PIダブル、肥後守、その他

今日は休みだと思って朝寝していたら呼び出し。超低出生体重児に点滴がとれないから来てくれとのこと。起きて顔を洗って出向いてみる。若手が憔悴しきって出迎えてくれる。当直明けの早朝に超未熟児の静脈ラインが潰れたりしたらたしかに私でも憔悴するだろう。うら若い女性に外観がやつれてるとは言いにくくて、言葉に詰まったまま処置に取りかかる。まあ、私が朴念仁なのはもう分かってることだし。私だって起き抜けの酷い顔をしていただろうし。
500g程度の赤ちゃんだが、今日はなんだか失敗する気がしなくて、じっさい一撃で入った。不安を感じないくらい寝ぼけてたんだろうか。客観的に考えれば、若手が失敗してたのは「入る静脈を見つける」ことだったのだが。私が足首の血管を浮き上がらせてみせたら、彼女もあっという顔をしたし、たぶんそれは分かっただろう。でも今さら譲るには彼女の消耗は度が過ぎていた。
PIカテーテルのピールオフ針を初めて使った。ロングカテーテルに付属のこういうピールオフ針は、サーフローやアンギオキャスといったショートカテーテルに比べて、先端のカッティングが粗雑で使いにくい。今回はPIのダブルルーメンを入れる必要があって、PIもダブルだと24Gのサーフローには通らないから、仕方なく、怖々とピールオフを使ってみた。結果的には成功したし、以前使った時よりは使いやすくなったような気がしたけれど、まだまだ改善の余地はあるように思う。
カテ先の位置をX線で確認してから帰宅。今度は家族揃ってニックホビーショップへ行く。けっこうNICU業務に使えそうなものも売ってある。ただ、こんなものがあればいいなと搬送中なんかの急場に思いついても、急場のこととて数秒後には忘れてるから、実際に店に来てみると、なんとはなくものを買いそびれてしまう。
カッターナイフの陳列棚に「肥後守」が売ってあった。子供の頃にはこの小刀で鉛筆を研いでいた。懐かしくて買ってしまった。一本500円。子どもの頃は100円で買った記憶があるのだが。ただ昭和50年代にはもう肥後守なんて年配の先生が思い出話に語るだけのもので、実際にそれで鉛筆を研いでいたのは私くらいだった。
息子に鉛筆を研いでみせたら、ひょいと鉛筆削り機を寄越してくれた。親切といえば親切なんだけど、父がナイフで研ぐのにこだわっているようだとは推測できなかったらしい。
左手の薬指と小指で鉛筆を保持し親指で刃を固定するわけだが、片手のなかに二つの物体を保持して別々に操作するってのは器用に手を使うということの第一歩なんだけれどもね。何とはなく、未熟児の下顎と喉頭鏡を左手だけで各々操作することにも通じてるような気がする。

起訴が妥当か

明石歩道橋事故、元署長ら3度目「不起訴」…神戸地検
当直明けに読売新聞で読んだ。社会面では遺族の皆様の不満の声が大きく取り上げられていた。その取り上げられ方が大きくて、なんだか読売新聞は「不起訴の決定はこの遺族の声を無視しているから不当だ」と主張しているかのように感じられた。
常に不慮の事故と隣り合わせの商売柄、起訴不起訴の決定を遺族感情で左右するのってどうなのとは、我が身に引きつけて、ちらっと考えた。遺族がお怒りだから起訴と決められては医療紛争は片端から刑事事件になるから。やっぱりそこは是々非々、捜査のうえで得られた証拠などから客観的に判断して、業務上の過失があれば業務上過失致死傷なんだろうが、過失がなければ不起訴にするのが当然だと思った。いや、実際の捜査内容がどうだったかは分かりませんから、今回の不起訴が結論として妥当だったのかどうかは申しませんけれどもね。捜査してみて、どう見てもこりゃあ罪に問えんぜと思ったのなら、でも被害者の声が大きいから起訴しないわけにもいかんし・・・という逡巡はしないもんじゃないかなと。
検察ってどういう立場に自らを置いておられるのだろう。ある程度は遺族や被害者と距離を置いて、「社会正義」の損なわれたところを修復するべく活動されておられるのか、それともとことん被害者の代弁者として加害者側の弁護士と対立するのか。慣れない法律談義で言葉に苦労してますが、なんと言いますか、彼らのこういう起訴・不起訴の決定とか、起訴した上での求刑とかが、それなりに「こんなところがお天道様に恥じないところじゃないでしょうか」と中庸を得ようとしているのか、あるいは中庸を得るのは裁判官の仕事と割り切って、彼ら自身はとことん加害者を厳罰に処そうとしてるのか。大野病院の事件をみてると、段々と後者のほうへ舵を切ってるんだろうなと思っていたのだが。
しかしね、よく記事を読んでみたら、この人らの部下は起訴されてるんだった。
なんだか複雑だ。この人らって、医療事故の現場にいたスタッフではなく、院長やら理事長やらの立場にいた人じゃないか。
実は県立大野病院事件で報じられた、同院の院長先生の行動にはかなり腹立たしい思いをしている。手術開始の1時間後には院長先生は手術室に入っていた。そして「加藤医師に、ほかの医師の応援を頼んではどうかと提案している。加藤医師の返事はなかったという。」ということなんだが・・・・私の正直な感想としては
あんた医者だろ?院長だろ?子どもの使いじゃないんだろ?
応援が必要だと思ったら自分の判断で応援を呼べよ。輸血だって院長の権限で20単位だって30単位だって発注しろよ。手術室からふらふら出て行かんと医者ならその急場で何かすることないのかよ。せめてご家族を放っておかず院長の立場で状況説明しておけよ。「予期せぬ出血から救命しようと主治医は懸命に手を尽くしております」とか、この時点で申し上げてあったら、加藤先生に対するご遺族の感情も違ったものになってたかもしれないのに。
最近拝読している「医療崩壊」(小松秀樹著・朝日新聞社)に、下記のような一節がある。

自治体病院長の任命権は首長にある。自治体病院長はしばしば首長に近づき、友人となる。一部の自治体では、院長になるための追加条件がある。たとえ無茶なものであっても、患者の要求をそのまま医師に要求できる能力を持つことである。病院長が一方的に患者の立場に立つことは論理的にあり得ない。それは、病院の立場を放棄することで無責任と言わざるをえない。患者の言い分を十分に聞いて理解し、病院の立場から責任を持って誠実に答えるのが院長の役割である。しかし、自治体病院で、首長がきもいりで政治任命した病院長は本当に患者側に立ってしまうことがある。患者の立場に立つ態度を院長があらわにすることを首長は喜ぶ。票になるからである。ところが、院長は自分で診療することが不可能になる。自分の要求することは自分の能力ではできないからである。あるいはリスクを伴うという医療の本来の性質と矛盾するからである。患者の立場に立つ院長はクレームの責任を現場の医師に押し付けようとする。現場の医師は、支えてくれるはずの院長が患者と一緒に無茶な要求をすることに驚愕する。かくして医師は士気を失い、病院を去る。(p168より)。