城繁幸「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」内田樹との対決

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708))
城 繁幸 / / 筑摩書房
ISBN : 4480064141
スコア選択: ※※※※※
土曜の午後(午前は仕事)、「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読した。
「若者はなぜ3年で辞めるのか」の続編である。どこへ行ったのかと括られると、いかにも落剥したような印象を与えるが、本書では「3年で辞めた」若者がその後もタフに働いている姿が報告されている。報告例では仕事の内容も報酬も充実していて、負け惜しみではなく辞めてかえって成功している。著者は、彼らの姿に照り返されていよいよ輝きを失う、年功序列に代表される昭和の価値観を本書でもてひどく批判している。
ひとりでは生きられないのも芸のうち
内田 樹 / / 文藝春秋
ISBN : 4163696903
スコア選択: ※※※
内田樹先生は近著「ひとりでは生きられないのも芸のうち」において、「若者はなぜ3年で辞めるのか」を批判している。要約すれば、城氏はけっきょく人生は金がすべてだと思ってるんだろう。こういう主張をする人間は、今は若い者の立場に立っていても、年老いたらこんどは老人の既得権を最大に生かして若者を搾取するんだろうから信用ならない。労働というのは他者のためになされることなのだよ。自分にあった仕事なんて行っててはいかんのだよ。云々。
その批判を内田は以下の問題提起で開始する。

私が考えこんでしまったのは、これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずなのに、この200頁ほどのテクストのなかで、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていなかったからである。

たしかに「若者は・・・」において城氏の著述はもっぱら現状分析にとどまっていた。しかし「基本的な問いが一度も立てられなかった」は内田先生最後まで読んでなかったでしょうと申し上げるしかない。この問いは確かに立てられていた。答えが出されていなかっただけである。その回答を城氏は本書「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」で示したと私は理解する。
城氏の「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読したうえでは、内田先生の批判はいかにも昭和的価値観の範疇を出ないもののように思える。釈尊の指に署名して上機嫌な孫悟空を彷彿とさせる。そもそも、城氏の分析によれば今の若い者は年老いたところで今の老人が享受している既得権など手にしようがない。そんなもん期待しようがないと見切りをつけて若者は3年で辞めていくのである。
「何をなしとげようとしているのか」という基本的な問いとおっしゃるが、それを上の世代が一度でも立てたことがあったのか?と内田先生に逆に問いたい。それを体を張って示す先達を職場に見いだせなかったこともまた、若者の離職に拍車をかけているのであると、城氏は分析している。何を?昭和の遺残組は滅私奉公と引き替えにした年功序列の出世しかなしとげようとしなかったじゃないかと城氏は反論しているかのように、私には読めた。
しかし、内田と城がまったく対立しているかと言われると、どうにも。結局この二人は似たような主張をしているだけではないかと、私には思えるのだがどうだろう。内田先生の、城君の言ってることは間違いなのだよという言に引き続く、人の世のなりたちは本当はこうなってるんだからねと説かれるその説諭は、ほとんど城氏と異口同音のように思えるのだが。振り返るに内田先生は城氏の分析する年功序列型のレールをずいぶん早くから降りてしまって我が道を進んできた大先達なのだから、けっきょく彼の来し方は城氏の理想に近いのではないかとも思える。城氏には、次の企画として、内田先生のインタビューを是非やって頂きたいものだと思う。案外と気が合って、おもしろい対談ができるかもしれない。
誉めるばかりでは済まさないという当ブログのポリシーに沿って、「3年で辞めた若者はどこへいったのか」に一矢つっこむとすれば、3年で辞めた連中の皆が皆そんなに信念を貫き通して成功してるわけではなかろうということは是非申し上げたい。城氏の尻馬に乗ってか乗らないでか早々と辞めてはみたけれどやっぱり上手くいかなかったよと、不遇をかこつ人も実際にはあるんじゃないかなと私は思う。それもまた人生と覚悟してその後の道をみずから切り開けるほどの強さを、城氏が思ってるほどの水準でそなえた若者は、城氏が思うほどには多くないんじゃないかと危惧する。内田先生が城氏のような思想を目の敵にされるのも、その危惧をお持ちだからなのではないかと思う。教え子が城氏に毒されて人生を誤るかもという危惧をお持ちなんじゃないか。
冷たく言い放つとすれば、城氏はそれにも答えを出しておられるのだが。最近の若者はなっとらんと昭和的価値観の企業の御大がぐちる中、優秀な若者はどんどん海外をめざしていると。

