発信力―頭のいい人のサバイバル術 (文春新書 (556))
樋口 裕一 / / 文芸春秋
日本の周産期医療関係者は、本邦の新生児学は世界一だと思っている。自分がそう思っているのに世界がそう評価してくれないのは自分たちの発信が足りないためだと思っている。ふつう、そういういう時は自分は自分で思うほどには凄くないんだと考えるものだがと、わが業界ながら書いてて多少は情けないが、私自身もじつは本邦の新生児医療は世界一だと思って疑わない口なので他人様に後ろ指をさすことは憚られる。
今後はどんどん発信しようと、今回の学会でも、是非にも海外で英文で発表しようよという檄が何回も飛んだ。その檄の「とってつけたような」さまは産経新聞社説を彷彿とさせた。
学会が終わって名古屋駅の本屋で発信についての本が目に付いたので買った。新書版だが名古屋京都間ののぞみで読んでしまえてなお時間が余るくらいだから、読みやすいと評価するべきなのか内容が薄いと言うべきなのか。小論文指導の有名人らしいから前者の評価でよいのだろう。この人の主催する作文の通信教育には娘もなにやら書いて送っているようだから、この人が外れだと私も金をどぶに捨てているようで業腹だ。
いろいろ指摘がある中で、「自分のことを棚に上げる」のが正しい態度だという記載になるほどと思った。何だかそれは下品な態度だと思ってたんですけどね。でも自分のことはとりあえず棚に上げないと議論が始まらないと著者は言う。そのとおりなんだろうな。考えてみれば発信なんてそう上品な行為ではない。
だから後書きで著者が、ほんとは自分もそんな下品な押し出しは嫌いなんだよと述べた下りを読んでほっとしたような気分になった。天の岩戸以来、こっちはこっちでおもしろおかしくやってるから見たい奴は見に来いというのが日本伝統の正しいありかたのはずなのだ。
月: 2008年2月
長野の印象
長野県のような地理は初めて経験した。世界の縁が山岳として明瞭に区切られ、内部の凹地に世界が広がっている。盆地なのは京都も同じだが、長野は世界の果てまで霞むこともなくくっきりと見えるというのが違う。周囲の山岳の規模や峻厳さも桁違いだ。下界と同じなのは重力だけといった観のある、独立した世界。背景雑音も小さい。規模こそ違えスペースコロニーを想起した。
旅行の行く先でも朝はNHKのニュースを見ることにしている。まったくの物見遊山で旅行した記憶はほとんどなくて、朝はちゃんと起きて会場へ出向かねばならぬ学会出張ばっかりだから、朝の行事進行はあるていど日常のパターンを踏襲しなければならない。その点、NHKのおはよう日本は全国共通のニュースと地元のお話が決まったパターンで出てくるので、見知らぬ土地でも安心である。
とくに天気予報を見ると、その土地の広がりや人の活動範囲がだいだいどれくらいと考えられているかが分るような気がして興味深いのだが、長野では長野県一県で完結していた。北部中部南部の三分割。他には名古屋と東京が紹介されただけであった。こんなにシンプルな天気予報を他で見た記憶がない。静岡も新潟も富山も山梨も、隣県の情報はまったく無し。京都大阪など釜山や上海同様に無視されていた。長野ではそういうものなのだろうか。ちなみに京都では同じ枠で和歌山や徳島まで天気予報しますが。
しかし長野を中心に見た地図には刮目した。長野から東南へ下れば東京、南西へ下れば名古屋である。今まで長野という土地には、海沿いに広がる文明から取り残された辺境「テリトリー」、いわば日本の「残り」であるという印象を持っていたが、実際に来てみると、隔絶した地形とあいまって、こここそが日本の隠れた中心にある別世界という気分になってくる。夢見がちな青少年に、ここに秘密基地を作って天皇を移せば米軍ともう一戦できそうだという幻想を抱かせたのも、あながち無理ではない。危険な土地だと思う。周りの山も厳粛なくらい高く見えて、敵の爆撃機はあの3倍も高いところを余裕で飛べるんだよという事実のほうの厳粛さを、つい忘れそうになる。
学会で長野県まで行ってきました
2月20日から22日まで、長野県で行われた新生児関連の学会に出席した。運営も内容も、通常の学会よりも手作り感が強い会だった。
