もんきー・まじっく

当直明けの日曜に、iTunesをいじっていたら、「モンキー・マジック」のいろいろなバージョンを発見した。MONKEY MAJIKなるバンドが歌う「MONKEY MAGIC」と、復活したゴダイゴが歌う「MONKEY MAGIC 2006」。元祖の「モンキー・マジック」はゴダイゴのベストCDで持っていたので、聞き比べ。
元祖の「モンキー・マジック」は疾走するスピード感がいかにも悟空のテーマである。編曲も軽くてシンプル。觔斗雲に乗ってかっ飛ばす感じの曲である。MONKEY MAJIKの歌はのんびりゆっくりな感じ。シルクロードのオアシスのほとりで沙悟浄が歌ってそうな。觔斗雲ではなくて馬と徒歩のペースである。復活ゴダイゴの歌は、元祖のときより楽器の編成が分厚くなって重厚感が増している。豪華絢爛。
西遊記に重厚感を付加してどうするんだろうと思う。猪八戒を主人公にするとでも?
引退して金と暇ができたかつてのエレキ小僧が再結集して、かつての自分には手の届かなかった良い楽器を買いそろえて、豊かな人生経験とやらを加味して、円熟した音楽をやって。復活ゴダイゴにはそんな雰囲気を感じてしまう。それはそれで何も私ごときが難癖つける筋合いのことではないが、しかし、昔の歌と聞き比べると、失われたことの方が大きいような気もする。

ウィルコムの社長は松平健にそっくり

急患で起こされて二度寝するには半端な時間で、朝7時半からの経済番組を当直室で見た。ふだん見ない系統の番組なので面白かった。
ウィルコムの社長をゲストに呼んであったが、容貌が松平健にそっくりだった。何をやっても「松平健にそっくりな人」で通されてしまいそうで気の毒だった。それに反発してのエネルギーで社長まで上り詰めたのかもしれないけれども。
やっぱり社長としては暴れん坊なんだろうか。部下の仕事ぶりを取材した映像をじっと見ている表情は、斜に構えたところがなくて、いい社長なんだろうなと思ったが。でも松平健にそっくりな顔では斜に構えようがないよなとも思った。
まだ高倉健にそっくりでなかったのが救いかもしれない。「健さん」にそっくりだったりしたら、どうあがいても跳ね返しようがないような気がする。
いずれにしても、まあ、大きなお世話ではあるが。
ちなみに昔H”を使っていた頃は、音が良いし救急車からも安心して使えたしで機能はよかったのだが、うちの病院敷地の奥の方が微妙に圏外だったので、困って結局auに乗り換えた。最近はどうなんだろうか。アンテナ増やしたと番組でしきりに宣伝してたけれど。

微妙にスランプ

午前中は病棟・処置担当で外来や病棟をあちこち動いては採血や点滴をする。いかにも雑用ではある。スーパーローテート研修医が入力した採血を何で俺がやらにゃあならんのと憮然とすることもある。私を温厚な人間だと思う人があったら全く間違いなのである。しかし度胸なしでもあるから、その研修医を呼び出すこともなく、諾々と処置に歩く。
今日はちょっと調子が悪かった。いちおう成功はするんだけれど、なんとなく「芯」に当たらないというか。今さら駆け出しみたいに針を何本もつかうような悲惨な状況にはならなかったのだけれども、何か変だった。何だったのか。
たぶん昔ならそういう変調も気にもとめなかったと思う。そう言う意味では成長したんだよと誇示してみる。誇示しながらも何とはなく不安ではある。こういう日には超未熟児は産まれてほしくないものだと思った。
一般小児科の子供たちには悪いが、この雑用的処置当番はこういうトレーニングや調整の場でもあると思っている。打撃投手が投げる球を黙々と打ち込んで試合に備える打者に自分を擬してみる、みたいな。親御さんには処置に立ち会っていただいている。親御さんの目があると緊張は増すんだけれど、超未熟児相手の、この一本で決めないとこの子が一歩死に近づくというときの緊張よりはマシなような気がする。そうして指先と胆力を錬る。

