くらやみの速さはどれくらい

くらやみの速さはどれくらい (海外SFノヴェルズ)
エリザベス ムーン / / 早川書房
ISBN : 4152086033
自閉症者自身は「自閉症を治す」治療をうけることを選択するか否か、というのが本書のテーマである。自閉症故に困窮して生存もおぼつかないような状況ならともかくも、経済的に自立し(「就労」どころか高給取りだ)日常生活も余暇も完全に自立している自閉症者が、それでも自らの自閉症を治そうとするか否か。自閉症を治すとは、彼の存在のありかたそのものを変革するということである。ある意味で彼が彼ではなくなるということだ。彼はそれを選択するか。周囲の者はその選択にどう接するのか。
本書は自らも自閉症児の母である著者が、このテーマを考え抜いた小説である。主人公の自己決定を妨げるいろいろな要因は、ひとつひとつ丁寧に取り除かれていく。主人公の無知も、暴虐な上司も。主人公は自分でその治療法の科学的根拠を基礎から学び、自分で考え抜いて、決断することになる。主人公ではなく物語世界のほうを動かすことでものごとの本質に迫ろうとする、まさにSFの王道ともいえる手法である。実際、2007年のネビュラ賞受賞作で、巻末の解説では梶尾真治氏が絶賛していた。
周囲の者は、その選択を彼の自己責任と言って済ませていいのか。あるいは介入して阻止するべきなのか。自閉症を治すとは君が君でなくなることじゃないかと指摘するのはたしかに正鵠を射ているのかもしれないけれど、実際に小説に登場する人物にそれを言われると、意外に浅薄な言葉のように感じられた。君は今のまま自閉症のままでいるべきだと言う権利が周囲の誰にあるのか。君は今のままで幸せなはずだと周囲の者に言われるようでは、本当の意味で一人前に扱われているとは言い難いように思える。
閑話休題。
・主人公の生活ぶりは、おそらく、筆者が母としてご子息に将来このように成長してもらいたいという願いがこめられているのだろうとお見受けした。主人公の生活ぶりは成人自閉症者のほぼ完璧な生活であるように思われた。理想的な社会的自立を果たした自閉症者の生活とは具体的にはどんな風になるものなのかという興味でだけでも、本書は読む価値があると思う。そしておそらく、筆者は母として、ご子息が人生の難問に遭遇したときにはこのように対処してほしいと(出す結論はご子息の自由としても問題に対処するプロセスとして)願っておられるのだろうと思う。
・主人公の両親はすでに亡くなっている。そういう設定にするのも、筆者が自閉症者の母だからだろうと思った。

