ニュース2題

本日の夕刊には橋下大阪新知事が人件費削減に言及した記事と、東京地裁がマクドナルドの店長は管理職にあらずという判決を出したという記事とが並んで掲載されていた。
朝日新聞大阪本社の夕刊4版1面が伝えるところによると、

警察官や教職員も含めた今年度当初予算の人件費は9300億円。1割カットしても府債発行額の半分にもならず、私学助成や医療費助成も含めた大幅な予算の見直しが必要になる。
 橋下氏はこうした財政再建策について「それを言い続けて選挙に通った。職員も選挙の重さを感じてもらわないといけない」と強調。マニフェストに掲げた出産・子育て支援策などは「もちろんやる。足りなければ人件費を削ってもらう。それが選挙だ」と語った。

出産・子育て支援策はおおいにやっていただきたいところではあるが、その財源が足りなければ(って足りないのは既成の事実なんじゃないか?なんぼ大阪府ったって金があるのに出産・子育て支援に回してなかったってことがあるのか?)人件費を削るって、それで例えば大阪の府立病院の小児科や産科医師の給料を削るってことにもなるんだろうか。たとえば府立母子医療センターの医師はみんな管理職だから残業代も当直手当も無しだとか言われたら大阪の周産期医療が崩壊しますが。あるいは府立病院の夜間小児救急は全員タダで受診できるけどその財源のために医師当直手当は一切なしです、とか。果ては府立の病院は救急からいっさい手を引くから後は大阪市ほかの市立病院やら民間病院でやってね、とか。
現状でもそうなんだよ、とか言われるかもしれんような気がして怖いが。
そういう新知事のご意向を伝える記事の傍らに、マクドナルドの店長を管理監督者とみなして残業代を払わないのは違法だという判決の記事がならぶあたり、まだ世の中も捨てたものではないなと思わされた。そりゃまあ医者とマクドナルドの店長は違うかもしれんが、管理職だから労基法の埒外なんだよという扱いをうけがちだったことは変わらない。これだけ医師不足が叫ばれ医者の取り合いで病院が躍起になっているご時世に医者の超過勤務手当を出し渋るようなお馬鹿な病院があるのかどうかとも思うが、絶対あり得ないとも言い切れないところがこの業界の恐ろしさで。
絶対あり得ないとも言い切れない、というお題でもう一つ気になるんだが、この橋下という人の風貌とかこれまでの言動とか、これから大阪府立の病院でなにか医療事故があった場合に脊髄反射的に医者や病院を糾弾する側に回りそうな気がする。申し訳ありませんと謝る側に自分自身が立ってるんだということを思いつかないんじゃないかという気がする。直接知りもしない人について根拠の薄い印象を書き連ねるもんじゃないとは思うが、財政再建に関する発言のスタンスを見ていても、何とはなく、その危惧をここに書き記しておくことは意義なしとしないように思える。
って、私のほうが政治家みたいな言い方になってますが。こどものせいじか日記、ですか?