しかし、彼らの口からは、それら大企業の名前は一社たりとも出てはこなかった。なんと30人中29人が、外資系企業の名を上げたのだ(ちなみに、残り一人はテレビ局)。一人ずつ志望先を聞いていくうち、だんだんと顔がこわばっていったのを覚えている。
 大学名や就職活動に対する真摯さから見るに、彼らは90年代であれば、おそらく日系金融機関や官僚といった道に進んでいた層だろう。少なくともそんな彼らは「日本企業が割に合わない」という事実に、とっくに気づいているのだ。要するに「やる気があって前向きで、アンテナの高い学生たち」から、日本企業の側が見捨てられているわけだ。

 
ようするに嘆く君らの周囲にはそれだけ質の低い連中しかいないのだよということだ。とすれば、内田先生が、学生が英語ができないとか連立方程式がとけないとか仕事に関する覚悟が甘いとか、あんまり若者を腐してばかりいると、勤務先の大学で内田先生と縁のある若者の質がだんだんと知れてくるということはないのだろうか。学生に迷惑でなければよいのだが。

不機嫌な職場 医療崩壊の構造にも関与するところがあるのでは

不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書 1926)
河合 太介 / / 講談社
スコア選択: ★★★★
職場が「一人ひとりが利己的で、断絶的で、冷めた関係性が蔓延しており、それがストレスになる」ことの原因と対策を論じたものである。
良いところとして、個人の資質(マッチョだとかウインプだとか)とか世代論(団塊とかバブルとか)に一方的に責を帰して「お行儀を良くしましょう」みたいな説教を垂れるのではなく、社会科学的研究の成果をふまえて考察してあるのが快い。最終的には、そっと、それでも互いに手をさしのべあうことには意義があるのだよと述べてあるのだが、それも個人の努力のみで実現しようというのではなく、職場のシステムを変えることに重きをおいて実現を目指してあるのが、個人的責任と環境の関与のバランスがほどよくとれた論考だと感じられる。ひねくれもせず多責的にもならず、すなおに読める良書だと思う。
本書の第2章で論じられている、職場の不機嫌さをうむ問題点「組織のタコツボ化」「評判情報流通と情報共有の低下」「インセンティブ構造の変化」はそのまま、崩壊の進む医療の現場で起きていることのように思える。医療の高度化にともなう専門分化・タコツボ化はある程度は避けられないことだし。インセンティブ構造の変化にしても、世間の人はいまごろようやく自分のキャリア形成を優先するようになったらしいが、医者は昔から自分の診療能力の向上を儲けより優先させるのが美徳とされてきたものだし。こういう問題点は世間の先陣を切って医療業界でまず起きていたことではないだろうか。
評判情報の流通ってのは医局の噂話みたいなもんかね。定型発達のひとに聞いてください。私はわからん。
崩壊の第一の原因が絶対的なリソース不足にあることは無論なのだが、本書にあるような構造とリソース不足が、ハウリングを起こすかのように、たがいに強めあっているという構図はないだろうか。医師がとつぜん集団退職して診療科や病院の単位で閉鎖に追い込まれている現場では、単純に激務のフィジカルな辛さのみならず、本書にあるような構造の精神的なストレスが、最初の何人かが辞めた時点で爆発したのではないかと思う。

