。先の大戦末期には、戦闘機の戦法は一撃離脱であって、いくら零戦のほうで格闘戦をやりたがってても敵はつきあってくれなかった。現代もまた医療のレベルは当時の米軍戦闘機のエンジン出力並にヘビーになってるんだから、こっちがいくら精神力でひらりひらりと事故をかわそうって意気込んでも、それはこっちの身勝手な発想である。
気をつけなくてよいとは言わない。気をつけるのは当たり前である。F6Fだって油断して乗れる機体ではなかろう。ただ実際に戦闘機に乗る立場としては、操縦席と燃料タンクは防弾してよねとか、銃弾を当てられやすい主翼の中に燃料タンクを仕込むなんて危ない設計はよしてねとか、そうやって安全性無視で稼いだ長時間の滞空時間に疲れ果て帰り道を見失って墜落なんていやだなとか、せめて最高速を出せば敵の巡航速度に追いつくくらいの出力のあるエンジンを乗せてよねとか、色々と希望はあるものだ。