やっと免許をとってきた

ようやく普通免許の1種をいただいてきた。
昨年10月に教習所の卒業検定に合格して、その翌日から見計らったように忙しくなった。多忙を言い訳に先送りしているうちに、卒業証明書の期限があやうく切れそうになった。こうやって前回も更新忘れ失効してしまっての今回の大騒ぎなんだよな。そこで二晩ほど自宅で学科試験の練習問題を解いて、昨日は朝から休みをもらって免許試験場まで行ってきた。
試験はそれなりに緊張はしたが、学科試験のみだったので、そこまで困難というほどでもなかった。今日は私がミスっても誰も死なないし病気が悪くなるわけでもないじゃないかと思うと、緊張していることが患者さんたちに対して申し訳ない気さえした。
いくつか、些細なことだけど、誰かのためになるかもしれないから書き留めておく。京都府のお話です。
・試験場へのアクセスは阪急かJRかで長岡京経由が便利なように思う。少なくとも京阪からアクセスするより早い。私の場合、阪急河原町を7時半の準急にのって長岡天神駅に8時ころ着き、阪急バスに乗って間に合った。JR駅前のバス乗り場はロータリーになっていてわかりやすいが、阪急のほうは駅からバス停まで路地を歩かねばならずわかりにくい。初めてのアクセスならJRのほうが推奨できるように思う(私は何回も通ったからね、ふん)。あるいはタクシーなら阪急長岡天神駅にも駅前で何台か客待ちしていたから、タクシーに乗るのも手かと思う。距離はそれほど長くない。阪急バスで200円の区間だから、タクシーでも1000円はかからないのではないか。たぶんだけど。
・8時30分の受付時間開始前に着いたが、すでに受付は始まっていた。でも人数制限がある訳じゃないし、定められた締め切り時間に間に合えばよいらしいのであわてる必要はない。長蛇の列の最後尾でも、3列で受け付けているし、淡々と並べば受付の事務仕事はけっこう仕事は速い。
・宝池ドライビングスクールは提出書類をきちっと整えて収入印紙まで手配してくれていたので、直行で2番窓口でも良かったらしい(くそまじめに書類交付の1番窓口から始めて嫌みを言われた)。他所の教習所ではどうだかわかりません。
・教習所を卒業してから半年以上たっていたので、住民票を取り直すことが必要だった(それは気づいて前日に妻に取りに行ってもらったから大丈夫だった)。また卒業証明書に貼付してある写真も、半年以内のものが必要とのことで却下された。教習所には、撮影年月日として半年以内の日付をいれておくようにと言われただけだったが、まさか教習所も卒業後1年近くも受験に行かないノロマがいるとは思いもしなかったんだろう。場内の自動撮影機で写真を撮り直して書類を整えて受理された。
・試験はマークシート方式だから鉛筆かシャープペンシルと消しゴムが必要である。忘れた人は自動販売機で購入するようにと再々の放送があった。私は持参したから自動販売機を確かめにはいかなかった。書類を整えるのにボールペンも別に一本もっておいたほうがいいようにも思った。合格後にもらう書類を整える段で必要になる。
・学科試験だし周囲の人は試験前にみんな学科教本を読んでいたけれど、私は自宅に忘れたので「安全運転の心得」のほうを読んでいた。でも結果的にはそれが「当たり」だったように思える。この本の内容が予想外にたくさん試験に出た。
感想もいくつか。私見の混入率が大幅に増えますが。
・当たり前のことだけど受付後試験開始までとか、試験終了後発表までとか、うだうだした空き時間がけっこうあるから、何か暇つぶしを持って行った方がよい。私の場合はiPodがけっこう重宝だった。音楽は苛立った神経にむこうから染みこんできてくれる。これから超未熟児の分娩立ち会い前とかiPodも持ちこんで見ようかと思った。
・門前に京都銀行のATMが建っている。たぶん稼働していると思う。受付時間に間に合うように移動するとなると銀行の開いてない時間に動かねばならないけれど、手持ち不如意でも(私など買い物はほとんどアマゾンか楽天経由だから現金の手持ちがないことがよくある)とりあえず行きの交通費さえあれば試験場まで行ってみても良いのではと思った。
・10時から試験、10時50分から合格発表、不合格なら即座に受験票を返してもらって(次回受験のために必要)帰宅。合格なら11時30分から免許台紙をもらって(窓口で名前を一人一人呼ばれるのを待つのがかったるい)、写真撮影をした後、13時20分からの免許交付まで1時間以上の待ち時間がある。なぜにこんなに待たせるのかと思うけど、たぶん「ちょうど昼休みなんです。うちもお役所なんでね。はは」というふりをして、じつは撮影した写真と警察にある写真とを照合してるんじゃないかと思った。邪推でしょうか。手配中だったり行政処分中だったりの、逮捕したり免許の発行を停止したりしなければならない人が、偽名や変装で混じっていないかどうか、私が警察関係者なら調べるけどな。それとも、写真の印画紙が乾くまで待ってるだけなのかな。
・その待ち時間中に昼飯と考えるのが普通だが、門前の飯屋はいずこも看板や見本がみごとに色褪せて、うちは不味いよと建物全体で主張しているような店ばかりだった。うち1件で飯を食ったが、コンビニ弁当より温かいし持ち込む手間も省けるぶんマシかなという程度だった。構造的に一見さんばっかりの店のはずだし、いわゆる「常連」が居ないと飯屋は士気が上がらないのだろう。
・便所が広く、こういう施設にしては珍しく落書きがない。座った状態では周囲の壁(とくに正面)に手が届かないというのは、落書きを防ぐのに重要なのかもしれない。
普通免許試験に必ず出る!実戦1800題
長 信一 / / 日本文芸社
ISBN : 4537205407
試験勉強に使った問題集。けっこうよく当った。さすがに1800題を全部する時間はなかったけれども。
宝池ドライビングスクールのウエブサイトにある練習問題もやってみた。こちらも「当たり」があったように思う。すでに免許をお持ちの方もひとつ試されてみては如何だろう。