「キュア」 各論的には不愉快だが、読まれるべき作品である

キュア cure
田口ランディ / / 朝日新聞社
スコア選択: ★★★★
土曜の夜に田口ランディ著「キュア」を読了した。久々に、力のある物語を堪能した。読む者を引き込んで放さない力をもった物語である。理屈の上では荒唐無稽な、理不尽で泥臭い物語なのだが。物語の力というのは理屈にあうとかあわないとかいった話とは違う水準に存在するのだと、読者として思い知らされるような作品である。
じっさい、各論的なつっこみどころは満載なのである。主人公には特殊な治療能力があるらしいが、電磁力に関係するらしいその力を手術室で使おうったって、手術用手袋がその力を絶縁してるんじゃないかとか。腫瘍病棟が地下にありますって、患者さんが寝起きする病棟を地下室に置くことが法令上許されてただろうかとか。ガラスの保育器っていったい何十年前の代物だよとか。
そのような、と学会的に一笑に付せる些事に混じり、安楽死に関して、ホスピスに関して、あるいは未熟児の予後や障害新生児のフォローに関して、現代医学に関する著者の悪意が感じられる描写が多々ある。読んでいて気持ちがざわつく。思いつきで書いたのなら許し難いところであるが、著者はご家族の病気でさんざんご苦労なさった経験をお持ちなのだから、病院に足を踏み入れたことがないわけではあるまい。そのご経験をふまえての著作なら、無碍に排撃することもなるまい。患者さんの中にはこういうふうにお考えの人もあるのだと、拝聴の上で一応は胸に納めるものであろうと思う。一応はね。同じネタを何回も使い回したら許さないけど。
著者が本作で提示する死生観には、現代医学に関する描写の不愉快さをおぎなってなお、胸を打たれる。この死生観は医療を変える力を持つと思う。おそらくは崩壊を食い止める方向に働く力となると思う。この死生観ゆえに本作は読まれるべき作品だと思う。少なくとも医療関係者にとっては、医学的描写の不備や悪意をがまんして最後まで読む理由にはなると思う。この場に要領よく要約する筆力を持たないことには寛恕を乞う次第である。

医局の片付け

医局の机とかレターボックスとかに山積みになった書類を片付けた。さきの記事を書いてから今までごそごそと始末していた。浪費癖の一環として医局にCanonのDR-2050C IIをもっているので(御手洗とかいう人のフトコロを一文でも潤したかと思うと業腹だが)、捨てられる書類は捨てる、迷う書類は電子化してから捨てる、の方針で対処したところ、驚いたことにほとんどすべての書類がごみ箱行きとなった。一部シュレッダー行きになった書類もあるけど。ファイリングしたのは退院サマリーだけ。
今日は娘が進学塾の入試だとかで外出しているので、家に帰っても徒然ないから雑用をかたづけようと思った。山の半分も崩せれば上出来と思っていたが、まさか全部片付くとは思わなかった。こんなに早く片付くならもっと早く取りかかっておけばよかった。
しかし娘も公文では中学2年くらいのレベルをやってるくせに、いまさら中学入試の準備でもなかろうと思うのだが。入試でうっかり方程式とか使わないようにとかいったテクニックを学ぶんだろうか。そのあたりは色々と不可解だ。
息子もひとりで留守番にはしのびないので、連れて行くとのことだった。鉄道関係のポッドキャストをたっぷりダウンロードしたiPodを持たせておいてみると、妻は言っていた。なるほどあの機械も色々と使い道があるものだ。うまくいったろうか。

イカの哲学 時代はすでに追い越してしまった

イカの哲学 (集英社新書 (0430)) (集英社新書 (0430))
中沢 新一 / / 集英社
スコア選択: ★★★
 書店で目を引かれて購入し一読した。
 1950年年代に書かれたものとしては、イカの哲学なる論考の原文は読ませるものがある。しかし、もう時代に追い越された感は否めない。流行のエコロジーやらなにやら、いまどういう作文を書けば先生や世間の受けがいいかという風向きにちょっと敏感な高校生なら、これくらいのものは書くように思える。
 はっきり言って陳腐なのだが、2008年の現在にこの文章が陳腐に感じられるのは、けっして著者の波多野一郎氏をくさすものではない。1950年代においてはこの論考は斬新なものだったのだろうと推察する。彼の思想を、その後になって、時代が追いかけ、追い越してしまったのだと思う。あまりにメインストリーム過ぎる思想であった故に、あまりに正鵠を射すぎてしまったために、今となっては陳腐に感じられるのだろうと思う。
 中沢新一さんはずいぶん手放しでの推薦ぶりなのだが、オウム真理教に肯定的にコミットした識者の最右翼みたいな人なので、波多野さんも草葉の陰で困惑してるんじゃなかろうか。松本智津夫と同列あつかいかよ・・・とか。