飼い猫に顔を掻かれる

16日の休日に当直明けで帰って昼寝をしていたら、猫のどれかに顔を引っ掻かれた。4匹もいるとどれにやられたんだかよく分からない。たぶんにゃん黒だろうと思っているのだが。私が寝るといつも寄り添ってくるので。たぶん誰かに挑発されたんだろう。
7kgもある重量級の猫が顔の上を駆けたにしては軽傷で済んだが、しかし一夜あけてもむろん切創が残っている。仕方がないので一日マスクをして過ごした。そのためか新生児搬送に行ったさきの産科の先生に疲れてるんじゃないかと言われてしまった。やれやれ。まあ確かに疲れてますけどね。
べつに顔を晒していてもいいんだろうけれども、たぶん夫婦喧嘩したんじゃないかという冷やかしがあるんだろうと思った。私はその手の冗談は好かない(カエルラ・サングウィス風に)ので、マスクは「触れるな」というメッセージ代わりのつもり。

万年筆フリーク

スーパーローテートで来ている研修医が万年筆を使っている。普段からなんだか高級そうなのを使っているので、単によいところの坊ちゃんなんだろうと思っていたが、先日は白衣のポケットにラミーサファリをさしていたので、これは本当に万年筆好きなのかなと見直した。臨床はあまりろくなこと教えないくせに万年筆談義をするのも気が引けて、病棟ではその話題を振らないでいる。
いちおう私もMONT BLANCのMEISTERSTUCKを持っていたりする。むろん自腹で買ったものではない。妻の身内に長崎でも最大級の文具店の偉い人があって(だから妻は生意気にも子供の頃から鉛筆は三菱ハイユニだったらしい)、その方から頂戴したものである。
さすがにプロだと思ったのは、下さったのが定番149ではなくて146だったということだ。ル・グランとかいう製品系列のもの。149より一回り小さい。それが私の手の大きさによく合う(注)。149が定番なのは本国ドイツ人の手の大きさに合うからだろう。阪神大震災の時に海外から救援物資として届いた手術用手袋は大半が9号だったし、海外の人の手はやっぱりでかいんだろう。手術用手袋なら7号がフィットする私の手には149はたぶん大きすぎる。試し書きもしたことないからよく分からないけど。
‘注)Randomized controlled trial はしていないのでエビデンスレベル高くありません。はは。やってみたいなそういうRCT。
ただ病棟では万年筆はあまり使い出がなかった。というのは病棟で医者が書くものの半分以上が複写伝票だったからだ。3枚複写の退院サマリーなんて万年筆では3枚目が読めない。それでも強引に使っていた時期もあったが、さすがになんだかペン先の調子が悪くなってきたような気がして、いつのまにかボールペンに戻っていた。それが最近はオーダーリングのオンライン化が進み、気がついてみると複写伝票が相当駆逐されている。かえって、昔ながらに医者は万年筆という時代になりつつあるのかもしれない。戦前のように流麗な筆記体でドイツ語カルテを書いたりして。
当初は使い方もありがたみもよく分からなかったということもあって、そうとう荒っぽい使い方をしていたから、先日修理に出したら大半の部品が新しくなって帰ってきた。頂いた当時の部品がどれだけ残っているやら。なんだかトライダーG7みたいですが。でもこの万年筆を大事に使い続けることが私ら夫婦にとっては大事なことのような気もする。他のは買えないねということで、物欲に歯止めをかけている。