ドラえもん25巻

ドラえもん (25)
藤子・F・不二雄 / / 小学館
ISBN : 4091405053
「のび太の結婚前夜」が収録された巻である。結婚の前夜、しずちゃんのお父さんが娘にのび太を評して語る「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」という台詞は、たしかドラえもん全話を通じて屈指の名台詞とされていたような記憶がある。が、狭量な私には耳が痛い。
これはのび太のみならず、ゴルゴ13にも通じる美徳かと思う。彼はいかなる主義主張・イデオロギーにも拘らず依頼を遂行する。それは彼が信じるもののなにもないニヒリストだからとも言われるが、私はそれは皮相な見方だと思う。時として彼は熱い心情を露呈する。例えば「命がけの依頼」に対して破格の低価格で任務を引き受けることが幾たびかあった。標的に対して自らの怒りを表明することもあった。彼が主義主張と無関係に見えるのは、彼が根源的なところで依頼人のしあわせを願い、依頼人の不幸を悲しむことができるからではないかと思う。
それにしても、と、のび太としずちゃんの結婚に際してはいつも思う。しずちゃんは何故にのび太の嫁で主婦なのか。公認会計士の試験に19歳で合格してマッキンゼージャパンとかに就職したりしてるんじゃないのか。
しずちゃんがのび太との結婚を決めたのはのび太のダメさが放っておけなくて、だったと思う。のび太の危機を救うのがしずちゃんの意向とすれば、長じてしずちゃんはゴルゴが世界中に構築している救援システムの一環を担ってるんじゃないかとも思う。ゴルゴが日本で窮地に陥った際は「しずちゃんにたすけられる」ことになるんじゃないかと。
しずちゃんが、のび太の本業がゴルゴだと知っているかどうかは定かではない。もし知っていたとしても「報酬が10倍アップする新・知的狙撃術ー旦那をGOLGO化する方法」といった本は出さない方が無難だと思う。ゴルゴは惚れた女でも(しずちゃんをさしおいて浮気だよね)必要とあれば撃っている。撃った後、じっと照準器の中で彼女の乗ったモーターボートを見送るところに、ゴルゴが中身空っぽの人間でないことが現れているにせよ、撃つときは撃つ。「人を殺すときには余計なおしゃべりをしている暇に引き金を引くことだ」という名言をさえ残しているほどだ。
ゴルゴ13の過去はのび太だった説

獄窓記 再生のナラティブ

獄窓記
山本 譲司 / / ポプラ社
ISBN : 459107935X
本書において、著者が描くところの著者自身は、入獄前の政治家時代には自分の行為の犯罪性にうすうす気づいていても目をつぶる愚か者であった。入獄後にはあらためて、活動の重点を福祉にも置いていた国会議員でありながら障害者福祉の実態を知らなかったという愚かさの自覚が付け加わる。その自分が逮捕から実刑判決におよぶ入獄前の体験や、獄中生活の体験によって覚醒していく。獄中では、自らの受刑者としての体験に加え、障害を持った受刑者を糞尿にまみれて世話した体験も加わって、壮絶としか言いようのない体験をしている。その体験を経て再生した自分を語る物語である。
あくまでもこれは彼が彼自身について語った物語である。獄中生活を終えた自分自身を立て直すために、彼にはこの物語を語る必要があった。自身を正当化するという目的をもった行動ではなく、自身を解釈するためである。まずは自分自身に対して現時点での自分の立ち位置をはっきりさせるために、彼はこの物語を彼自身に語り聞かせる必要があった。それがはっきりしないと彼は先に進めない。先に進めず獄中生活を終えたばかりのまま立ちつくしていては彼は救済されない。
そう言う意味で、本書は優れた「ナラティブ・アプローチ」の症例報告である。
冷めた賢しらな目で本書を読めば、この物語の主人公はいささかイノセントに過ぎるという印象を受けるかもしれない。「客観的に見たら」どうだったのよという突っ込みは本書のどの部分にも可能である。しかしナラティブ・アプローチにおいて「客観性」などという概念は従来の特権的な地位を持たない。客観的じゃないと言えば攻撃として即有効だと信じ込むのはナイーブに過ぎる。
そういう前提を置いてもなお、本書で著者が報告する、獄中の障害者達の境遇は衝撃的であった。獄中がもっとも生きやすいなどと明言されては、障害児の父としては暗澹とするばかりだ。まだ本邦の障害者福祉はそのような状況なのか。

