故郷の山は常緑であったはず

2泊3日で、息子を連れて故郷に帰っていた。
たちの悪いウイルスのように、魯迅の「故郷」が頭に居着いていて、帰省というといたずらに物憂い気分になる。「厳しい寒さをおかして、二千余里をへだて、二十余年間無沙汰をしていた故郷へ、私は帰った。」とか何とか。実際には、冬とはいえ長崎の陽光はさすがに強く、魯迅というより中島敦の南洋譚のような光景ではあったのだが。そして中島の南洋譚よろしく、強い陽光の下でじりじりと故郷は衰退しつつあった。
大村湾に突出した小さな岬のたもとに実家がある。実家の前は海、実家の裏山の向こうもまた海である。その岬に植わった木々が褐色に変色していた。一見して紅葉かと思ったが、しかし本来ここの山は常緑のはずだ。紅葉する木もあるにはあるが少数派だ。大多数の木は緑のままで年を越す山であったはずだった。
昨年の台風の影響だという。風ばかりで雨の降らない「風台風」だった。例年の台風なら塩をかぶっても雨で片端から洗い流されるのに、昨年は塩をかぶったままその後の2ヶ月ほど渇水に堪えねばならなかった。そのために例年になく山が枯れたのだと母は言う。
とくに岬の突端付近の変色が激しい。かつて子どもの頃に遊んだ道を登って岬の尾根に立ってみる。ここはまさに「二十余年間無沙汰をしていた」場所である。
海岸から登り詰めるとすぐ向こうに海が見える。向こう側は崖になってまっすぐ海へ落ち込んでいる。この尾根はこんなに細かったかとまず思う。それは私がもう小学生ではないからだろう。しかしこの尾根はここまで砂地ではなかったはずだとも思う。昔はクッション代わりに出来るほどに落ち葉が積もっていたような記憶がある。今は、植物が腐敗してできる系統の土がほとんど無くなっていて、岩石が砕かれてできる系統の砂地になっている。まるで黄河流域だ。
たぶん風がきれいに林の土壌を剥ぎ取っていったのだろうと思う。昔は木々が密生して風を遮り、尾根の土を保持していたのだろう。そう言えば、昔はこの尾根に登っても、岬の向こうの海は今ほどには見晴らせなかった。おそらく木々の防壁を破るほどの激しい風台風だったのだ。そして土を奪われた林は瘠せ、ますます風通しが良くなり、瘠せに拍車が掛かってしまっているのである。
こういうのを温暖化と言うんだろうか。国破れて山河ありと漢文で習ったような記憶がある。そんな漢文の授業を受けていた子供時代には、たしかに、この山が枯れるとは思ってもいなかったのだが。
そういえば今は「国勝って産科なし」の状況ですが。まあそれはさすがに温暖化とは関係なさそうですがね

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