responsibilityとaccountability

http://www.chikawatanabe.com/blog/2003/03/accountability.html
responsibilityとaccountabilityってこう違うのよ、という上記の記事を半年遅れで読んだ。なるほど。勉強になった。
私ごときがこの二つの語の各々に新しい訳語を思いつけるわけもないが、この二つの概念の違いは理解できるような気がする。ようするに、受け持ち患者の病気に対して、医者が責任を持つと言うとき、この責任というのはresponsibilityのほうなんだろう。それに対して、世間から求められ裁判所で糾弾されるときに、求められる「責任」ってのがaccountabilityなんだろう。同じ責任という日本語を使われてもその二つがものすごく違うために戸惑っているのが、いまの医療倫理とかの大きなテーマになってるんじゃないかと。元記事にも『responsibleな人は一生懸命がんばれば成果が出なくても許されるかもしれないが、accountableな人はがんばったくらい・謝ったぐらいでは許されない。「ゴメンで済むなら警察はいらない」のである。』とあるが、まさにaccoutabilityが問われる状況が生まれてきて、警察が医療に介入してくるようになったんだよなと思って腑に落ちた。
元記事のコメントに

Responsibility — 取る責任
Accountability — 取らされる責任

と紹介されていて、なら私が医者だから、医者としてとらされる責任がaccountabilityなんだということで元記事の掌を(お釈迦様の掌を出られなかった孫悟空のように)まるで出てないじゃないかよというご指摘もあろうが・・・いやご指摘通りなんですがね。ここまでなら譲歩できるという緩い責任がresponsibilityで、そんなご無体なという詰め腹レベルの厳しい責任がaccoutabilityでと、そういう量的なレベルの違いなのだろうかというと、元記事ではそう言っているようにも読めるが、医療に関してはそうでもないように思う。それは私が医者だから医療を特別視してるだけなんでしょうか。
患者さんの病気にaccountableなのは本当に俺らなのかよと思うことは大いにある。誰かがaccountableだと言うのなら、それは天の上におられて本名を呼ばれるのが嫌いなあの方とかじゃないのかとか思ったりして。人の身で人の病に対してresponsibleなのは隣人愛だけど、accountableと称したところでキミは自分が何様のつもりだよと言われるのが落ちだとも思う。医療を巡る裁判も、responsibilityに欠けるというご指摘ならまだ話し合いの余地もあるが、accountabilityに欠けると言われてもそれはないぜという構造になってるような気もする。医者がaccountableだと自ら認めるのは誤薬などいわゆる「初歩的ミス」で、多くの場合は医者は自分のresponsibilityに関しては議論のテーブルにつけるけど、accoutabilityを言われても議論自体に納得しがたいわけで。
傍から見てると、たぶんだけど、accountabilityを巡る議論は冷静な議論に見えるんだろうと思う。でも自分のresponsibilityを議論しようとする奴は議論しようとするだけでヒトデナシみたいに見えるんだろうと思う。だからaccountabilityを巡る議論をしようとしているときに、あたかもresponsibilityを巡って四の五の言っているような報道をされると腹が立つのだろう。そうしたほうが扇情的に面白くなるから意図的に混同してるんだろうと、どうしても思えてしまって。

NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に紹介されたスーパー助産師さんについて

NHKで放送された「プロフェッショナル・仕事の流儀」で、開業助産師さんの紹介があった。自宅で録画してあった番組を拝見した。
良くも悪しくも、かつての「勇敢な者たちの時代」の人だよなと思った。駄目でもともとの中から僅かでも救えれば賞賛された時代、英雄的な自己犠牲のみが求められた時代の人だ。サーファクテン以前、1500g未満は助からなくて当たり前だった時代の。
番組のクライマックスで、東京と横浜で同時に陣痛が始まり、タクシーで往復しながら同時進行で分娩介助しておられた。NHKは仕事を同時進行で片付ける超優秀な助産師さんというスタンスでの紹介だったが、陣発中の妊婦さんのそばを離れて早朝の横浜でタクシーを拾う姿は、私には安心して観ていられるシーンではなかった。NICU仕事を終えて帰って観るテレビとしてはもう少し気楽に観られる番組を観たいと思った。複数の助産師が協力して介助に当っていたので、全く誰もいない空白の時間ができているわけではなさそうだったから、赤ちゃんが突然生まれてきたときに介助者が誰もいないという最低の事態は避けられる様子なのが救いではあった。
しかしそんな長距離を行ったり来たりすることに何の意味があるのだろう。いずれも彼女が妊娠中から熱心にフォローしておられた妊婦さんではあるのだが、それならなおのこと、本番で一緒にいられないようでは手を広げすぎなんじゃないだろうか。どこでもドアを持っているのでなければ、東京横浜間というのは一人で気軽にカバーできる範囲ではないのではないかと思う。私は琵琶湖の西岸より東には土地勘がないのでよくわからないが、たぶんタクシーやタケコプターじゃ無理な程度には広いんじゃないかと思うが。
それとも東京や横浜の産科医療崩壊は、こんなふうに開業助産師が東京と横浜で掛け持ち介助をしないとお産が回らないというところまで来ているのだろうか。

お互いに協力を頼みあえる助産師仲間がいるんなら、最初から地理的に無理のない範囲でお互いに分担すればいいんじゃないかと思う。結局この人も「自分じゃなければ駄目だ」という状況を、意識的にか無意識的にか作り上げているのではないか。妊婦さんや周囲の助産師たちが自分に依存せざるを得ない状況を維持するのが、この東京横浜間往復の隠された目的なのではないか。ご本人も意識してはおられないのだろうが。
自分が替えの利かないスペシャルな助産師であるというビリーフに支えられ、このビリーフを自他共に信じるところから生み出されるカリスマに駆動されて、彼女は24時間365日待機の過酷な生活を続けているのだと思う。「私はこちらのお産を看る。あなた済まないけれどそちらを任せた。なにぶんよろしく」と口に出したとしたら、その時点で、彼女の中の何かがカチッと変化するのだと思う。その変化の際に、たぶん不可逆的に失われるなにものかが、彼女が英雄でありつづけるために必要な何かなのだと思う。
残念ながら、この「なにものか」は現代の医療が求める完全性と相容れることが困難である。今は救えて当たり前、取りこぼせば糾弾される時代だ。危うい綱渡りを辞さない英雄性は過去のものである。現代の医療には綱渡りをしなくてもよいような段取りが求められる。英雄の時代ではなく、能吏の時代だ。意識して、この「なにものか」に依存しない医療システムを作り上げる必要がある。持続可能な医療を目指すのならだ。
一部の報道機関の論調には、いまだにこの「なにものか」を崇拝する向きがあるようだが、いい加減彼らには、自分たちが神話時代をノスタルジックに回顧しているだけだということを自覚してもらいたいものだと思う。
それにしても、激務をこらえる産科医を誹謗中傷する行為は許されない。理由は「思慮が浅い」「思いこみが激しい」といろいろあるだろうが、真実を書くのが記者や新聞の義務である。それを忘れてはならない。

