なんとかいう作家が常習的に子猫を殺していると新聞連載のコラムに告白した一件に関して。
このニュースに接しての感想は、このコラムは将棋や囲碁で言うところの「無筋」、つまりはあまりに下らなくて考慮に値せぬ手筋ではないかということ。囲碁にしても将棋にしても、ある程度に上達すると、この手は先を読むまでもなく何の意味もない着手だということが、直感的に分かるという。あるいは、骨董の鑑定なんてやってるひとが贋作を見た場合には、何とも言えぬ奇妙な感覚を感じると聞く。自分のこれまで得てきた鑑識眼の何処にも「引っかからない」、「語るにも言葉がない」というのか、その奇妙な言葉で語られる、そういうものかと思っていた。
まあ、平たく言えば、語るに落ちるからほっておこうと思った。俺も語るに落ちるものが直感的に分かるようになったんだなあと、おかしな自己満足が無かったとは申すまい。猫飼いの一人としては猫を殺すって言われるだけで直感的に腹が立つんですけどね。
子猫を産まれる片端から崖下に投げ捨てる行為の、どこが生命の
多分にこの人は猫を殺すと告白したところで失うものは何もないんだろうなという勘ぐりもある。作者は自分の飼い猫が子猫を産む片端から崖下の空き地に投げ捨てて殺す人ですって、そういう前振りがあったほうが作品の売れ行きが伸びるような、そういう類の作品をお書きのようだし。
月: 2006年8月
新版K式発達検査初級講習会
昨日から4日間の日程で、「新版K式発達検査」の初級者向けの講習会に出席している。3日間座学で、4日目は実習だそうな。伏見の、桃山御陵の麓まで、京阪に乗って通っている。
今日は座学の2日目。だんだん煮詰まってきた。NICUに帰りたい。
当院では掛け声ばかりで臨床心理士を雇う話が全く進展しない。NICUを退院した後のこどもたちの発達フォローには、詳細な発達評価が不可欠であるのに。業を煮やして、自分で手を出してみることにした。お陰で夏休みが潰れた。
受講してみて、これは無謀な話だったと思う。全体の分量が多いし、手続きは言葉のひとことひとことや、教材の提示の角度まで、まるで茶道か華道のお稽古ごとみたいに厳密に定められているし。100名もやれば分かってくると、講師はこともなげに言うのだが、そんな暇はさすがに無い。まあ、いままで通り児童福祉センターに外注で評価して貰うにせよ(ってセンターこそK式が生まれた本場なんだけど)、検査の中身くらい分かってて悪くなかろうと、志をやや低くしての受講になっている。
予想外に医療関係者は居なくて、50名ちかい受講者の中で医師は私だけだった。大半が養護学校の先生とか、発達相談をなさっている心理の人らとか。医療関係に一番近いと言えば保健師さんくらいか。何だか会場の雰囲気に馴染めなくて戸惑うばかりである。強いて言えば臭いの差とでも言うしかない。決して無愛想とか攻撃的とかいう人らではなくて、むしろ初対面の人たちがこれほど抵抗なくうち解ける様子は初めて見たというくらいで、この人たちに比べたら医者の集団ってお互い身構えてるよなあと思うのだけど。そもそも、この人ら互いを先生と呼んでないもの。変なのは俺らなんだよな。
いや、むしろ人口密度に圧倒されているだけかも。一部屋に数十人が詰めて座っているわけだが、私はそもそも隣家まで徒歩20分の環境で育った人間だから、周囲に人が多いというだけで疲れる。村の小中学校は生徒数少なかったからまだ良かったけれども、高校では息苦しくて叫び出したくなるのをけっこう堪えていたのだよ。医者仕事はそれでもけっこう自分勝手が言えるし、息苦しくなったらちょっと隣室に引っ込んで一息入れることも可能なんだけれども。
まあ、座学は実質あと1日だけだ。実習はもうちょっと少人数になるはずだ。
冥王星が惑星ではなくなった
いったん惑星になったものは教義上分祀できませんなんて・・・いう話はないか。
大和って結局何隻沈めたの?