トリアージ考

 NHKの小児救急特集に関する感想の続き。
 本診に先だって手短で定型的な予診を行い、重症度に応じて本診の順序をきめる、いわゆるトリアージであるが、今後の救急診療には必須の手順となろう。重症者を迅速に診るということの、医学的な重要性はいまさら本稿で述べるまでもあるまい。加えて、リスクマネージメントの面もあるということを付け加えさせていただく。米国では(日本でも既出か?)化膿性髄膜炎に関して、外来受付時間から抗生物質の初回投与までに2時間かかったのは遅すぎ怠慢であるという訴訟があったと聞く。病院側が敗訴したというおそろしい追加情報まである。
 
 現状でさっそく当院にも採用できるかというと、それは困難であろう。医師一人看護師一人でやってる小児科時間外では、トリアージに専念できる人員がない。当院では予診票を書いていただき、看護師が簡単な問診をするので、それがいくばくかトリアージのかわりになっている程度だろうか。めったに順番を変えることはないんだけれど。
 
 人数もさることながら、小児の病歴を手短に聴取しバイタルサインなど把握して重症度を判断するなんて、そうとう小児科の経験を積んだ医師なり看護師なりが必要だ(経営的な思惑からおそらくはベテラン看護師の仕事になるんだろうけど)。うちはそんなことができる優秀な人を時間外にも揃えておけるほどの病院かどうか。
 
 昔は私も漠然と、こどもを3~4人も育てた経験のあるベテランならたいてい一目で子供の重症度は分るだろうと考えていた。しかしよく考えてみれば、やはり「専門的」な手順が必要なのだ。というのは、トリアージを行えば、大多数の軽症患者は後回しにされるのである。トリアージの成否は、担当者の診断能力はむろんのことであるが、この後回しにされる大多数の人たちに納得を頂けるかどうかにかかっている。この人たちに、お子さんはこれこれの点でいま順番をとばして診察室に入った子よりも軽症なのですという説明を、客観的な用語を用いてできるかどうかである。その点で、年功を積んだだけでは足りないのである。
 
 むろん、それも、軽症者は後でよいというコンセンサスが得られていればの話である。重症だろうが軽症だろうが関係あるもんか私の子を先に診ろというレベルの主張をされたら、トリアージのシステムは機能しない。
 
 そんな理不尽な主張をすると、じっさい自分の子が重症であった場合に困るだろうという理屈は立つ。しかし、大多数の小児救急患者は軽症である。大多数の軽症の中からいかに極少数の重症者を検出するかが小児救急の勘どころなのだ。大多数の親子にとって、子が重症に陥ることなど生涯(すくなくとも小児期には)経験せずに済むのである。したがって大多数の親子には、トリアージなどなくても、実際のところ困りはしないのである。むしろ後回しにされる言い訳みたいな、不利益なモノなのである。
 
 先に述べたNHKの特集でも、トリアージで先に診てもらえた子の親御さんが、重症だったから早く診て貰えて安心でしたと肯定的にインタビューに答えていた。しかし、本当に聞くべきは、軽症だとされて待たされた子の親御さんたちの感想だろうと思う。親御さんたちは納得してお待ちだったのか。納得しておられたとして、それは医学的に納得されたのか、それとも成育医療センターというビッグネームに威圧されてのことなのか。その人たちが、いやあうちは待ちましたけどあの子は大変そうでしたしね、助かってよかったですよと、おっしゃって下さるかどうか。ぜひ知りたい。
 
 救急医療など、限られたリソースの配分をいかに最適化するかという問題においては、参加者のおのおのがシステムの円滑な運営に協力するという、総員の善意を前提にしないと、最適解は出せないものじゃないかと思う。各人が各人の利益を追求することが最適化の道になるためには、リソースが無限に供給されなければならないんじゃないだろうか。経済学的にはどうなんだろう。各々の善意を前提にしないと救急は回らないってのは、現場での実感なんだがね。相手を潜在的な(あるいは明示的な)敵と見なしての救急医療なんて燃え尽き必発だと思う。
 
 トリアージの成否に関する責任を利用者側に押しつけたような内容になってしまったが、むろん、トリアージの成否を決める一番の要因は診療側の診療能力であるとは、肝に銘じております。その点、いずれまた書かせていただくかも知れません。
 それと、これは声を大にして言いたいんだが、トリアージは確かに必要だけど、トリアージさえすれば救急医療のリソース配分は上手くいくから総量の拡充は不要だなんて議論が行政なんかから降ってくるようなら、それは違うよと申し上げたい。