運営にはやや内輪受け的な風合いが鼻についた。その方面の趣向はいかりや長介と加藤茶と志村けんが極めてしまってますし、と言いたかった。会頭が開口一番客席に向かって「おおっす!」とか言いそうな雰囲気。さすがに「駄目だこりゃ」とは言わないだろうけど。
いや決してローレベルとは申しませんよ。ザ・ドリフターズの壁に素人が挑もうなんてのは凄い挑戦です。でもなあ、演じる者は自分のネタに自分で笑ってはいけない、というのは喜劇の鉄則だと思うんだが。遵守されてなかったですね。それにみんないかりや長介と志村けんの立ち位置に立ちたがるんだよね。それも鼻についたのかな。高木ブーの位置にあえて立つ人がいないとあの芸風は全体のバランスがとれないんだよね。
しかし内容的にはさすがなもので、論じられる内容は自分の興味の核心をいちいち突いてきた。運営の中心になっている医師たちが、総花的な美しさなど無視して、自分たち自身の知りたいことだけを盛り込んだという、手作りの良さが発揮された観のある学会であった。「伽藍とバザール」において論じられる類の良さを感じた。
会場も宿も大町という土地の市民会館と温泉宿だった。風景のよいところだった。雪をかぶった山が遠くに見えたが、あんまり明瞭に見えるので距離感が多少くるった。海抜3メートルくらいかの海岸で育った私には空気が多少薄いような気もした。味のよい空気ではあった。ジャンクフードに倦んだ頃合いに冷たい真水を飲んだような気分がした。陽光の質も違うように思った。長崎の夏の陽光は相撲取りの突っ張りのように圧倒的な量感で上から叩き伏せてくるが、この土地の冬の光は空手家の一撃のように鋭く突き抜けてゆく。
エンディングで「風呂入れよ!」と加藤茶に言われたわけではないが、雪の中の露天風呂というのに初めて入った。髪に雪が積もり、おそらく一部は凍ったのだろう、なんだかしゃりしゃりする感じがした。それを野趣というのか野蛮というのかよくわからない。まあ何事も経験だろうとは思う。一度二度なら楽しみのうちだ。住んでみようとはなかなか思わない。私には水が自然界に固体で存在できるような土地での生活など耐え難い。まして自分の身体が氷結するなど論外だ。
この学会は毎年この時期にこの土地で行われているのだが(なんで2月に長野なんだよ)、数百人の団体が2泊3日でやってきて学会をし宿泊していくので、地元にとっては経済的にかなり大きなイベントになっているらしかった。至る所に歓迎ののぼりが立ち、懇親会には市長さんが挨拶に来ていた。政治家のスピーチというのを初めて聞いた。歓迎のメッセージを送って地元の紹介をしてと、通り一遍なような熱の籠もったような内容ではあった。どうせ詰まらんことを言うのだろうと高をくくっていたが、聞かされてみると上手いものだなと感心させられた。やっぱりああいうのは市役所に一人二人くらい作文の上手い人がいるのでしょうかね。
そのスピーチに、例によって、市民病院の内科医が二人辞めて困っているから誰か赴任してくれないかという話も出た。いやここに居る医者はほぼ全員が小児科ですしと思ったけれど、さすがにそんな残酷な突っ込みを面と向かってする人は居なかったようだ。私は数百人の背後で末席に謙遜していたから詳細はわからない。
ただ市長さんが仰らなかったこととして、日本の周産期医療の発展に当市がいささかなりともお役に立てているようで光栄ですとか仰ってみればよかったかもと思った。そういう無形の貢献をしているのだよという誇りを持っていただいていいのじゃないか、いや願い出てでもそういう誇りを持っていただくべきなのではないかと、京都府民の私は思うのであった。
そういうことは言わぬが花なのでしょうかね。いや、当地の北の方には、優れた研修システムをもってたくさんの優れた医師を輩出していた市民病院内科を、なんで一自治体がそこまで云々と言って潰した愚かな自治体がありましてね。今はみごとに地域医療が崩壊して喘いでますけど。金の卵を産む鵞鳥の、腹の中にはもっと大量の金が入ってるんだろうと思って殺して開腹してみたという愚かさの上をいく、えさ代がもったいなくて餓死させた、というお粗末きわまる愚かさ。他所の市ではあるけれど、府民として忸怩たる思い、というのが無いこともなくて。
戦前の少年犯罪
