身銭を切る

これに対して、出産医療の継続を要望する同婦人会のメンバーらはこの日、市役所を訪れて、市民や市外に住む同病院利用者から集めた署名簿を提出。板井会長は「出産は緊急性が高く、時には母子の生命にかかわる事態もある。市内唯一の産婦人科の存続は全市民の願いです」と訴えた。


先日からどうもこの署名に関する記事が心に引っかかっている。
眠い時に不用意に読んで刷り込まれただけかも知れないけれども。
その由縁をあれこれ考えてみる。婦人会の方々に対して他意はないつもりである。というか、こういう時の他意というものが卑しいものだとは重々心得ているつもりである。
この署名活動に籠められた熱意は無論尊いものだ。けっして粗末にしてはならないと思う。無関心に放置されるよりは遙かに良い。関心を形にして頂いただけでも、この署名活動は有り難いと思う。
ただ、その要求は実現不可能だということだけが、この署名活動の問題点である。
この署名活動の価値を毀損する欠点は、実にその一点だけである。その欠点故に、2万人分もの熱意も、誰かの「前向きに検討致します」という台詞に突き当たって雲散霧消することになる。
実際に記事はそういう結末で終わっている。市長はやがて「最大限努力は致しましたが」と言い、院長は「医師の確保には努めましたが」と言い、産科はこのまま閉鎖されることになる。実現不可能な要求であるから、市長も院長も、放置したまま事実上の却下扱いにするのに、それほど後ろめたくも感じないだろうと思う。
そう読めるのは私が捻くれてるだけですか?
年間分娩数120の施設に産科常勤医2人というのは、現状では維持不可能な態勢である。この施設規模は何とも半端なのだ。平均すれば3日に一人の分娩である。産後5~6日で退院とすれば、病棟には2~3人の赤ちゃんしかいない。閑散としている。この施設を維持できるマンパワーは、さすがの神大も擁してはいないだろう。産科医師を常勤で2人派遣というのは、どんなに大きな医局であっても、「たった2人」と言えるほど些細なことではない。この2人の医者を喉から手が出るほど欲しがっている施設が山ほどあるだろうし、そういう施設の産科医が置かれている状況の過酷さは想像するだに余りある。
安全かつ便利なお産という要求は正当な要求である。如何に過疎地であれ、お産は身近な施設で安全に行われて当然であると、周産期関連の仕事をしている私も、そう思います。でも正当な要求でも、実現されるべき要求でも、必ずしも容易に実現できるとは限らないわけで。必要なのは声高な要求ではなくて、有能でタフな交渉ではないかと思います。
婦人会の皆様は要求ではなくて交渉をなさるお覚悟が必要でした。何かを、意図的に、捨てるお覚悟を示されるべきでした。便利さを捨てて安全を希求するか、安全を捨てて便利さを希求するか。いや、そんな二者択一のお目出度い単純さではいけませんね。どれくらい便利さを捨て安全を求めるか、あるいはその裏でどれくらい安全に限度をつけて便利さを求めるか、その落としどころを探ろうとなさるべきでした。
あるいは、安全も便利さも最大限にと求めるならば、経済的な安価さを捨てなければならない。直接には多大な費用負担の覚悟を。さらには、金の力に物を言わせて近隣の地域から産科医を強引に引き抜くという汚れ仕事への批難を、覚悟しなければなりませんでした。
現状維持が不可能になった時に、可能にするために何を捨てるか、それを具体的に表明されるべきでした。いや、「何を」はこのさい重要ではないかも知れません。何かを捨てる覚悟があるという決意そのものの表明のほうが、重要なのかもしれません。
それが当事者としての責任というものだと私は思います。恐らくは、捨てることにしたものによる直接の痛みに加えて、何を捨てるかによって婦人会内部でも大きく対立されるであろう、その対立の痛みもまた、当事者の責任としてお引き受けになるべきでした。
むろん、婦人会の方々とて周産期医療の経済を分析する専門家でもあるまいし、婦人会の方々がそういう具体的な議論をなさっても、必ずしも正確なものにはならないだろうと思います。大事なのは、医療の利用者である皆様もまた、何をいかほど捨て何をいかほど守るかという交渉の席につくお覚悟があるということを、示されることだろうと思います。

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