後医は名医で後知恵は猿知恵

本日朝のNHK「おはよう日本」で8時ちょっと前、小児救急の危機なる特集が流れた。ストーリーとして、
1.初期診療が遅れ後障害の残った症例の呈示
2.担当医の「もうちょっと早く治療できてたら」という言質
3.限られたリソースで重症者を迅速に診療しなければならないという問題提起
4.成育医療センターで行われている「トリアージ」の紹介
こういう起承転結であった。
特集の着眼点としては、まずまず合格点であろう。人を増やせったって今日明日すぐに増やせるわけでなし、初期段階で重症度を判定して重症者から診ていく「トリアージ」は今後は必須のものとなろう。それを指摘したということで、この特集を制作した意図は正しいと思った。
しかし特集の具体的な内容にはおおいに疑問を持った。最初に登場した症例の疾患はインフルエンザ脳症なのだ。40分かけて二次救急に搬送されたが、「けいれんを止めるばかりでインフルエンザという診断に至らず」、2時間後に隣の町の高次救急の病院へ搬送されたとのこと。その2時間がなければもうすこし予後が良かったのではないかという、ご両親のお言葉があった。
決してこのご両親をあげつらう意図はない。その意図はないのだが、しかし、その2時間を急いで何かを行っていたら後の障害が軽減されていたかというと、はなはだ疑問と申し上げざるを得ない。インフルエンザ脳症ってのはおそろしい病気だ。発症時点ですでにカタストロフィックな疾患だ。こういう特集で、トリアージして早めに対処すれば後が良くなる典型例だと取り上げられるような生やさしい疾患じゃないと、私は思っていたのだが。
二次救急病院段階での対処はそんなにまずかったか? まずけいれんを止めた。正解だ。そのうえで、もしも意識障害が続いていたら、状況に応じて気道確保など行ってできるだけ状態を安定させ、原因の究明にはいる。それは意識障害の救急対応の一般的なセオリーだが、そこでインフルエンザ脳症という診断が得られていたとして、この2時間のうちに行えば予後が良くなるようなインフルエンザ脳症に特異的な治療法がなにかあるかというと、私は存じ上げない。
しかし、ストーリー第2段階で、この二次病院から紹介をうけた高次病院(熊谷という土地の西隣にある自治体にある病院だ)の、この子の診療に当ったという女医さんが、もう少し診療が早かったら予後が現状よりも良かった・・・可能性があります(けっこう付け足し的に間をおいて)と明言された。いったい何をすれば?初診から2時間の内に行えば予後の良くなるようなインフルエンザ脳症の特異的治療っていったい何?とこの女医さんにはぜひ伺いたいものだと思った。私もまたけっしてリソースの充実しているとは言えない二次病院で小児科救急をやってる人間ですからね。ぜひお伺いしたい。こんな全国放送の特集で、いかにも手落ちと言わんばかりの指摘を受けるような、そこまで言うほどなら熊谷周辺ではよほど常識的な治療法なんだろうけど、京都の私は存じ上げない。何をしたら良かったの?
そもそも2時間って遅かったの? この二次病院で果敢にこの症例を引き受けた先生はどうやら小児科医ではなかったようなのだが。患者さんのご自宅から緊急走行で半径40分以内に引き受ける医療機関が存在しなかったような症例を、果敢にお引き受けになったわけだ。ひょっとしたらこの症例に専念できなかったかもしれない、多忙さが過酷を極めるのが常の二次病院でさ。けいれんを止めるしかしなかった、ってNHKの人はこともなげにおっしゃったけど、40分かけて搬送して病院に到着時にはまだけいれんしてたんだ。そんなものすごいけいれん重積を止めただけでも大したものだ。それから搬送に耐える状況まで2時間でもってった訳だろ? 2時間もって言うけど、現場だとあっという間だよ。私はこの二次病院は大したものだと思う。特集では、こんな半端なすかたん病院に運んだのが時間の無駄だって言わんばかりの扱われようだったが。紹介をうけた医者にさえ遅いと言われてしまったが。
しかし画面に出た略地図だと患者さんのご自宅からこの二次病院より最終的に落ち着いた高次病院のほうが距離的には近そうだったけどな。他所を悪く言うならなんで最初から自分のところで診ない?
たぶんこの女医さんもまた果敢にタミフルを投与しステロイドパルスとガンマグロブリンを行い、あるいは脳低温療法とかまで行って、高次病院の機能の限りを尽くした診療を行ったことだろう。二時間前から行っておればこの子の後障害が軽くなったような素晴らしい治療を。その業績にけちをつけるつもりはない。
しかし前医をこんなふうに腐してはいけない。この女医さんに全国放送でこんなことを言われたら、今後この病院はけっして小児救急を引き受けようとしないだろう。けいれんする子供を乗せて救急車が40分走らねばならないような土地で、必死に状況の崩壊をくいとめている二次病院を、たたきつぶすのは容易ではあろうが軽率に過ぎる。愚かに過ぎる。
周辺には、この高次病院には今後は決して患者さんを紹介するまいと、肝に銘じた医療機関も多かろうと思う。最初から自分たちで診ろよと。トリアージでもなんでもしてと。しかし高次病院に紹介できないと、重症そうな症例を引き受けることは無理だ。一斉に、周囲の医療機関が守りに入る。防衛的に、とことん軽症例しか診なくなる。子供をつんだ救急車なんて全車門前払いだ。この高次病院が一手に引き受けることになろう。一手には診れない? いや、診れるはずだ。今後は白血病も腫瘍も小児外科症例も循環器も内分泌も、紹介患者はがた減りするから、思う存分近隣全体から小児救急をどんどん引き受けて、適切な二時間以内のインフルエンザ脳症治療に邁進すればいいんだ。

