「上達の法則」 岡本浩一著・PHP新書 p114より
以上数項目にわたって述べたように、上級者は、他者への評価判断が早く、しかも、明瞭にできるのがふつうである。それにもかかわらず、その評価をすぐに口にしたり、表に出したりしないのも、また、上級者の特徴である。
医療「過誤」がマスコミに論われるとき、識者のコメントとして、当該科の専門医がどう言ったとか、どこそか大の助手がああ言ったとか、紹介されることがある。
大概、そのようなコメントは、仲間うちでは批判的に扱われているように見える。良いことを言ったという評価はあまり聞かれない。積極的評価はおろか、擁護の声すらも。まあ、医者批判の記事の論旨を補強するためのコメントに、医者の大勢が賛成するようなコメントが採用されるってのもあんまりなさそうなことだが。あったら凄い記事だろうな。読売の鈴木敦秋記者なら書けるかもしれないな。
それは医者業界の批判されることに対する耐性の無さを露呈したものだと思っていた。内部批判をただちに裏切りと解釈してしまう頭の悪さ、などなど、ある意味見苦しいお話だと思っていた。しかし本書「上達の法則」の一節を最近思い出して、考え直している。案外と、この「識者」叩き的な態度にも五分の理くらいはあるんじゃないかと。全面的に正当化できるとまでは言いませんがね。
個別の案件を思い返せば、私自身も、「識者コメント」には批判的なことが多かった。「何じゃこいつは」と呆れさせられることも再々あった。それはたまたまそこに出てきた識者がスカなんだろうと思っていた。あるいは識者氏がどんな慎重な意見を述べても、取材者側で編集しちまうという場合もあるんだろうと。
しかしそういう個別の事情を越えて、構造的に、こういう、マスコミに追いつけるほどの脊髄反射的速度でコメントを出せる識者というのは、しょせん中級者止まりでしかありえないという、原理とか法則みたいなもんがあるんじゃないだろうか。
本書「上達の法則」によれば、上級者は他者の力量を読めるから、黙っていても自分の力量が同僚に読み取られていると分かっている。従って、他者の評価を口に出すことで自分の力量を誇示したいという願望は薄くなっているという。
さらに、上級者は上達のしくみが理解できてるから、上達の途中にある自分の評価を永遠のものとしないだけの謙虚さを弁えているという。
・・・上級者まで来るプロセスのなかで、ものごとを評価する際の認知スキーマが何度か革命的に自分のなかで変容したことを自分が経験している。したがって、いま自分が見ている他者への評価は、いまの自分の心に映る評価であって、自分がこの先、さらに進境があれば、その評価スキーマそのものが変わる可能性のあることを心の片隅で承知している。同時に、自分が評価を表明すれば、自分よりもさらに境地の進んだ他者の目に、自分の認識システムの成熟度をさらすことになることもわきまえており、それも留保の材料となる。それは、現時点での評価が明瞭に行われているという現象と併存する心理的留保なのである。