「男たちの大和」の興行が京都では二番館まで終わったらしくやれやれと思っている。新聞の映画案内にこの題名を見るたび、何とはなく見たいような見てはいけないような気がして落ち着かなかった。賛同して観ようが批判的に観ようが、入場料を払ってしまえば興行成績の一部としてポジティブにカウントされてしまう。それは不本意なのでこの映画は観ないことにしていた。
私も昔はプラモデルの赤城とか武蔵とか紫電改とか作ってた口である。機械は好きだ。巨大な機械は大好きだ。検査機器をメンテする姿を見られて「お前は機械に赤ちゃん相手と同質の愛情を注いでいる」と同級生の医師に冷やかされたほどだ。それは「男たちの大和」を制作された方々と同様である。特別あつらえの大和が大画面を勇猛に進む姿は一見の価値があったんだろうなと思う。当時プラモデルにつぎ込んだ金額よりも安くで観れたわけだし。画像的には、観たい映画だった。
ただ先の大戦で犠牲になった方々への礼儀として、大和が筆頭にでるってのはどうなんだろうとは思った。犠牲を追悼するなら、「男たちのガダルカナル」や「男たちのインパール」を差し置いて「男たちの大和」が出来上がってしまったのには違和感を覚える。
むろん、大和の面々が喰うものは喰えて武器弾薬も持ってたからって、ろくな補給もないままジャングルに逐次投入されて飢餓とマラリアで殺された飢島の人々に、犠牲として優れているとか劣るとか言う話はない。そんなこと言うほど増長はしたくないものだと思う。
とはいえ、やっぱり、「男たちのガダルカナル」じゃなくて「男たちの大和」なのは「絵として美しい」からだろうという邪推を否定しがたい。ガダルカナルには大和の巨躯に匹敵するような機械ネタがないというばかりではない。大和のガンルームではそれなりの議論もできただろうが、密林で自分が飢え死にしつつある意味を考えて、何か結論めいたものが出るわけがない。カズシゲ氏ですら口にすれば決まるような名文句など残ってはいまい。
ガダルカナル戦を始め、英霊と呼ばれる方々の多くは、拝見して鼓舞されるというよりは、辛くて目を背けたくなるような死を余儀なくされたのではなかったか。「シン・レッド・ライン」はガダルカナルが舞台だったと聞くが、あの映画に猿なみの惨めな姿で登場する日本兵をこそ、日本人は追悼しなければならんのじゃないか。彼らの辛さを直視し記憶することが追悼だろうよと思う。
立つことの出来る人間は、寿命30日間
身体を起こして座れる人間は、3週間
寝たきり起きられない人間は、1週間
寝たまま小便をするものは、3日間
もの言わなくなったものは、2日間
またたきしなくなったものは、明日
そんな絶望の中で亡くなった方々を追悼するためになら、靖国参拝もぜひ行われるべきだと思うが。でもなんだか、そういう「画像的に醜い」死に方をした兵士たちのことを、コイズミさんたち靖国にこだわる方々が念頭に置いておられるようには、なかなか思えない。英霊について、いかにも自発的に「国のために生命を捧げた」かに仰るが、国のために死ぬのが厭とは言わんが鉄砲玉もなくこんな密林に放り出されて飢え死にするんが国のためかいなと、英霊と呼ばれた方々は仰るのではないかと思う。
ついでに申しあげるなら、勇猛果敢な戦果を讃えるなら、「男たちの雪風」なんじゃないかと思う。大和の戦果って、輸送鑑としては大活躍だったらしいけど、戦艦としては駆逐艦1隻撃沈だけじゃなかったかな。あの主砲は宇宙戦艦に改造されるまでは一隻の敵艦も沈めてないらしい。道理で波動砲が必要なわけだとは納得したけれど、敢えてそんな大和を持ってくるってのは、やっぱり慰霊というよりメカフェチが動機で作った映画でしょと勘ぐらざるを得ない。あるいはメカフェチでないとすればホテルフェチか? 次は「男たちのプリンスホテル」かも知れませんね。
そもそも「男たちの」という枕詞も何だか気恥ずかしい。「男の隠れ家」「男の一人旅」「男の手料理」「男の休日」・・・森羅万象、「男の」という枕詞をつけてみるとたいてい何でも恥ずかしくなってしまう。娘が一頃「ずっこけ」とかいうシリーズものを読んでたけど、対象への尊敬度において「男の」と「ずっこけ」は同列くらいなような気がする。そういえば「男塾」だってギャグまんがだった初期のほうが深くて面白かったし。あの映画は大和を小馬鹿にして楽しむ映画だったのかも知れない。撮影後のセットを見世物に払い下げたりしてるし。
院には行っても子は産むな、か・・・
女医さんに「妊娠出産するな」なんて言う大学にも臨床系大学院があって、
若い医師たちが4年間臨床を離れて「研究」をしておられる。
4年ですぜ4年。さらに勉強好きな人はその後に海外留学なんてするし。
ならどうして1年2年の子育て期間を目の敵にできる道理がある?