歩行者には逆らえない

緊急搬送中も、大型車は意外にじゃまにならない。大型トラックやバスがぎりぎりに幅をよせて道を譲ってくれる様子は、後ろから見ていて神業にさえ見える。
搬送の妨げとして一番大きいのは道路を横断する歩行者ではないかと思う。救急車が接近してきていても横断を始める。気づいていないのか、気づいていてもまだ遠方だから十分渡りきれるとお思いなのか、あるいは歩行者が青信号なんだから当然渡る権利があるとお思いなのだか。
当方としては減速せざるを得ない。しかし救急車が減速しつつ接近してきていても、横断を断念して後退される歩行者のかたは実は少数派である。さすがに平然と渡り続ける方も少数だが、しかし後退する人よりは多い。大半の人は、立ち止まる。立ち止まってこちらをじっと見る。保育器の脇にいる私と目が合うことさえある。進路に立ち止まられている限り緊急車両でも減速せざるを得ない。こちらが十分減速するのを見定めて、おもむろに渡り続けられる。誰かが渡り続けると、それでは自分もと後から後から続いて渡る。運転士がマイクで「歩行者のかた道を譲ってください」と呼びかけてはじめて、自分にも道を譲るという選択肢があるのだとお気づきになるご様子である。
道路を横断中に立ち止まって接近中の車をじっと見るというのは、猫には往々にして見られる行動である。それでは彼らも猫並みの知性の持ち主ばかりなのかどうか。だとすれば、京大の講義は猫語で行わねばならぬ。まあ、工学部や理学部・農学部といった入試に国語がない人らが横断する今出川通りで、そういう大学生が頻繁に出没するのはまあ仕方ないと思う。彼らはたぶん法律の文面が読めないんだろうから。しかし、あろうことか、いちど東山近衛(北東が京大教養部・北西が医学部基礎・南西が京大病院)の角で大学生らしき男が自転車で救急車の目前に飛び出して横断していったことがある。こいつの写真が撮れていたら学部長に送りつけて処分を求めるところだったのにと、今でも思う。小児科の卒試受験資格永久停止とか。残念である。
むろん、そういう人をはねても良いとは思わない。道義的に許されないのは無論のことである。が、そんな当たり前の議論に深入りするのは野暮だから勘弁してよねということで読者諸賢にもご納得いただいたことにする。加えて卑近な面でもはねるのは非実際的である(例えば犬や猫なら思い切ってはねる方が急ハンドルや急ブレーキで人を巻き込む事故を起こすよりまだマシであるというレベルでの実際性のお話で)。はねたらさすがに救護義務は生じることだろうから、その場に足止めで、搬送の迅速さにも影響する。外傷のプレホスピタルケアなんて慣れない仕事を求められたあげくに、交通事故の責任に加えて外傷の治療の仕方が悪いから医療ミスだなんて責められる羽目になるのは御免である。
以下無用のことながら、緊急走行中の救急車による事故で奪われる命も一般の乗用車の事故で奪われる命も、命として貴重さに変わりはないと思う。というか、命の貴重さの比較などする不遜さを私は持ち合わせない。しかし、その命が損なわれたことに関する責任のとらえ方とか心情のありようについては、違いがあるものだと思う。あって欲しいなと思う。まるで違いなしと言われたら救急医療の存続は困難である。現行の制度でもたしかそのような思想になっていたと思う。
例えば充実した人生を送り老衰で大往生を遂げた命と、泥酔した運転手に衝突されて夜の海に突き落とされ亡くなった子どもの命と、命には違いがないが残された人の心情とか責任のありかたとかには違いが生じるように。

すごい駅

ナレッジエンタ読本3 すごい駅! (ナレッジエンタ読本 3)
横見浩彦(JR・私鉄全線全駅下車達成者)×牛山隆信(秘境駅訪問家) / / メディアファクトリー
ISBN : 4840121052
当直が明け、近所の本屋で買ってきて読んだ。私もまたどちらかと言えば車両よりも駅や路線にこだわる傾向のあるテツなので、この二人の対談は大いに面白かった。
またこれは何と「濃い」二人であることか。彼らの鉄分の濃さ、これ以上の濃さとなると小松左京描くところのアパッチ族にしか求め得ないと思われる。
横見さんはとっくに世間一般を超越した次元に居られるのだが、彼の発言に、まだ世間にしっかり軸足を置いておられる牛山さんがつっこんで行くのが、尊敬したような茶化したような感じ、サークル活動にはまって留年した先輩を2回生の後輩がからかうような感じで、よい味を出していた。