どこででも生きてゆけるということ ユーコン漂流

ユーコン漂流 (文春文庫)
野田 知佑 / / 文藝春秋
ISBN : 4167269139
スコア選択: ※※※※
長野へ行く出張の往路で読んだ本。最近、どこででも生きていけるってどういうことだろうと考え直させられることがあって、思い出した。
アラスカの大河をカヤックで下った顛末である。著者はそれほどの冒険でもないと謙遜するが、しかし動物性タンパクを魚釣りで現地調達するなどいろいろとワイルドである。しかし、著者はそれでも旅が終われば日本へ帰る人である。現地には、そこに永住してしまう人もあって、その人々のワイルドさは著者とはたしかにレベルが違うように思われた。(むろん、新幹線や長距離バスのシートでぬくぬくと本を読んでいる私などと著者とはレベルが数段違うのだが)。
その人たちにも子供があって、当然に教育の問題が生じる。むかしは全寮制の学校が主流だったが、それでは家族を離散させてしまう。なんやかやで、通信教育が活用されているとのこと。その下りで紹介されている逸話。

 レポートを提出するのだが、月に一度、生徒が先生の家にやって来て、てほどきする。
 生徒の家というのはどんな山中でも100パーセント川や湖といった水辺の近くにある。
 飲み水の確保のためと、山奥に入るのに船外機をつけた大きなボートで「水路」を伝って入るからだ。だから、アラスカでは飛行機にフロートさえつければほとんどどんな所にも行ける。
 先生は水上飛行機に乗って生徒の家にやって来て、一日いて勉強のアドバイスを与え、帰っていく。
 ある年、アラスカ大学にトップの成績で入学した学生は、一度も学校に行ったことがなく、ずっと通信教育でやってきた人だった。入試問題が日本のように暗記のテストではなく、思考力を見る問題だから、こういうことが起こる。
 このことが話題になり、マスコミが彼をインタビューした。
 アナウンサーの「山の中でいったいどんな勉強をしていたのですか」という質問に彼は答えた。
「私はただ生活をしていたのです」
 彼のいう「生活」という言葉の重さをアラスカの人間は理解できるので、みんな黙りこんでしまった、という。