いったい小児科医として、フルタイムの臨床をしばらく離れていた医師があったとして、
1.4年かけて博士論文書いてた医師 と、
2.4年かけて一人(ないし二人)自分で子育てした医師 と、
患者さんにとってどっちが頼りになる医師だ?
どっちか取れって言われたら私が小児科部長ならぜったい2番だけれども。
実際には大学院生も病棟で働くことは多いらしくて、
4年間の研究生活のはずが最初の1年はびっちり病棟勤務とかやらされたり。
でもそんな、研究のはずが穴埋め要員扱いじゃあ、不条理の度合いがさらに増す。
いったいそんな半端仕事の傍ら書いた博士論文が世界をどれだけ変える?
一人のこどもがこれからの生涯で世界に与えるインパクトに匹敵するほどの
インパクトを持った研究成果が出てるんか?
謙虚になれとは言わんがせめて合理的になろうよと思う。
大多数の若い医局員が当然のように大学院に進学するような医局で
産休を迫害するのは不条理だと思う。
病院で暴れる人への対応 私論ですが
あらかじめお断りしておきますが、私は何処で何があったとは一切書いてません。
読者諸賢が何をご賢察になろうとも、それはあくまで皆様のご想像に留まります。
あくまで一般的な状況に関して、私は語っています。
さて。
病院内で暴れる患者・関係者への対応について。あくまで私論ですが「躊躇無く警察を呼べ」という対応がベストなんじゃないかと。主張ではなくて、そういうことを考えました的なメモとして、この記事を書きました。
警察を呼ぶのに何を躊躇うのだろうと思います。肩書きはある癖に背後で眺めてただけの人に「病院職員にも実際の危害は及ばなかったし器物損壊もなかったから警察を呼ばなくても良かった」みたいな事を言われると、恐い思いをした身には大変に辛いです。不信感を覚えます。また例えば、被害者が加害者の身内だったなど、実際に暴力を受けた人が加害者を告発する意思に薄いと推定されたとしても、それはあくまで推定に留まるわけで、その被害者の方から、有効な手だてを打たなかったことを手落ちとして非難された場合、病院はどう弁解するんだろうとも思います。
医者ってそういう暴力的な人への対応に「手慣れている」というタフさを演じて得意がる傾向があるんだなと思います。医者がそういうサラリーマン金太郎的な自演をしても寒いだけなのに。そんなに胆力があるんならあの時云々とは私は決して申しませんが。ええ。そういう状況があったなんて決して申しません。まあ一般論としてね、その時点では何もしなかった人間が、確かに立場上は第一当事者にはならないですむ立場だったとしてもね、後になって「あの相手は弱そうだったしその気になれば制圧できた」なんて言ってもねえ。ええ。繰り返しますが身近にそういう卑怯者が居たなんて決して申してませんよ。そんな奴って居たら不愉快だなあ、という話です。
「前の病院でも再々ヤクザが暴れることがありましたが、そういう時の対応としては警察を呼ぶんじゃなくて・・・・」としたり顔に仰られても、そういう微温的な対応をしてたから「再々ヤクザが暴れる」病院に成り下がったんじゃないかとしか思えない。あの病院では暴れた方が話が早い、みたいな噂や雰囲気が伝播してね。ええ、「できるだけ大多数の職員を集める」は正解です。人数で圧倒するほうが暴力は少なくなるでしょう。火事だって消防署から来てくれるまでは自分たちで初期消火するものだし。でもそれって消防に電話しない理由になるんだろうか。「相手の言動をカセットテープに残して後の証拠にする」も良い手段ですね。でも「後の証拠にする」って、証拠を保管するだけですか?後でって仰っても、病院で暴れる人が「後で」法廷とかの論争の場を準備してくるとでも?暴れる人ってその場での言い分を通してしまえば、「後」なんて無いことが大概じゃないんですか?いや、私は知りませんよ。私は「ヤクザが再々暴れる」病院になんて勤務したことがないし。
そういうことを後で言われる一々が、頑張って事態に対処したにも関わらず「胆力」の無さを小馬鹿にされているような気分にさせられます。
