「容疑者 室井慎次」にみる、「現場の知」への尊敬の欠損

昨夜、テレビで「容疑者 室井慎次」を観た。「踊る大捜査線」シリーズのファンに対しては、ネットでの評判が今ひとつのようだが、私は「踊る」シリーズを観ていないので、単発の映画としてそれなりに楽しんで観た。寡黙な人物が信念を貫く物語は好きだ。
ただし、本作の制作陣には、「信念を貫く」という態度、あるいは「現場の知」という概念に、あんまり尊敬を持ってないんじゃないかという印象を持った。

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最後には健さんも切り込みに行く

前記事では言及しなかったけど、周知のこととして、最後の最後に健さんは日本刀を持って敵地に乗り込んでいく。
このラストシーンがあればこそ、それまでの忍従が映えるという一面はある。
一面どころか、このカタルシスがあればこその人気ではあろう。
俺らはいつごろどこに切り込んでいくのだろうと、ときどき考える。
忍従を重ねていた時の健さんには、敵がここまでやったら切り込んでも善かろうみたいな類の計算高さはなかったと感じられる。忍従している間は心の底から無期限・無制限に忍従するつもりなのである。それがある一点で、ふと、先代に禁じられていた刀を手に取るのである。
その一点での変化はまさに相転移である。転移する前の彼には、転移後の冷徹な容赦無さは感じられない。拳銃を持った敵に「ここを狙えよ」と自分の胸板を叩いて切る啖呵や、あるいは学生服姿の先代の実子に「実子、5代目の言うことが聞けねえんですかい」とその軽薄さを叱りつけるドスのきいた声に、この人は怒ったら恐いんだろうなとは容易に想像つくけれど、まさか敵を情け容赦なく下っ端一人残さず斬り殺す人だとまでは予想できない。
転移後の彼の姿にも、転移前の姿は微塵もない。この修羅のような人に、かつて卑怯な敵からの挑発を耐えに耐えた時期があったとは到底思えない。まあ、さらに言えば、こんな恐い人を挑発する馬鹿がいたとも到底思えないんだが。
しかし転移後も彼自身は自分を失ってはいない。けっしてキレてはいないのである。転移前の彼も彼、転移後の彼も彼。であればこそ、池辺良も健さんとともに切り込みに行くのである。ここまで忍従したんだから等と詰まらぬ御託を吐いて健さんを止めようとはしないのである。健さんも、池辺の荷担を一度は止めようとするが、池辺が怯まないのでそれ以上は拒まない。
それは健さんが(池辺もまた)この切り込みの必然性:「やむにやまれなさ」を確信しているからである。それに、彼らは恐らく敵の矮小さを見切っていた。自分たちの戦闘力や胆力を信頼していた。だから生還率はともかくも、目的の遂行という点ではかなりの成功率を見込んでいたのではないかと思う。意識的な計算ではなくとも、皮膚感覚として、これは勝てると「感じて」いたのではないか。
こういう、「キレる若者」のカリカチュアとは水準の違った奥深い人物造形を見せることで、網走番外地という物語も成立するのであろう。
さて。健さんに見習うとすれば。私に健さんの気高さは及びもつかないにしても。精々があの映画に出てくる松方弘樹に及べば上等な程度の胆力しか無いにしても。初級者であればあるほどに、よいお手本が重要であるということで、健さんが自分だったらと考えるとすれば。
俺らが切り込むのは何時か。切り込む先はどこか。切り込む手段は何か。
切り込んだ後で尚、網走番外地的な後日談が成立するだろうか。
まあ、忍従のフェーズでそんな事を考えること自体、健さん的人物が決してやらないことなんだろうけれども。
少なくとも、組を捨てて姿を消すことは、健さんの選択肢には無い。まして、逃散を切り込みと同一化することは論理的にあり得ない。俺が居なくなったらお前ら困るだろうみたいなケチな魂胆はない。
条件次第で敵に流れる売人たちを責め立てることも、健さんはしない。
むしろ、「売人の皆さん方にはご心配なく」と頭を下げる。
容赦するのではない。自分のほうが寛恕を請うのである。
それは決して卑屈な態度には見えない。むしろ誇り高く見えた。
さらに言えば、健さんはたぶんブログを書かない。
何も言わない、何を考えてるか分からない、ということには戦略的意義もあるんだろうけど。むろん、彼が意識的にその意義を計算してるとは思わないけれども。
じゃあお前も黙ってろよ、との読者諸賢のお叱りはごもっとも。でもまあ、私もこう書くことで自分に言い聞かせてる面って多分にあるんですよ。