 ちなみにこの月一回の先生はいちいち勉強の内容を教えたりはしていられないので、勉強の仕方をアドバイスしていく、とのこと。それはそれでよいとして、「どこででも生きてゆける」という言葉で私が連想するのは、こういう「生活」ができるという意味での「生きる」ことである。
 世界中のどこでも生きていけると公言したときに、その「世界」にあまねくプログラミング仕事やネットや銀行証券屋さらには献本を配達する運送屋がそろってるわけじゃありませんよ、とつっこみを入れられてもうろたえずにすめばいいんだけど。私などとうてい世界中どこでも生きていけるなんて言えない。ライセンスは日本限定だし。日本国内どこだって、とみみっちく幅を狭めてみたところで、日本国内のどの病院にもNICUはおろか一般小児科さえあると決まったわけじゃないよとは、よくわかってるつもりだし。
でも思い切ってしゃべってみたら、いかに自分がしゃべれないかってのも痛感させられるけど、いかにいい加減な英語でも通じるかってのには愕然とさせられる。まあ、自分の免許も子供の命も賭けられるほどの英語力を持ってるなら、ある意味、医者なんてやってる場合じゃないかもしれない。
その自分をさしおいて偉そうに言うなら、自分ががひとりで生きていけるかどうかなんて些末な問題なんだ。いい大人なんだからさ。ほんとうの大人が問題にするべきは、食い扶持を自分で稼ぐとか稼げないとかいう些末なお話じゃなくてね、どういう場所にいても自分は周りの人の幸福に資することができます、とかいう問題じゃないかと思うんだがね。食い扶持を自分で稼げない人間はまわりを不幸にするばかり、という社会なら、社会の方を変えなきゃいけないと思うんだけどね。
ちなみに、本書によるとアラスカで野生に生活する人は外出時も自宅に鍵をかけないんだそうだ。遭難しかかった人が這々の体で自分の家にたどり着いたときに、入り口に鍵がかかっていたばっかりに・・・という状況を避けるためだとのこと。まあ、20年から前の紀行だし、時代は変わっているのかもしれないけれども。

勝間先生を猿まねすると脳がフリーズするよというおはなし

効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法
勝間 和代 / / ダイヤモンド社
ISBN : 4478002037
スコア選択: ※※※※
やっぱりネタにして笑った以上は読んでなきゃまずいでしょ、という気持ちはあったのだが、近所の書店にようやく入荷されたので買ってきた。医学書とかアマゾンで買うんですけどね。なんとはなく、本書は買う前に実物を見てみたかった。
実物を見て、買おうと思ったのは、著者勝間和代先生の電脳化ぶりに感銘を受けてである。GPSつきの自転車を駆る著者近影が掲載されているが、タチコマに乗った草薙素子(@攻殻機動隊)を彷彿とさせる。じっさいにマイクロマシン技術をもちいて脳と電子機器を(つまりはネットを)直結する電脳化技術が開発された暁には、まっさきに導入するのはこういう人物なんだろうなと思う。
本書が売れる理由の第一はむろん著者の実生活での実績なんだろう。0番目に著者の文章の明晰さがあるんだろうけど、売れる本としてそれはあまりに当然のことで。それは多くの人に言及されていることだし、いちおう敬意を表して言及しておくが私ごときが深入りすることでもない。
第二の理由は読者のお買い物衝動に火をつけ、しかも正当化してくれるということだと思う。要するに本書はとっても高度な通販カタログなんだ。一流の高価な商品がずらっと並んでいるけれど(レッツノート3台使い回しとか11万円の速読講座とか)、それを推薦する人の実績が凄いから、通販につきもののいかがわしさが感じられない。読むにつけ推薦に応じて買うにつけ、通販につきものの罪悪感がない。文章が明晰だし、著者の実績からして選択眼に疑問の持ちようがなしで、以前からこんなの欲しかったんだよなという急所をピンポイントに突いてくる。初めて見る商品でも「以前からこんなの欲しかった」と思わせられるところなど、内田樹先生が武道の達人に関して述べられるところの「先の先」をとる格好である。我々凡人は勝間先生の魔眼に魅入られるかのように、あらがいようもなく本書に見入り、ふと気がつけば通販サイトに入力するためにクレジットカードの番号を確かめているということになる。
フリーズする脳―思考が止まる、言葉に詰まる (生活人新書)
築山 節 / / 日本放送出版協会
ISBN : 4140881631
スコア選択: ※※※※
勝間先生の本といっしょに買ってきて、続けて読んだ。この手のタイトルには珍しく、けれん味や「と」の雰囲気のない良書だと思った。偏った脳の使い方により、あたかもフリーズしたように思考が止まるという症状をあつかった本である。みょうに指示代名詞がおおくて固有名詞が出なくなるとか、細部にこだわって全体が見えなくなるとか、人の話を聞いてても内容が頭を素通しになってるとか。
自覚するところの多い本で、読んでいて慄然としないでもなかった。なにより、おおいに納得しつつ読んだつもりの本の内容を、こうして読後感を書こうとしてもうまくまとめられないってのはどうなんだ。私の頭もフリーズすることの多いあたまなんだろうか。それとも文章が下手なだけか?どっちも嫌だな。
勝間先生の本と並べて書くのは、単に同じ日に買って読んだというだけではなく、両書に共通点があるように思えたからだが。勝間先生も、ノウハウを求めるばかりで本質を理解しようとしない・自分で工夫しようとしない、と周囲に対して苦言を(ちらっと)呈しておられるが、勝間先生の一連の本をノウハウだけ真似しようとしても、行き着く先は築山先生のおっしゃるところの「フリーズする脳」だろうよと思う。そんな末路を想起させる症例が築山先生の本に載っているのが興味深かった。おそらく、このお二人の理想とするところにはかなりな共通点があると思う。それをお二人以上の明瞭さでここにまとめる筆力がないのが残念だが。読者諸賢の寛恕を請う次第である。
警句的に言えば、勝間先生を猿まねすると脳がフリーズするらしいぞ、という結論。
ほんらい医学書や小児科医療に役立つ本を読んで勉強するべき時間を何を読んで潰しとるのか、というときにつけるタグ「またつまらぬものを読んでしまった」を、両先生への敬意をこめてつけさせていただく。

