自分がトラブルシューターであるということを常に意識する

うまくいったお産には私たちは呼ばれない。
それを忘れてはいけないと、肝に銘じる。
私たちが呼ばれるのは、「うまくいかない可能性が他より高いお産」「現実にうまくいってないお産」「お産そのものはうまくいったけど赤ちゃんの様子が何かおかしいお産」、いずれにしても、トラブルの要素が何もない限りは新生児科の出る幕はない。
街に私の知らない子がどれだけ歩いていることか。いや、偉そうに言いますけど、京都市北部でお産にトラブルがあったときに私の顔を見る確率ってけっこう高いんですよ。でも、例えば新聞の「お誕生日おめでとう」みたいな赤ちゃんの顔写真記事を拝見するたび、毎日こんなに俺の知らんところで赤ちゃんが無事に生まれてるんだなあと、変な感慨にふけることもありまして。
お産のトラブルで産科の先生に呼んで頂くと、つい、「非道いお産しやがって」と産科の先生を責めたくなることがある。呼ばれるたびにひどいトラブル起こしてる云々。でも、と考えてみる。トラブルがないと私たちは呼ばれない。呼ばれるたびにトラブルがあるのは理の当然なのだ。
それに、死産でも私たちは呼ばれないはずだ。彼らはあくまでも、私たちの到着まで赤ちゃんたちの生命を維持した「功労者」なのだという視点も、また、必要だと思う。その視点が足りないと、産科と小児科が仲が悪い云々という情けない事態を巻き起こす。
私たちが呼ばれたトラブルありの分娩1件の陰に、私たちの手に触れないトラブルなしの分娩が100件も200件もあるいは1000件もあり、その全ての分娩を拝見して居れば、おそらくは、私がいま産科に対して抱いている感情よりも、はるかに、私は産科に対して好印象を抱くことになるだろうと思う。そりゃあね、三宅廉先生を追い出すなど京都の周産期はことさら暗黒の歴史が長いんですけどね。でも、たぶん、産科の連中は私が思うよりもよい仕事をしているはずだ。

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