昨夜、テレビで「容疑者 室井慎次」を観た。「踊る大捜査線」シリーズのファンに対しては、ネットでの評判が今ひとつのようだが、私は「踊る」シリーズを観ていないので、単発の映画としてそれなりに楽しんで観た。寡黙な人物が信念を貫く物語は好きだ。
ただし、本作の制作陣には、「信念を貫く」という態度、あるいは「現場の知」という概念に、あんまり尊敬を持ってないんじゃないかという印象を持った。
たしか、本作の解決のような筋書きを、デウス・エクス・マキナとか言うのではなかったか。主人公たちが二進も三進もつかなくなったところを、いきなり公安が些か強引な手法を用いて解決してしまう。公安の活動する姿は一切画面には出ず、「解決しましたよ。そこの悪役の君、もう出る幕はないよ。」という主旨が説明的台詞に語られるのみ。
今まで引っ張ってたのは何だったんだよと、視聴者としても肩すかしを食った気分になる。Wikipediaの解説によれば、水戸黄門の印籠もデウス・エクス・マキナの一例だと言うが、あれは視聴者としても最後にあの印籠が出るぞと期待して観ていればこその爽快感なのである。物語的に、黄門が印籠を使わず、知恵と勇気と些かの腕力だけで問題を解決するだろうという期待を持たせられていたとしたら、最後に印籠が出るのは鑑賞者への裏切りなのである。
本作ではまさにその類の肩すかしであった。停職に追い詰められた警視正と、現場の刑事たちが、腐った上層部や糞ったれた弁護士に嘲笑される泥臭い捜査手法で犯人を追い詰め真相を解明してこその物語であった。視聴者としてもそれをおおいに期待して待っていた。それが、事実上まだ何にもしていないうちに、突然現れた機械仕掛けの神に、もう話は終わったよと言われてしまった。なんじゃそりゃ。
しかもその解決の手法は、いかにも「公安」という組織にまつわる謀略機関的な負のイメージそのままだった。容疑者が後ろ盾と頼む父親は「怪我で入院」して容疑者と連絡がつかなくなった。容疑者の弁護士は(たいへんに腹立たしい人物であったが)、これ以上に首を突っ込むと生涯にわたって公安が監視下に置くよと告げられた。
本作においては敵役である、八嶋智人演じる灰原秀樹弁護士が論う「警察権力」が、灰原の言うとおりに巨大で薄汚く不気味なものであると、制作陣は作品を通して主張している。
たしかに、それはその通りなのかも知れない。人を追い詰めるという性質は、本作で描かれている通りに警察も弁護士も持っているものだろう。それは真実だ。あるいは本作では描かれなかったが、マスコミもまたおおいに人を追い詰めるものだろう。この点で本作は不徹底だ。
他者の不徹底さを貶した責任をとるとするなら、恐らくは医療もまた人を追い詰めるものだと、私としてはここで言及しておくのが政治的に正しい態度であろう。
しかし、主張にはバランスというものがある。本作ではもうちょっと柳葉敏郎演じる室井慎次警視正に良いところがあったほうがよかった。室井を徹底していたぶった結果、本作は、世の中は灰原の言うとおりだよと、「真実なんて金にはならないの!」と、作品全体のメッセージとして主張してしまっている。まあ、フジテレビの番組なんて何時でもそう言ってるじゃないかと言われたら話が終わるんだが。
何様、室井には良いところがない。捜査手法を巡って身内に逮捕され、停職になり、新宿の繁華街で(あれが有名な歌舞伎町ですか?)撲られて雨のなか気絶し、半分切れかかって重要参考人を任意同行させたはいいが、一言の供述も得られぬまま、とつぜん警察が悪かったとか言って参考人に謝り始める。
「真実が知りたい」と室井は言い、自滅的にすら見える捜査を続ける。しかし、彼が希求する真実の解明に、彼の苦心の捜査は何ら寄与していない。本作のコンセプトでは、彼は「口幅ったいが所詮は無能な道化者」に過ぎない。本作での彼の集大成的な、容疑者に対する謝罪の言葉すら、容疑者には届いていない。それを聞いて容疑者が改心し自白するでもなく、かえって反発するでもなく、何というか、まるでコミュニケーションが成立しないのである。猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、その類のコミュニケーション不在。あたかも容疑者一人に留まらず、本作制作陣の基本理念レベルで、室井を愚弄あるいは無視しようとするかのような。
確かに彼は無能だ。自分が雨中で撲られた事実をどうして軽視したのか。例えば七曲署捜査課の山さんやチョーさんゴリさん達なら、室井を撲った犯人と当初の事件には何らかの繋がりがあると判断したのではないか。そっちを追ってりゃ真相にたどり着けたのに。
さらに言えば、ドックなら、傷の性質からして犯人の身長はこれこれで利き腕はどっちで凶器はこれこれで類のことを見抜いたのではないか。「マイコン」刑事(うわー懐かしい言葉)なら、そう言えばどこそこの携帯サイトにそれらしい書き込みがあったぜ類のことを検索してくるんじゃないか。
室井や新宿北署の面々が無能なのは、制作陣が「現場の知」について理解してなかったからじゃ無いかと思う。室井達をどう活躍させたらよいのやら、たぶんフジテレビにそれを知ってる人間はいなかったんじゃないか。室井が「現場」と言う時、それは多少の規則違反(特に暴力の使用について)を許容するという文脈でしかない。新宿北署の刑事達も、室井より多少粗野なだけで、室井とは異質の知の存在を感じさせる場面がない。彼らは室井の分身、あるいは子プロセスに過ぎない。
たとえばの話、「現場」に根を下ろした刑事なら、自分たちの管轄内で制服警官が芳しからぬ女の子と付き合ってる云々について、うわさ話すら聞いたことがなかったってのはどういう訳だろう。親の金で遊んでるらしいいけ好かない女に二股かけられてるよ等と、平常時からこっそり耳打ちしてくれるような、街の人との繋がりを、この刑事達の誰も持たなかったのだろうか。いくらディープな街でも、あるいはディープな街であればこそ、こんな女をそろって庇い立てすることはしないと思うが。
あるいは他人に頼まれてサツの旦那に手を出すようなキレた奴はみたいな見当が、普段から何となく出来上がってたりしないものだろうか。その他諸々、私ら視聴者など外部の人間とか、あるいは室井みたいな上から降ってくるエリートたちの想像を絶するような智慧の異臭が、彼らの間から立ちのぼるような場面があって良いんじゃないかと思った。少なくともね、街に根ざしているはずの所轄の刑事が四苦八苦するような案件を、公安が腹黒く一気に解決できるようじゃ、所轄の存在意義すら無いんじゃないか?他所から突然やってくる公安みたいな組織をこそ、こういう街は免役的に拒絶するんじゃないのか?それを刺激せずじんわりと普段から浸透しておくのが、現場の刑事のありかたなのではないか。
それは例えばNICUで急変直前の赤ちゃんに生じつつある僅かな異変を、穏和そうに見えるお母さんの心の中の微妙な翳りを、ベテランの看護師が嗅ぎ取っていたりするような。看護師が医者の子プロセスやサブセットではないような。正直、半端医者程度の目鼻しか利かない看護師なんて迷惑だからNICUには要らないし。
現場の意味を知らない面々に、現場の粋たる臨床について、あれこれ言われたくはないんだが。