戦前の少年犯罪
管賀 江留郎 / / 築地書館
ISBN : 4806713554
昭和元年から20年までの時期に発生した少年犯罪について、当時の新聞から事例を集めたものである。本書によると当時は今以上に未成年者による殺人が多い。それも貧困によるものとは限らない。かぎらないどころか、徴兵前の10代は働き口も多く金銭には困っていなかったとのことである。戦前には性犯罪も多いし虐めも校内暴力も学級崩壊も多い。なのに戦前の親の甘さや放任ぶりは目に余る。自分ではしつけの一つもできないくせに学校の先生を責めたてるモンスター親も戦前からあるものらしい。まあ学校の先生も小学校の修学旅行で生徒を強姦したりしてるから似たり寄ったり。引用されている新聞記事は、このペースで猟奇的事件が続いていたらサカキバラ事件も影が薄れるかもしれんとさえ思える。加えて、旧制高校の学生という、特権意識丸出しに治外法権状態で犯罪行為を繰り返した史上最低の連中がいないだけ、現代はマシかも。
なにしろ、読んでたいへん勉強になった。昔の日本の子育ては折り目正しくて立派だったが現代の親も子もダメだ云々の世迷い言に悩まされたことのある人なら、是非にも読むべきであると思う。というか本書で横っ面をひっぱたいてやりたい奴の顔が一人二人と浮かばない聖人君子ってあるんだろうか。私の領域でも、さすがに戦前の新生児学が今より優れていた等とは言われないが、一般小児科ではむかつくことも多い。とくに小児心身医学の方面に、現代の子育てが悪いから云々と客観的事実と偏見とがごっちゃになったような教科書を書く大家があって始末に悪い。今後はそういう大家の言も相対化して聞くことができるから、自分の診療に一本強い芯を通せそうで嬉しい。感謝感謝。
著者はべつに現代の子供たちにシンパシーがあってこういう書物を著したわけではなく、ちょっと昔の新聞に目を通す程度の調査をすればすぐにも分ることに関して、まったく調べもせず無根拠なことを言いたい放題にする言説がまかり通っているという現状に対しての問題意識が執筆動機だとのこと。その学問的不誠実に我慢ならないのか、著者はそうとう怒っている。怒りぶりからすると、やっぱり現代の少年に対するシンパシーも、著者の言葉に反して実際は相当にあると見える。現代の少年たちに対してさんざん投げつけられる紋切り型の攻撃表現をそのまま使って戦前の少年を腐してあるから、結果として文章表現がかなり攻撃的である。はっきり申し上げて品がない。それは意図してなされていることなのだから、それも芸のうちと、読者がその背景を斟酌して読む必要はあると思う。
本書が世に問われた以上は、これまでの自身の言動を恥じて、今後は多少なりとも口を慎むべき面々が、犯罪○○学とか教育○○学とか精神医学とか推理小説家とかといった分野を中心に多々あると、私も思う。ただそういう面々がほんとうに慎むかどうか。せいぜい、「自分を棚に上げて若者を腐す人たち」とか「無根拠に若者を腐す人くささない人」とか「頭のいい人の若者こきおろし術」とかといった便乗本を平然とした態度で書くのが落ちだと思う。本書はたしかに優れた著作だが、本書によって彼らに一矢報いることができると著者がもしも考えていたとしたら、厚顔無恥という悪徳に関して、私などよりも多少楽観的であるように思われる。
小浜温泉は何をしているのか
米大統領選の本命オバマ氏を日本の小浜市が応援しているというお話。いったい長崎県雲仙市の小浜温泉はなにをしておるのか。しっかり出遅れているではないか。彼の地を選挙区とする久間章生代議士が、県民の猛反発を覚悟で原爆仕方なかった発言までして米国にしっぽを振って見せたというのに。
やっぱり民主党の代表選びに噛むのはまずいのだろうか。
江戸むらさき特急 あるいはうっかり八兵衛考
江戸むらさき特急
ほり のぶゆき / / 小学館
ISBN : 4091858910
「時代まんが」ではなく、「時代劇まんが」である。なぜうっかり八兵衛がついてくるのかと悩む助さんとか、うっかり印籠をなくして「うっかり格さん」と呼ばれてしまい八にまで小馬鹿にされて怒りに震える格さんとか、お白砂で脱ぐなとか自分のことを「さん」づけで呼ぶなとかと老中にしかられる遠山金四郎とか、実在しないことを新撰組に揶揄される鞍馬天狗とか。なかでもいちばん秀逸なネタは「店先で隠密同心に死なれたが死体を片付けられず困る湊屋さん」だと思ったが。