横見 この駅には少なくとも1人だけ、ちゃんと利用者がいるんだよね。僕が降りたときにも会いましたから。隣の奥白滝駅なんかは利用者がいなくなったからなくなっちゃったけど。ここは定期利用者がいるために廃駅を免れているんじゃないかと。
牛山 それは貴重な駅であり、貴重な人ですね。

どういう駅なんだろうと思う。どういう経緯でそういう土地に人が住み着き、どういう経緯でそこに鉄道が引かれ、やがては利用者1人だけ(ちなみに朝に下りが1本、夕に登りが1本しか止まらないそうな)となる、その駅の歴史とかその周辺の地理や歴史とか、どういう土地なんだろう。
たぶん小児科医という稼業は絶対に成立しない土地なんだろうけど。ましてNICUなんてね。

待っている命がある

拙稿「救急車の事故をおもしろがる朝日新聞」に対して、以下のコメントを頂いた。

人命を容易に奪える車という凶器を扱っている以上、
安全走行よりも重視される価値観など無いと思います。
言わんとする趣旨は判りますが、医者として及第点でも、
あなたの認識はドライバとしては落第点、またはそれ以下だと思います。
事故が起きた時、緊急時の救急車に奪われる命と、
乗用車に奪われる命に違いが有るんですか?
相応する理由が有れば安全運転しなくて良い感覚は、
家族を事故に巻き込まれた人間には非常に違和感を感じます。

ご指摘はいちいちもっともな内容である。当方として個人的には反論可能な筋合いのものではない。救急医療に私一人が関わっているのなら、返す言葉もございませんとしか申し上げようがないところである。しかし、ここで返す言葉が無くなっては、全国で新生児搬送に携わっている医師が多かれ少なかれ「相応する理由が有れば安全運転しなくて良い感覚」をもっているような誤解を生じかねず、それはただでさえ疲弊しつつある新生児医療に多大な迷惑を及ぼすので、泥臭く弁解をさせていただくこととする。
まず、「安全運転しなくてよい」と考えて新生児搬送に携わる医者など、いるわけがない。そんなことを考えていると他人様に思われたというだけでも、なんだかバカにされたような気がして悔しくさえある(その状況をもたらしたのが自分の浅慮と筆力の無さであることは重々承知していてもだ)。だいたい何科であれ、交通外傷がどれだけ悲惨なものか知らない医者など医者じゃない。そいつはろくに救急医療の研修を積んでないということだからだ。
そういう一般的な理由はさておいて、もっと卑近な話をしよう。我々が安全を軽視しない理由の一つには、事故があった場合、もっとも危険なのが(搬送中の赤ちゃんを別格とすれば)当の我々新生児科医であるからだという事情がある。運転士はシートベルトをかけて、エアバッグつきの運転席に座っている。搬送用保育器に向かい合うベンチに中腰で座っている我々には、エアバッグはおろかシートベルトさえない。赤ちゃんの状態に注目していると車外に目を配るすべもなく、当ると覚悟して身構えることすら不可能である。赤信号の交差点に無謀なやりかたで進入した場合、青信号側の車に側面衝突されると、我々は救急車内でもんどり打つか、あるいは救急車の側面と保育器とに挟まれることになる。今回の事故では同乗の医師も助手席に座っていたようだが、二重三重の激しい衝突の様子からして、もしも保育器の隣に座っていたら、彼は助からなかったかもしれない。
だから私はなにも今回の事故に関して、救急車の運転をしていた方に過失が無かったとは申していない。もし過失がないのなら警察の逮捕は不当逮捕ということになるし、今回の事故を警察発表だけで報道したマスコミはまた相変わらずの医療バッシングだとするべきであろう。そういう主張をする気は毛頭無い。
ただ、実は顔見知りではあることだし、寛大な処置をと願うものである、とは、申し上げさせていただきたい。
朝日新聞を攻撃したのは、彼らが淡々と事実の報道に徹せず、不真面目な、珍ニュース扱いの報道をしたからである。小賢しく嘲笑的な記事の書き方をするゆとりをかました割には、医師同乗で迎え搬送に行くという状況がどういう状況であるか、迎えに行く先にはどのような状態で患者さんが待っておられたか、さらには京都第一赤十字病院が新生児搬送車を失うということが京都の地域医療に対してどういうダメージを与えるか、そういう考察を全く欠いていたからである。
どのような患者さんが待っておられたかについて、各紙は考えただろうか。そこまで大きく紙面を割く方針の無かった他紙ならともかく、凝った見出しに手間と紙面を費やした朝日新聞なら、それに触れるスペースもあったろうに。未明に起きた事故だけど当日は夕刊が休みで締め切りは朝刊だったのだから、取材の時間だってあったろうに。ふざけるには十分だけど取材には足りない時間だったのだろうか。救急車に「つくられて」しまった負傷者の命を問題にする一方で、救急車を待っていた命には何の言及もいらないのだろうか。
ここは通りすがりさんのお言葉を借りよう。事故が起きたときに緊急時の救急車に奪われる命と、現実に救急車を待っている患者さんの命と、違いがあるのか? いや、前者が一般的にはあくまで仮定の存在、後者がすでに現実となっている存在であることを考えれば、一般論として同列に比べるのはかえって後者に対して不当である。今回は前者も危うく現実となりかけたわけで、この比較を現実に迫られるような恐ろしい事態になったわけだが。私もまた新生児搬送の当事者として回答を迫られているのだろう。私としては、搬送依頼元の産科医院で出生直後に呼吸困難を生じてNICUからの迎えを待っている赤ちゃんの命と、救急車のサイレンに気づかずぶつかってくる車の運転手さんの命と、あるいはぶつかられる救急車に不安定な姿勢で乗っている自分の命と、比較することを現実に求められるような辛い目には、あまり遭いたくないと思うわけだが。虫が良すぎる願いだろうか。この比較をどう思うかと、朝日の今回の記事に関わった人らに聞いてみたい気もするのだが、大新聞を相手に蟷螂の斧もよいところ、なのだろうね。
その現実化を防止するような運転技量の極みが、高いところにはあるんだろうと思う。緊急車両を安全に運転できるという、運転技術の極みが。実現できなかったら珍ニュース扱いで嘲弄されるというような低いところには、それは無いと思う。むろん、事故を起こしても仕方ないとは言わない。仕方ないとは言わないが、できなかったからって浅慮な新聞に嘲弄されるのは不当だと思う。それも、虫が良すぎる感覚だろうか。