こういうケースを引き受けるのは辛いなというお話

奈良の搬送中事故のような症例の、緊急入院を要請されたら、NICUを預かる身としてはじっさい辛いなと思う。
妊婦健診を受けておられない妊婦さんで、在胎週数すらわからない。当然他のリスク因子も不明。急激な腹痛というとどうしても胎盤早期剥離の可能性が頭をよぎるわけだが、早剥合併だと生命予後も発達予後もがくんと悪くなる。早産児であればなおのこと。考えれば考えるだに、受け側のNICUにとって気分が楽になる要素がない。
これまで産前訪問して直接の御面識をいただくなり、自施設の産科スタッフが存じ上げるなりして、お相手の人柄を幾分かでも把握できていればまだしも、このような危機的な状況にあって、どのようなお方か全く分からないでは、おたがいに危機に対処する同志意識が立ち上がりにくいようにも思う。ものすごく身も蓋もない言い方で読者諸賢には恐縮だが、「重篤な赤ちゃんを突然にお引き受けせざるを得なくなり、情報の乏しさから十分な治療もままならず、結果としての予後の悪さを良好な人間関係の得られていないご家族から一方的に責められる」という悲痛な状況がどうしても脳裏をよぎる。
改めてこんなことをお断りするのはかえって読者諸賢をバカにしているようで、なお恐縮ながら、私は今回の奈良県の妊婦さんがそんな人だと中傷しているわけではない。現場にいるとどうしてもこんな情けないことを考えてしまうということだ。世間の人たちは日本の医療を信用しておられないように思えるが、おそらくそれ以上に、日本の医療関係者は日本の世間を信用していない。医療関係者の一人として、こういうことがあると、それを如実に自覚する。

だからといって逃げ出すわけにもいくまい。他の大人がこの子に対して責任を負っていないというのは、我々がこの子に対する責任を回避できる理由にはならない。誰かがこの子に責任をとらねばならない。奈良県がどうとか医療費削減が何とか医療崩壊がどうとか、この子こそ、知ったことではない。いや、他の誰がそんなこと言っても私は許しませんけどね、この子に「そんなこと僕の(私の?)知ったことじゃないや」と言われても私は頭を垂れるしかない。誰か言い返せる人居ます?私にじゃなくて、この子に。
おそらく京都でこういう症例があったら私らにも声がかかる。というか、高槻で止まらなかったら次は京都に来てたんだよね。そしてその夜に京都で最多の空床を公開していたのはうちなんだ。たぶん、現実にうちに声がかかったんだろうなと思う。こういう症例で無視されるようでは、うちはもう社会的な役目を終えたということになるし。我々のNICUはそういう成り立ちかたのNICUではあるのだ。難儀なことに。
これからも我々は受けると思う。むろん空床があればですけどね。それが崇高な理念なのか商売を続けるための必然なのか分からないけれども。矜持というのか痩せ我慢というのか私には判然としないけれども。
でも、辛いには、違いない。

1年という時間は十分な時間なのか

奈良の搬送中事故は残念な結末であった。赤ちゃんの冥福を祈るものである。
報道に大きく取り上げられたのはこれが奈良県であったからだろう。「また奈良だ!」といった論調で叩かれている。1年間何をしていたのかと、怠慢を責める声が大きい。しかし、これが奈良でなければニュースにもならなかったんじゃないかな。奈良県だけの特殊状況ならむしろ安心なんだけれどもねと私は思う。京都府庁には心胆寒からしめられるべき方々がおられるようにも思う。
しかしたった1年なのである。むしろ、本腰入れてみたら1年で立派なシステムができました等ということになったら、それこそ、気張ればたった1年でできることを今まで何故に放置していたのかと、怠慢を問われるべきであろう。
それにしても1年あればこのくらいの作業は進んでいるはずだよという声には、真摯に耳を傾けていただくにしても。