近畿新生児研究会

3月1日に大阪で開かれた近畿新生児研究会へ行ってきた。病棟で急変があったりして病院を出るのが3時過ぎになり、4時半ころ会場に到着した。会場は都島なのに京阪を間違って京橋で降りてしまって地下鉄を遠回りするはめになり、それもまた遅れる原因になった。
慢性肺疾患の演題をほぼすべて聞き損ね、母乳関連の演題をもっぱら拝聴してきた。とくに岡山医療センターの山内先生の講演は、これまで伺った母乳関連の講演の中でも白眉であった。お母さんに対しても赤ちゃんに対しても押しつけがましくないケアがだいじ、と私は教訓を得たのだが理解が浅いだろうか。赤ちゃんは生まれてすぐにお母さんの乳首を匂いを頼りに探して吸い付く力をもっているのだけど、かといってこちらが無理矢理にくわえさせようとしても赤ちゃんは怒るだけ、とか。お母さんイコール聖母と決めうってのケアは良くないよとも。今までの自分のイメージとして、母乳育児を提唱する運動って、清く正しく美しくあることを強制されるお母さんや赤ちゃんに対する「上から目線」のご指導って感じで、なんだか国防婦人会みたいでいやだよねと思いがちだったのだが、認識を新たにした。
ただ(この「ただ」を言うから私はメインストリームに乗れないのだが)、山内先生も仰るところの、日本の母乳育児の伝統が女性の社会参加によって衰退したというのは本当なのだろうかと、そこだけ突っ込んでみたいとは思った。社会学の集まりじゃないんだからと遠慮したのだが。
昔から日本の女性はおおいに働いていたはずだがね。私の田舎でも周りはみんな農業だったけど昼間に家にいるお母さんって誰もいなかったけれどもね。都会でも似たり寄ったりじゃなかったのかな。まあ田畑や職場に連れて行って哺乳するというのもありだったのだろうが、さあ、そこで行われていた母乳育児が正しいやり方だったろうか、山羊の乳を足してたとかいう話も聞いたことがあるし。三食とも米飯味噌汁漬け物なんて時代の母乳がそんな理想的な組成だったのかねとも思うし。
なにさま、そんな正しい母乳育児が行われていたはずの時代の、あの悲惨な乳幼児死亡率はなんだったのかねとも思うわけで。完璧な母乳育児をみんながやっててあれじゃあ母乳ってあんまり大したことないんじゃないか? 母乳がいったん見放され人工乳が全盛となっていった時代をふりかえっても、けっしてその時代の人々が浅慮であったと決めつけることはできないと思うんだが。その時代にはその時代のやむにやまれぬ思いがあったのだろうし。そりゃまあ反省と軌道修正は決して悪い事じゃないんだが、先人に対して礼を欠かないようには気をつけるべきなんじゃないかな。