火の粉は我が身に

「新生児集中治療室の満床対策、病床移行の調整役配置」なる記事が朝日新聞に報道されていた。救命救急センターのときは冗談半分に眺めていたが、まさか本当に調整官の手法であれこれの問題を解決にかかるとは思わなかった。しかもその火の粉が真っ先に自分に降りかかってきた感じで、あんまり冷笑的な世渡りしてると罰が当るんだなとすこし反省した。
それにしても、こんなこと考える人は、ちとテレビの見過ぎなんじゃないかと思う。水戸黄門とか八州廻り桑山十兵衛とか。たまたま巡回してきた偉い人が遊び人の親父にカツを入れて悪代官を土下座さすなり斬り殺すなりしたら世の中が上手くいくようになるんだとか、そういう時代劇を宿題しながら観て育った誰かさんが立案したお話のように思える。いや、世の中って「かっかっか」と笑って終われる一話完結ものじゃありませんよ。わかってますか?
隣の宿場まで来た縮緬問屋のご隠居の正体はかなり剣呑なお人らしいぞとか、そういう情報もまわらなかったのかな。あの時代は。
八州廻りが病院に乗り込んできたとて、いったい何をどう調整するつもりなんだか、私には見当も付かないんだが。受け入れ先に想定されているらしい重心施設なんてNICU以上に空きのない施設だしねえ。結局はお上のご威光と許認可権をもって、君のところのNICUは長期入院が多すぎるから退院させて「在宅医療を推進」させなさいと圧力をかけてくるだけなんじゃないかと、ちょっと身構えてみたりもしているんだが。
まあ、いきなりそこまで無意味に意地悪なこともしないだろう。たぶん、まずは、看護協会の偉いさんやらに、在宅人工呼吸の患者さんの痰を学校の先生でもヘルパーさんでも吸引して宜しいと納得させるような調整をなさるんだろうな。