1年でなにができよう。医学部志望の高校3年生が浪人生なり教養課程1回生なりになる。臨床実習中の6回生が1年目のスーパーローテート研修医になる。2年目のスーパーローテート研修医が1年目の産科医員になる。うん、結構な進歩だよね。でもそれで奈良県の産科医は何人増える?
こういう症例を遅滞なく受け入れられる救急態勢を作り上げる時間としては、あまりに短い。
たくましいシステムは微々たるものの積み重ねでできあがっていくものだ。崩壊させるのは一瞬かもしれないけれど。今回の一件で救急隊員から「大淀病院の○○先生さえ居ていただけたら」とかいう声が、もしあがったとしたら空しいだろうなと思った。ベテランの先生に診ていただいて状況把握がもっと迅速に行われてさえいれば行く先がもうちょっと早く決まったのにとか。

ロセフィンをハルトマンに入れてはいけないって知ってた?

いや私は知らなかったものでね。混ぜるのは死に至る重大なミスなんだそうだけど。私が知らなかっただけなら寡聞を恥じるとしても、手持ちの参考資料のどこにもそんな記載がないってのは困ったね。UpToDateにすらvariable stability (consult detailed reference) in LR としか書いてないんだけれどもね。
特に意識せず生理食塩液に溶いて使ってましたが。そもそもこんな強烈な皆殺し系の抗生剤は滅多に使うもんじゃないんだけどね。新生児には高ビリルビン血症の関連で使いにくいし。
先の火曜日だったか当直の夜に観たニュース番組で、中国で北京公使が急死したというニュースを扱って、キャスターが、ロセフィンを乳酸加リンゲルに入れるなんてのは絶対してはいけないことだと韓国の医師も言ってると言うと、医療ミスだとコメンテーター勝谷誠彦氏があっさり断じた。彼もたまには韓国人の言うことを聞くんだなと思った。他に何の根拠もなく医療ミスだと断言するとはね。それとも、彼の言動にはもともとこの程度の薄弱な根拠しかないということだろうか。
来院後いきなり静脈ライン2本確保して生理食塩液と乳酸加リンゲルを投与するような重篤な病態なんだから、急死したらまずは原疾患は何だろうと考えるのが普通だと思うのだが。解剖の結果にしても、原疾患によるものとの区別はどうつけたんだろう。痛いと訴えておられた腹部には何の所見もなかったんだろうか。それが分からないと何とも納得できないのだが。それとも、北京の街角で売ってるサンドイッチは食べると普通に死ぬんだろうか。それはそれで中国当局としては問題にしなければならんのじゃないか。
しかも患者はただの人じゃなくて、外交のあまり人目につかせたくない部分にどっぷり浸かった経歴の人だし。そのサンドイッチは特別に砒素とか混ぜてあったりしなかったのかとか、考えてしまうのはさいとうたかをの漫画の読み過ぎなんでしょうか。

誰が誰を連れていってたのか

中学生になって息子は極端に遠距離通学になった。徒歩30分くらいか、毎日歩いて通っている。なんだってこんな校区割りになっているのだろうと不思議ではある。
小学生の頃は息子は妹と一緒でないと登校しなかった。てっきり心細いので妹を頼りにしているのだと思っていた。それが中学になったら急にきっぱり一人で通うようになった。おやおやと思っていたら、娘が遅刻しがちになった。うだうだとテレビに観はまって、あるいて5分の小学校に間に合わない。
なんのことはない、連れて行ってもらってたのは妹のほうだったのだ。まあ、息子も意外にちゃんとしたお兄ちゃんだったのだな。ちょっと見直した。