私はおよそ「暴力に訴えて言い分を通す」という態度とは縁のない育ち方をしてきました。至極当然のことだとは思いますが、私の親は子を撲る親ではありませんでした。それに、私の握力は高校の時でも30kg台、背筋力は70kg台。俊敏さにも欠けますので、およそ暴力で他人に言うことを聞かせるなんて、私の人生では選択し得るオプションではありませんでした。
そのためでしょうか、私は目前で誰かが「切れる」と、たとえそれが自分に向かうものでなくても、その光景に接するだけで大変な圧迫や恐怖を感じます。まして、誰かが誰かに実際に暴力をふるう現場に行き会わせると、膝が本当に震えます。それは出生したての赤ちゃんが仮死状態でも冷静に蘇生できるっていうこととは違うと思います。患者の生死の境目でビビる医者はその胆力を疑われても仕方ないかも知れません。私だって他の医者からアンビューを取り上げたことはありますよ。でも、暴れるヤクザの相手ができるできないの胆力なんて、私にそんなもん期待されても困ります。それ相応の方々の助けを呼んで頂かないと。
そりゃあ、健さんが演じる「過去のありそうな人」みたいに、そういう暴れる相手に一言「止めませんか」と声を掛けるだけで相手が黙ってしまうような、そういう迫力があったら、いいなと、それは憧れますよ。そのために網走番外地まで行く気はないけれど。
暴れる相手の言うことを聞くか聞かないか。いや要求を呑むという意味じゃなくて、そもそも耳を貸すか貸さないかというレベルで。相手がふっかけてくる論争に乗って説得を試みるのがよいのか、論争には一切耳を貸さず、ひたすら「静かにしろ」「暴力を止めろ」を繰り返すのがよいのか。むろん「あなたの言動から私は身の危険を感じている」「あなたの言動は正常な医療業務を妨げている」ということはきっちり通告するとして(それでも止めない相手には、こちらへの脅迫とか威力業務妨害の意図があると見なすとして)。そこはまだ私も結論出せません。真摯に相手の言うことに耳を傾けるのが誠意ある対応というものなのかもしれません。でも、論争に乗ってしまうと、こちらの態度が100点満点で一点の瑕疵もないというのでない限りは形勢がどんどん不利になる。だいいち、暴れる本人だって何か言いたいことがあって暴力に及んだわけで、その論争に耳を貸すのは、即ち暴れる利得を認めたことになるんじゃないかと。それはすなわち、次の暴れる人が出現する下地を作ることじゃないかと。ここんところはよく分からない。
なにやかや、そういう状況への対応のしかたを教示した文書ってなにかないでしょうか。ご紹介願えれば幸甚です。
盆も働く
8月15日は朝から鬱陶しいニュースを聞きつつ出勤。これはたぶん、忙しいのを予想もせず朝7時半から出勤して病棟回診に入らなかった私への天誅なのだろうと思う。盆は忙しいに決まっているのに。周りじゅう休診である。世間も近所は休診だと思ってるから最初から当てにせず当院を目指して集まってこられる。院長は大喜びだろうけれども現場はキャパシティを越えるので難儀する。
うちはキリスト教病院だから盆は休まない。ちなみにクリスマスは休みたいよねとか思うけど、私企業だからクリスマスも休まない。8月15日の小児科受診数はちょうど100人。通常の総合病院なら普段の人数かも知れないけれども、当院としては8割り増しくらいに多い。外来が爆発していた。
私自身は火曜日で外来担当じゃないよとNICUで涼しい顔をしていたが。放棄するわけにも行かないしとか言って。内心、俺って幸運だなと思ったりしていた。たぶん、昨日が火曜日でなかったら、もと患者の人たちが帰っておいでになる日だからって総勢で逃げ出さなくてもよかろうにとか、悪態ぼやきまくりだったんだろうなと思う。
日曜にみんなで休んでるうちはまだまだです
日曜祝日に病院は休む。医者はみんな休む。頭の高い業界だ。こんな業界から小児科医不足とか医療費抑制反対とか言われても一般にはピンと来ないんじゃないかと思う。うだうだとした日当直明け。むろんフルタイムで働いて残業して帰宅。
月金の9時5時で営業しててコンビニ受診批判も無かろう。
製造業なら休みを揃えた方がやりやすかろう。休みがバラバラでは仕入れも納入も不便だろうし。だが病魔はべつに曜日を頓着はしないだろう。どうして日曜に揃って休む必要がある?