元ネタを知らないと面白くないらしくて、妻は時代劇の教養が皆無な人だからさっぱり理解できないらしい。そのてん私は大半のネタを知っていたのだが、いったいいつのまにそんなにテレビを見ていたんだか自分でもよく分らない。しかしさすがに隠密同心心得の上を全文は知らなくて(知っていたのはリフレインされる「死して屍拾うものなし」だけ)、今回その全文が分ったので人生の懸案がひとつ片付いたような気分がしている。
ちなみに八が着いてくるのは、堅物3人の旅だとストレス状況下で容易に2対1に分裂してしまって旅が破綻するからだと思う。助と格の仲裁に手を焼く黄門様というのも何だか痛々しい。1時間ほど放送枠を遅らせ、橋田壽賀子先生に脚本を書いて頂いたら、番組としては成り立つかもしれんが、印籠が毎回出るとは限らなくなるし視聴者層もかなり変わるんじゃないかな。まして由美かおるのかわりに泉ピン子が出たりしたら評判が悪くなるだろうな。
黄門様御一行に限らず、少人数での長期任務は人間関係のごたごたで失敗するリスクが高いから、わざわざ無駄に多い人数を派遣するものだ、と聞いた覚えがある。たしか藤子不二雄先生のまんがにもそういう作品があったと思う。宇宙旅行ものだったが、外的な状況が危機的になってくると、わざと憎まれるような事をして自分に他クルーの敵意を集め、その敵意を媒介にして彼らの結束を保つというウラ任務を担った人物が出ていた。金銭的報酬はよいが、他クルーには彼の正体はついに知らされることがないので、尊敬や感謝云々の精神的報酬はなし、という過酷な任務であった。まさに、死して屍拾うもの無し、である。
平時においても、場を和ませて気分を引き立たせる人物って、けっこう重要な役割なんだろうなと思う。黄門様の足取りを見て頃合いかなと思ったら「ご隠居ぉ、あっしはもうくたくたで」云々とふらついて見せたり、宿場についたら土地の旨いものとか案内して晩飯どきも座を盛り上げたり。いや危機においても、たとえば偽黄門一行が現れたら「うひゃあ。あっしは何が何だかもうわかんねえや」とかあわてて見せて、助さんに「落ち着け八」とか言わせて助さん自身の動揺を解くとか。それを意図してやるか天与の感覚でやっているかはよく分らないけれども。でも、目立った業績はなんにも上げていないように見えて、彼がいなくなるととたんにチーム全体の業績が落ちるという存在は、案外とどこにでも、すくなくとも上手くいっているチームには高い確率で、あるのではないかと思う。
ひょっとしてあちこちの病院で診療科閉鎖とかになってるのも、単に人数が減って負担に耐えきれなくなったというばかりではなく、厳しくなる一方の状況において、単にうっかりしているだけとしか見えない八のような人がまっさきにいなくなった結果ということはないだろうか。無駄な奴を放逐してリストラしたと思ったら云々で。
内田樹先生がついに医療崩壊について御言及である
Tokyo Boogie Woogie (内田樹の研究室)において、内田先生が医療崩壊に触れておられる。先生の慧眼には常々尊敬の念を禁じ得ないものであるが、今回のご発言はいささか遅きに失した感がある。
今現場にふみとどまって身をすり減らしているいる医師たちをどう支援するか。
それが行政もメディアも医療の受益者である私たちにとっても喫緊の課題であるはずだが、そういう考え方をする人はきわめて少ない。
そういう考え方をする人は極めて少ないのだそうだ。先生ご自身が今さらお気づきになったからって他の人まで認識が足りなかったことにしてしまうのはどうかと思うのだが。それって先生が戒めておられるところの、「知らない」ための勤勉な努力ってやつじゃないだろうか。それとも、さいきん読売はともかくも朝日でさえも医療崩壊の特集記事を連載し始めているのを読んで、だいぶ多くの人に医療崩壊に関する危機感が共有されてきて慶賀の至りと思っていたのは、私の現状認識が甘いのだろうか。内田先生は毎日や産経をご購読だというだけなのかな。