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救急搬送 医師が「調整役」

紙面(朝日新聞大阪本社の14版)では「たらい回し」なんていうお下劣な語は使ってないのに、asahi.comではしっかり湧いて出ている。この語には自立した感染増殖機能かなにかあるのかもしれない。浅慮さとか陳腐さとかいうバックドアを突いて感染するんだろうと思う。たった10バイトでたいした能力である。

急患対応に調整役 たらい回し対策 地元医師ら配置
2008年01月07日
 救急患者のたらい回しが起きた時には「調整官」に対応させます――政府は4月から、急患の搬送先の医療機関が見つからず手遅れになるのを防ぐため、搬送先を探して、受け入れを依頼するコーディネーターを全都道府県に置く事業を始める。救急隊の手間を省いて、搬送時間をできるだけ短くする狙いがある。
 コーディネーターには、医療知識に加え、地元事情にも詳しいことが必要なため、地元の医師を充てたい考え。平日の夜間(午後4時ごろ~翌日午前8時ごろ)と休日(土・日、祝日)をカバーできるようにする。

asahi.comの記者の言語感覚はさておくとしても、政策としては画期的である。色々と応用のきく発想であるのがすばらしい。本邦では他にも危機的な状況にある分野は数多い。救急医療でうまくいったら、こんどは財政知識に加え地元事情にも詳しい税理士さんに、もっと徴税できる税務署を探して徴税を依頼するコーディネーターになってもらったらどうだろう。次年度から国の一般会計は黒字になるだろうし、国債なんて金輪際発行しないで済むんじゃなかろうか。
それはそうと、国債っつうのは経済学的には一概に悪なんですかね?

新しい超音波診断機

心エコー機の新しいのを入手した。内科で余ってたロースペックな機体に、10MHzのプローべを買ってつけてもらった。ロースペックったって画像はじゅうぶんにきれいだし、サイズが小さくて小回りが利くから保育器のまわりでも使いやすいし、電源を入れた後のシステムの立ち上がりも速いからなお宜しい。
昔のエコー機はROMから起動していたので電源を入れて20秒ほどで使えたが、最近のはハードディスクから立ち上がるので、高級機だと電源を入れてから検査ができるまで分単位の待ち時間が発生する。検査室に据え置きで患者さんのほうが入れ替わる内科なら、それでも良いのだろうが、保育器の間をエコー機を押して歩かねばならぬNICUでは、それでは非効率なこと甚だしい。
俺らは1990年代初めの古い機体を使ってるのになんで内科には「買ったけど使ってないエコー機」なんてものがあるんだか、やや腑に落ちない感はあるのだが、なんだかんだ言っても老人医療は小児科に比べたら桁違いに莫大な分野だし、探せば心エコー機だってメーヴェのエンジンだって巨神兵の卵だって出てくるんだろう。貰えるものは有り難く頂いておけば、角が立たずによろしいのだろう。
加えて、たぶんNICUの診療報酬体系の特殊さが絡んでいる。NICU加算はけっこう高額だけど(1日あたり85000円くらい)、そのなかに諸検査の費用は込みだから、エコー検査を何件やっても上がりは変わらないんで、病院としてもNICUには新しい検査機械を買ってくれる動機づけに乏しいんだろうと思う。まあ、古い機体の回路が致命的に焼き切れないうちに新しいのを入手できたので、それでよしとしよう。
それにしても、古い機体はHPのSONOS1000なのだが、この機種を今に至るまで現役で使ってる病院ってあるんだろうか。平壌あたりまで探せばあるのかもしれんが。

正月が終わった

例年、病院勤務の小児科医にとっては、もういくつ寝るとお正月じゃなくて、正月が終わるまでにもういくつ寝られるだろうという繁忙期なわけですが。
ようやく、明日から通常営業です。
明けましておめでとうございます。