医師会の内部でどういう申し合わせがあるのかは私は知らない。知りたくもない。知りたくないとは申しながら、もうすぐ四十郎の私には日当直が辛くなってきた。なんで平日に休診日を散らさないんだろう。いつまで俺らはNICUの傍ら「近所の○○先生に罹ったけど治らなくて心配」なお父さんに連れられた子供を日曜に診なければならない?「○○病院には日曜には小児科の先生が居られなくて・・・」な病院の継続処方を書かなければならない?俺自身が退職して日曜休みの診療所を開業するまでか?
更新してませんでしたね
ときどき、ネットに倦怠することがあります。喰い飽きた、とでも言いますか。しばらくコンピューターも開かず、メールチェックだけPDAでやってました。
今回は何でへたってたんでしょう、と思い返してみます。日本沈没の第二部が外れだったせいか。あるいは、若い医者に「カラマーゾフって何ですか?」と真顔で聞かれたせいか。・・・いや、べつにドストエフスキーなんて読まなくても医師免許は頂けるんですけどね。でもねえ・・カラマーゾフって何ですか、か・・・・そのうち、坂本龍馬ってダレっすか?とか聞かれるんでしょうね。ぐちぐち。いや、いいんですよ(棒読み)、医学さえしっかり学んでいればね。
「日本沈没 第2部」は、SFとしてはきっちり完成してました。自然科学的には、確かに、日本が沈没したらその後はこうなるはずです。小松左京氏が第一部の執筆をなさっておられた折に、ここまで考えておられたかどうかは知る由もないですが。むしろ、他の小説に描かれる(たとえば「果てしなき流れの果てに」の1シーンとか)沈没後の断章を読むと、日本の存在だけがポカッと脱けた世界が延々と続くという構想をなさっておられたようにお見受けします。
でも火山の一発だけで気象は変わるのに、富士山をはじめとした日本中の火山が火を噴きながら沈没していった後で・・・とこれ以上書くとネタばれなんでしょうけれども。
でも本書には、経済やら政治やらといった方面でどれほどの説得力があるでしょう・・・。たとえば国内の土地という担保を全て無くした日本人のカネが、沈没後の世界でどれほどの力を持ちうるのでしょうか。紙切れ以下の存在になりはしないのか。是非知りたいところです。あるいは、国土を失った国の政府が、一国の政府として認められる正当性は何なのでしょうか。たとえばの話、本書にある如く狡猾な中国政府なら、自国内の難民キャンプに傀儡的な自治政府を作らせて、日本国政府としての正当性を主張させるような、そういう事はやらんのでしょうか。
そういうツッコミの一つずつで、第3部第4部が書けちゃったりしそうで、やっぱり日本沈没ってのはでっかいテーマだと思います。
本書の中では、日本人は勤勉で謹厳で誠実な、プロジェクトX的美徳に溢れる民族です。日本人ってここまで大したものか?とも思いました。やたら他責的な評論家ばかりが増えて、お産すらままならなくなっている日本人が、国土を失ってなお本書にある如くしぶとく生きていけるのでしょうか。あっという間に雲散霧消するような気がしてならないのですが。
悪役として、熱湯浴的に中華思想に凝り固まった中国やら米国やらが出てきますが、そのキャラの立ちようがあまりに2ちゃんねる的で辟易します。まして、隠蔽しようとした事実を暴かれただけでへへーっとへりくだるなんて、そういう水戸光圀時代の悪代官じみたヘタレさを、米国政府に求めても仕方ないんじゃないかと思います。