これまで、内田先生のブログには、いまどきの若い奴らはやりがいのある仕事とやらばっかり求めてけしからんとか、仕事のリターンが自分自身に返ることを求めるのではなく自分の仕事が全体の利益になることを喜びとせねばならんとか、まともなシステムは構成員全体の20パーセントほどの人数が働いていれば回るものだとか、いろいろと勤労に関するご高説が数多く掲載されてきた。当直で疲れた頭には、内田先生のそういうご高説は、「今現場にふみとどまって身をすりへらしている医師たち」に負担を押しつけるのに都合の良い理屈としか読めなかった。
身も蓋もなく言えば、「コンビニ受診だなんてぶつくさ言わんと深夜救急も徹夜で診てろよ」とか「安くて定額制の当直手当も無給呼び出しもブーたれんと夜中の帝切くらい3件でも4件でもやれよ」とか「おめーら一部が過労死して全体が回るのがフツーなシステムなんだよ分ってんのかよこの世間知らずどもめが」とかいう声が、内田先生の声に重なって、かのブログの紙背から聞こえてたのだが。先生と同世代な日医の偉いさんのようにも聞こえる声で。
その内田先生にいまさら支援云々言われてもねえと思う。せめて我が身を振り返って恥じるところがないか確認してからにしてほしいものだと思う。それもしないうちに「そういう考え方をする人はきわめて少ない」などと根拠もなく先駆者気取りをなさるのは、はた目に美しい姿ではない。
社会的な影響力の大きい人だから、彼が医療崩壊を食い止めようとする側にちょっとでも与してくれたら、有り難いには違いない。良いご意見ですと誉めて煽ててこちら側へ引きずり込むのが、大人の得策なのだろうよと思う。ここで彼を批判して、それならもういいよと開き直られ従来の路線に戻られると、我々にとっては損失である。しかしまあ、釈然としないことというものも世の中にはあるものだ。とくに狭量なこどものおいしゃさんにとってはね。
益富地学会館など
娘が鉱物に興味を持っているので益富地学会館という博物館へ行った。ビルの1フロアに鉱物標本がぎっしり並べてあって、娘は熱心に見学していた。私は正直なところ何が面白いのか今ひとつ分らなかった。何万年の単位で語られても新生児科医にはいまひとつピンと来ない。ただ標本の説明が万年筆で丁寧に手書きされていたのに好感を持った。こういうものも好きな人はずいぶん好きで熱意を注ぎ込むんだろうなと思った。重炭酸ナトリウムと塩化ナトリウムの結晶なんていう標本もあって、これはメイロンの結晶かなどと思いながら眺めていた。
烏丸通りを南下すると京都漫画ミュージアムというのがあって、ここでも娘は至福の時を過ごしたようだった。さすがに鉱物よりは漫画のほうが私もまだ理解できた。さすがに娘と行くと青年漫画フロアには行きにくくて少年漫画のフロアでうろうろして、さいとうたかをの日本沈没や新谷かおるのファントム無頼を読んでいた。ここはもとは小学校だった建物らしいが。でも里帰りしてみたら母校が漫画図書館になってたってのは卒業生としてはどうなんだろうと思った。廃墟になっているよりはましかな。
クラシック2題
当直明けに、ケーブルテレビの再放送を録画してあった「のだめカンタービレ」第5話を見ていたら、オーケストラの演奏中のホールに主人公が着ぐるみ姿で駆け込むシーンがあって、もと吹奏楽部員の夫婦ふたりでのけぞってしまった。なんじゃああこりゃああ、と松田優作風に。演奏中にあれをやられて一糸乱れないってのは凄いオーケストラだなとは思ったが。私なんか外来診療中に電話がかかってくるだけでペースが乱れてしまうのに。
原作ではちゃんと間に合って最初から聞いてるよというのが妻の言。だってのだめはあの直後にラフマニノフのピアノ協奏曲の二番を弾き通すんだから、最初から聞いてないと楽譜の読めない彼女には無理じゃないかと。あんなバカをするから、のだめのせいでマナーの悪いにわかクラシックファンが増えたなんて言われるんだと。常識を無視してる以前に原作の読み込みも足りないってことか。テレビの奴ら漫画をも舐めてないか?いや医療を舐めてるってのはよく知ってるけどね。