謦咳に接する

周産期新生児学会では多くの有名な人の謦咳に接したのが収穫だった。論文や著作やメーリングリストやで名前や意見を知っていても、実際にどういう人なのかは、語り口に接してみるのがやはり一番のような気がする。強面な外見とはうらはらに実に細やかな心配りをなさる先生、理路整然とした発表を良い声でなさる先生、訥々と語る先生、そのほか諸々。誰が優れているとか劣っているとかじゃなくて、なるほどそういう風に語る人なのかという認識をいろいろな人について得たということで。
初対面の私にも細やかにものを教えてくれる先生もある。いかにも老師といった感のある先生であるが(老という漢字にはほんらい尊敬の意味が含まれているのだよ)、こういう著名な先生はたぶん「この先生こそ自分の師だ」と思わせるのが大変に上手なんだろうなと思う。さらには「自分こそがこの先生の目指す先を誰よりも正しく読み取っている」つまりは自分こそがこの師の正当な弟子だと、思わせるのが巧いんだと思う。そういう人のまわりにこそ人が集まるんだろうなと思う。技巧的な人間関係作りだと非難しているわけではない。たぶん老師はいまご自身がいちばん興味をお持ちなことを楽しそうに語っておられるだけなのだ。
地域の中心となって大きな施設を引っ張っている先生はそれなりの強い言葉を使われる。熱心なのは分かるがそんな物言いしてたんじゃ気づいてみたら誰も後ろについてきてないってことになりはしないのかと、他人事ながらちょっと心配になったりもした。引退間際に気づいてみたら自分が引退した後は施設も地域医療も衰退の一途だということになってたりして、と。じゃあ私自身みたいに弱腰な人間なら後ろに誰かついてくるのかと言えば、なおさら人は逃げるわけで。今日も600gの子の点滴に苦労しながら、老眼鏡を買う時分には後継者が現れてるんだろうかと、我が身と勤務先の行く末を案じたりした訳なのだけれども。
そんな中にあって、自閉症はメディアが原因と力説しておられるかのK先生がご発言なさるのを拝聴した。書き物ではトーンダウンしておられるけれども会場でははっきりとそう仰った。その語りと会場の反応を見聞きして、逆説的な言い方ではあるが、多少は安心した。数年待てばよいだけだ。

そのときは彼によろしく

そのときは彼によろしく
市川 拓司 / / 小学館
ISBN : 4094081607
周産期新生児学会で東京に出張した帰りに、新幹線の中で読んだ。
一昔前なら、これは藤原伊織「シリウスの道」と村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を折衷して、さらに「目黒のさんま」の落ちみたいに脂と小骨を抜いた小説だとかなんとか酷評していたんだろう。でも出張帰りの新幹線で読む本にまで見栄を張って小難しいものを選ばないでもよかろうとは思う。たまに頭を空っぽにして幸せな気分になるのもよろしいじゃないか。なにより、主要な登場人物に邪悪な人間がいない。また主要な登場人物の誰も不幸にならない。頭のなかを洗うのにちょうどよい。

久間防衛相がしょうがなくて辞めた

てっきりこの発言は安倍首相の意を汲んだものと思っていたのだが、違ったのかな。米国の対イラク政策に対する批判を口にしてきた久間防衛相が、ここに及んで、選挙区の事情も顧みないかのような発言をするには、何か意味があるのだと思ったのだが。
米国の対北朝鮮政策に軟化の兆しがあるなかで、拉致問題で強硬な態度をとってはいるものの実際に切れるカードはほとんど切り尽くしてしまった安倍首相としては、米国がこのまま拉致問題を置き去りにしかねないという懸念が大いにあろう。拉致問題をあおって業績と称してきた俺の政治生命はどうなるんだと思うと夜も眠れないことだろう。
さらに米国下院での慰安婦問題に関する決議が追い打ちをかけてきた。慰安婦問題に関しては安倍首相のこれまでの言動はけっして米国受けするものではない。下手すると北朝鮮による他国民の拉致と日本の慰安婦問題とか同列に扱われかねない。ここらで強烈に米国にすり寄っておく必要がある。
なんだかんだで「昔はみんな悪だったよね」とか「今から考えたら非道な話だけど当時の事情ではしょうがなかったんだよね」とかいうメッセージを送って、慰安婦問題も「しょうがなかった」ことにしてもらおうという思惑なんだと私は解釈していたのだが。拉致問題もしょうがなかったということにはならないよう、そこは時代が違うんだということで差異をつけることにして。もともと大きな選挙の前には自民党は米国にすり寄るものだし。そういう首相の意を受けての発言ではなかったのかと思っていた。
何にしても安倍首相は久間防衛相を即座に切るわけにはいかなかっただろう。イラク戦争を批判した時点で彼を切らず原爆投下を容認する発言をした時点で切ったとしたら、米国がそこにどういうメッセージを読むかは明白である。せめて「泣いて馬謖を斬る」形にしておかないとねという思惑はあろう。