本当は暇なんじゃないのかという教習所通いも、路上教習5時間目となった。
教習所で聞いたのだが、京都の歩行者と自転車のマナーは全国でもワーストだそうな。救急車に乗ってる実感としても、そうだろうなと思う。緊急車両に道を譲らないばかりじゃないらしい。とにかく信号無視の歩行者や自転車をあらかじめ予想して走れと言われた。
スーパーローテート研修医がやってきてやれやれとか言ってるときに、自分もまた何か新しい技術を身につける羽目になるってのも、また乙な縁だと思う。医者になって初めてサーフロー針を握った時とか、それよりも以前の学生時代に聴診器を初めて他人の胸に当てた時とかの気分を、今また味わっている。研修医たちもまたこんな気分なんだろうねと思ったりする。
何であれ本気で身につけようと努力する、その初めのうちは特に、こんな難しいこと本当にモノになるんだろうかという不安を感じるものだと思う。でも多分、研修医たちよりも私が強気なのは、代償の大きさによることばかりではない。24Gのサーフロー針で超低出生体重児の静脈路を確保するとか、新生児の2音の分裂が聞こえるとか(これは勘違いかもしれんが)、色々と技術を身につける中で、それなりに私は「上達するにつれ、ふと気がつくと世界が違って見える」という経験を積んできた。その感覚で言えばたぶん、自動車の運転もまた、気がつくと世界が変わって見えるのだろうと思える。その瞬間を待とうと構えていられる。むかし神戸で五里霧中だった時代の焦燥感が、今はあまり感じられない。
経験を通じて「上達する」ということ自体の感覚を掴むこと。この感覚を知っている人は、何ごとにつけ、新しいことを身につけるのに一日の長があるんじゃないかと思う。就職時に体育会系の経験の有無を聞かれるのってそういう意味なんかなとも思う。ER第一話のカーター君みたいに座り込んでため息をついてる研修医の人は、自分が何かに上達したときの経験を思い出してみられるのも良いかと思う。
それはそれとして、教習所通いが研修医にばれたら厭だな。これは理屈じゃなしに。