和むつもりが険悪になってしまったので、妻がもう一つの録画を出してくれた。これは実際の演奏会で、マーラーの交響曲の8番だった。「千人」は聞いたことはあるが見たのは初めてだ。いや画像的には迫力満点ですね。じっさいのところ何人いるのかは日本野鳥の会のひとでもいないとよく分らないけれども。音楽としては、正直なところ私の理解の限度を超えている。まとまった一つの曲だとすら、今ひとつ納得できないでいる。ほんとうに千人も出す必然性があるのかどうかも。興行的な趣向で「千人でやってみたかった」みたいな24時間テレビ的な乗りだったのかもしれないね、なんて素人コメントをしてみたり。でも最後に聞いたのは20年ほども前なのに、それでも曲のかなりの部分が記憶に残ってた辺りは、さすがマーラーだと思った、とフォローしておく。
ウェルズ遺稿
H.G.ウェルズの遺稿が発見された。作品「タイム・マシン」に関連する文章と思われる。以下に引用する。
タイム・トラヴェラーは彼の到達した三千万年後の世界について、わたしたちにもう少しくわしく話していた。しかし、それまでは奇っ怪な内容ながら理路整然としていた彼の語りが、なぜかそのときだけは全くわけのわからない内容であった。貴重な証言を一部でも削除するのは忍びなかったが、報告の完全性を損なわぬよう、その話だけは出版時に割愛した。以下は、その内容である。
ふと、彼方に動くものが見えた。こちらへ急速に近づいてきた。それは猫だった。猫が魚をくわえて走ってくるのだ。いちもくさんに、なにものかから逃れようとするかのように。
この三千万年後の世界に猫が!しかし追ってくるものの姿にはさらに驚かされた。人間によく似た姿をしていた。さいわいなことにモーロックではなかったが、それにしても奇っ怪な姿だった。顔つきは東洋人の女に似ていたが、その頭の大きさはどうだ。肩幅ほどの巨大な頭であった。しかもその頭頂部と側頭部には不気味な突起がつきでているのだ。衣類は身につけていたが、足には何もはいていなかった。
猫とその生きものは機械のわきを脇目もふらずに駆け抜けていった。
あれは何だったのか。ぼくはあっけにとられてその後ろ姿を見送っていた。
「ねえ、なにしてるの」ととつぜん声をかけられてぼくは飛び上がった。気がつくと、機械のかたわらに少年がひとり立っていた。めがねをかけた少年だった。子供のくせに蝶ネクタイを締めていた。無邪気そうな言葉づかいだったが、いくらか作ったような声色ではあった。その眼光と言い、どことなく、幼い外観よりもほんとうは年をとっているのではないかと思わせられた。
そして、なにより、不気味な雰囲気をただよわせていた。周囲で日常的に人が殺されているような、行く先々で殺人にであっているような、殺伐とした環境で暮らしている雰囲気だった。この子の前でうかつな行動をとると、たちまち凶悪な犯罪者だと決めつけられそうな気がした。しかも一声決めつけられただけで、どんなに隠しておきたいことも、最初から順序だててわかりやすく解説調にしゃべってしまいそうな気がした。なんだか、服も着ず頭もそり上げて全身を真っ黒に塗った人物に、物陰から憎悪を込めた視線でにらまれているような、いやな気分になった。
視線、そう、ぼくはそのときほんとうに視線を感じた。とつぜんに。あたかも、それまで存在感を殺していた人物が、ぼくが彼に気づくのをそのときになって許可したとでもいうように。
ぼくは機械の反対がわに目を転じた。そこにいたのは黒い人ではなかった。目つきの鋭い、身長6フィートあまりの、東洋人離れした体格の男であった。顔つきは日本人なのか、日本人とロシア人の混血か見分けがつかなかった。太い眉をしていた。ひげは生やしていなかった。太い葉巻をすっていた。
「俺に用か」と彼は聞いた。
ぼくはやっと、話の通じる人物に出会えたような気がした。「ここは何なんだ。いったいどうして君たちはこんなところにいるんだ」とぼくは聞いた。しかし男はその質問には答えなかった。「案内は俺の仕事じゃない」とつぶやき、葉巻を指先ではじいて捨てると、いずこかへ歩み去ってしまった。
以上である。タイム・トラヴェラーがみたものがいったい何だったのか、わたしにはいまだにわからない。しかし、これもまた根拠のない印象に過ぎないが、「ストランド」誌に推理小説を好評連載中のドイル氏が、この少年になにか関わりがあるような気がしてならない。
H.G.W.