小野寺さんとかつての恋人の再開シーンは、谷甲州氏による、「復活の日」の最終シーンへのオマージュでしょうね。あるいは最終シーンは「果てしなき流れの果てに」の1シーンそのままでした。いかにも取って付けたようなラストシーンで、小松へのオマージュ以外に存在意義は無いんですけども。でもあの状況で「君が代」を歌うような面々と同じ恒星間宇宙船には乗りたくないものだと思います。月並みではありますが、国土を失った日本人が、ついに地球上には国土を再建し得ず、宇宙に新しい国土を求めて旅立つとして、その旅立ちに口をついて出る歌はやっぱり「兎追いし彼の川・・・」ではないかと思うのですがね。
カラマーゾフって何ですか
スーパーローテート研修医に真顔で聞かれた・・・・・・・・
J J Paris, N Graham, M D Schreiber and M Goodwin.
Approaches to end-of-life decision-making in the NICU: insights from Dostoevsky’s The Grand Inquisitor. J Perinatol 26: 389-391なる文献について話していた時でした。文献の要旨としては、「回復の見込みのない赤ちゃんの人工呼吸を中止するなんていう決定は、とくに親としてそういう決定を求められるってのは人間一般の心情として過酷すぎる要求ではないか」というもので、多いに首肯できるものではありました。といいますか、これまで自己決定できない奴は自分の当然の権利を放棄する腰抜けだみたいな倫理観を世界中に押しつけておいて、この期に及んで今さら何を言い出すんだと苛立ちましたね。こういう議論はとっくに終わってるんじゃなかったのかね。
いやあ今さらカラマーゾフなんて持ち出してるけど向こうの奴らってカラマーゾフ読んだことがなかったんかねと、研修医に振ってみたんです。勉強が忙しくて古典なんか読めないんでしょうねという感想が当然頂けるモノだと思ってたんですがね。彼女の答えが、「先生、カラマーゾフって何ですか?」でしたね。
参りました。もう海の向こうの面々の倫理とか教養とかもう二の次です。私はいったいどういう若者たちをこれから相手にしなければならんのだろうかと、目眩がしました。
ドストエフスキーの小説じゃないかよと言われて、ああ、と思い出されるようならまだ救われたんですがね。いくら生命倫理の話をしてるったって、医局でいきなりロシア文学の話がでるなんていう文脈は読めなくても当然だし。でも「カラマーゾフの兄弟」って読んだことないの?と聞かれても手応えなし、どう見ても、そういう古典文学の存在を知らない様子でした。
いや読んだことがないのは別に恥じる事じゃないかもしれんですよ。確かに大部な小説ですしね。でも、その題名すら聞いたことがないってのは、およそ医学部を出て医師免許とった人間の一般教養としては、すこし貧しすぎるんじゃないかと思いますがね。知らないという告白も、もう少しおずおずと、恥ずかしげになされるべきものじゃないかと思いましてね。
2言目に、「いやドストエフスキーって暗いというイメージがありましてね」と続けられて、これで彼女がドストエフスキーを一冊も読んでないってのが明白になったんですが。
そりゃ貴様こそ大学時代にドストエフスキーなんて読んでたから今になってそんな場末のNICUで燻る羽目になるんだなんて言われたら、たしかに御言葉ごもっともではあります。彼女らが、ドストエフスキーを読む時間を潰して他の何かの教養を身につけておられるのなら、それはそれ、尊重するべきではあります。ひょっとして医学の修練のためにはドストエフスキーよりも為になるものを身につけてこられたのかも知れませんしね。でも、まあ、産科で干されてる間に本の一冊でも(カラマーゾフは新潮文庫で3冊だけど)お読みになってきたらと、嫌味がのどまで出かかったりはしましたね。