来月の当直を組むときにはとうぜん、来月末におこわなわれる「日本未熟児新生児学会学術集会」にひとり派遣することも考えなくてはならなかったわけだが。
今回の未熟児新生児学会のテーマは「子どもたちに無限の可能性を与える新生児医療を目指して」ということで、まあ、さようかと、インフルエンザで病欠するまではだが、NICUの面談室に貼られたポスターを日々ながめていた。
なんか気張ったテーマだなと思わなくもなかった。無限の可能性ねえ。医療ってそんなたいそうなもんか?と意地悪く問うてみたくはある。せいぜい、「子どもたちの足をひっぱらない新生児医療を目指して」くらいがほどよいところじゃあないかと思う。場末のあんまりぱっとしない私のNICUではその程度しかできないとか、iPS細胞@山中教授も新造細胞@東博士も実用化してない現代の医学ではその程度しかだめだとか、そんな限定じゃなくて、まあ未来永劫、医学ってのはその程度に心得ておいたほうが宜しいんじゃないでしょうかと、そんな気が、私にはする。
無限の可能性、というと、現代で言えばドーピング、将来的にはなんだか義体化とか電脳化@攻殻機動隊とか、イマジノス細胞@ノヴァ教授とか、そっちのほうに向いていきそうな気がする。そりゃまあ失われた腕の代わりに高性能の義手をつけるのは私も「あり」だと思う。でもそこにサイコガンを仕込むのは「なし」だ。
まあ、新造細胞やサイコガンは専門誌も読まんとSFまんがとか映画とかばっかり観てる私の邪念かもしれんし、あんまり言うと板橋会長を腐しているようで誤解を招くかも知れないが、まあ真面目な話、こういう文脈で言われるところの「無限の可能性」って言葉には、なにか嫌な臭いがするんだ。強く正しく清潔ではあるけれど、なんとなく嫌な臭い、根源のところでなにか違ってる、なにか生分解性の悪いものが混じった臭いがする。
「いのちの輝き」という語にも同系統の臭いがした。
たぶん、だけど、板橋先生が子どもたちのために希求しておられる何らかのものごとを、後進の我々がわずかなりとも実現するべく求めて進むべき先は、この「無限の可能性」という概念が指し示す方向ではないように思える。
日: 2009年10月25日
闘病記その2
みなさまにはご心配いただいてありがとうございます。
早退して帰ってきた当日は重度の倦怠感と頭痛で一日伏せっていた。二日目は倦怠感がかなり抜けたが頭痛がつづいて不愉快きわまりなかった。三日目、昨日辺りからかなり自覚症状が消えて、いつもの身体の感じにもどった。発熱もなし。病院の決まり事で5日間休むことになっているらしいから、明日までは自宅にこもることになる。
身体がだるいのが日常的な疲労なのか病的な状況なのかを判断するためにも、ふだんの自分の身体がどういう動き方をしてどういう感じがするものなのか、ときどきは意識して記憶にとどめておくべきなんだろうと思う。とすれば、ふだんからゆとりなくぎりぎりまで従業員の心身を酷使しているような企業だと、従業員もインフルエンザにかかったと気づくのが不可能になるんじゃないか、そして一気に蔓延するんじゃないかと思った。ということで、企業のインフルエンザ対策としては、消毒液の買い込みみたいな些末な各論にとどまるんじゃなくて、もっと根源的に従業員が軒昂に働けるような環境作りなんじゃないかなと思った。そういう根源的な意味で、職場にインフルエンザが流行るのって企業にとっては恥ずべきことだろうと思った。
ちなみにいま私は優秀な若い医師に恵まれて、けっこう楽なポジションにいるから、インフルエンザだと気づけて良かったんだけれども。
昨日は一日かけて村上春樹の「1Q84」を読んだ。色々と気持ちに引っかかりを残す作品だった。またインフルエンザで休むことになったら再読するかもしれない。