医療崩壊に関する昭和残侠伝的考察

医療崩壊をあんまり言い立てたくはないよなと思う。
品がない。
負け戦の陣中にあって負けだ負けだと騒ぐのは美しくない。負けが誰の責任だと言い立てるのは尚更だ。その分析は正解かも知れないが、その正解が尊敬を呼ぶとは限らない。敗軍の陣中に我が身があるのも、それまでの縁があり身の来し方があってのことだ。
先の休みに高倉健主演の「昭和残侠伝」を観た。健さんが格好良かった。
健さん演じるテキ屋が(ヤクザとは言いたくない)数年ぶりに復員してみると、組の縄張りは新興の愚連隊に荒らされ、相思相愛だった女は健さんが死んだものと諦めて結婚していた。それでも健さんは不平不満の一言も言わず、崩壊に瀕した組の5代目を継ぎ、愚連隊の横道な挑発にも乗らず、血気に逸る若い衆(松方弘樹とか梅宮辰夫とか)を押さえ、地道に組を立て直そうとする。
「誰が組をここまでじり貧にしたんだよ」とか、「もうテキ屋の時代じゃねえんだよ」とか、シンプルに「やってられねえよ畜生」とか、私なら多種多様な愚痴を垂れるばかりで全然動けないだろう状況を、健さんは何も言わずに引き受けるのである。仕入れのトラックを愚連隊に襲われて荷が売り物にならなくなっても、仕返しに殴り込みをかけようと主張する若い衆を諫め、配下の露天商たちには「ブツは私たちが責任持って明日までに何とかしますから、売人のみなさんがたにはご安心なさって・・・」と頭を下げる。おお、そこで頭を下げるか!と私など普段の頭の高さを反省しきりであった。
おそらくこの健さんのような人物が、日本の津々浦々で、今この瞬間にも地道に患者さんを診ておられるはずなのだ。そうして、図らずも巻き込まれた状況の責任を、みずから負おうとしている医者がいるはずなのだ。いるはずって言うとなんだか少数派みたいだけど、それは人前でケツイヒョウメイをやるには含羞が邪魔するからで、大抵の医者は健さんの唐獅子牡丹のような、ある種の秘められた覚悟を背負ってるんじゃないかと思う。
それをドンキホーテと揶揄し、個別撃破されるぞと冷やかしてみるのは、それは勝手であるが。日本国憲法でも表現の自由は保証されてることだし。でもね、「法律の話をしてるんじゃないんですよ。渡世には渡世のしきたりってもんがあるでしょう。」とは、これは健さんの台詞である。