勉強会で

新生児関連の勉強会やなんかで、初対面のひとに自己紹介につづいて「ブログ読んでます」とか言われてそれっきり会話が途絶えたりすると、陰で何を書くか分からん嫌な奴という扱いをされたような気がしたりする。まあその通りなんだから仕方ないと言えば仕方ないのだが。先の論文は勉強になりましたとか言われるような仕事をしていないから、なおよろしくないんだろうとも思う。公式の業績をあげないうちにブログなんか書き出してしまうと、キャリアになにか変な色が決定的についてしまうってことかなとも思う。とにもかくにも、読者諸賢におかれましては、武士の情けってことで、オフラインでこのブログのことに言及したときに私が「返す言葉もない」状況に陥ったとしてもご容赦いただきたく、ご高配の程を。

茶室的NICU

茶室のようなNICU、という着想が頭から離れない。
京都でNICUやってるんだから何か京都らしいコンセプトが打ち出せないかなという邪念もあるんだけど、また茶室なんて実物は見たこともなくて空想だけで(あとはまんがで読んだことだけで)書いてるんだけど。
内部の隅々まで気を配って五感のすべてに訴えるような茶室でもてなすかのように、赤ちゃんや親御さんに接するNICUってのはけっこう行けてるNICUじゃないかなと思う。赤ちゃんの五感すべてに気を配るNICU。光も音も匂いも。
そういうNICUでは配管とか電源とかはごく目立たないように、しかし有るべき位置に配置されているんだろうと思う。空調をはじめとした各種の騒音も最低限に抑えられているし、調光も目を射ず、さりとて見えるべきものはきちんと見える調光がなされているんだろう。赤ちゃんが飲みたいタイミングを外すことなく適度な量の授乳がなされるんだろう。スタッフはあくまでももてなす側として、客を立てて、自分は陰に回るんだろう。その一挙一動がいちいち、作法にのっとった美しい動作になるんだろう。
影響をされやすい人間だなと自嘲しつつ、元ネタをばらして今日はおしまい。

へうげもの―TEA FOR UNIVERSE,TEA FOR LIFE (1服) (モーニングKC (1487))

山田 芳裕 / 講談社

主人公が驚愕した千利休の茶室を、私はNICUで実現してみたいのだ。

ありがたみ

超体出生体重児の出生があり、スーパーローテートで当院小児科に1ヶ月だけまわってきている内科志望の研修医も見学に来ていた。見ている前で気管内挿管・サーファクテン投与・臍帯血ミルキング・経皮中心静脈確保・動脈ライン確保とやって見せたのだが、一連終わったらなんか無反応なままどこかへ姿を消してしまった。あんまりわあわあと感嘆の声をあげてくれるのを期待していたつもりでもないけれど、いま目の前で何が行われていたのか本当に分かったのかなあと、ちょっと思わなくもなかった。体重900gちょっとの子にさらっと挿管したり血管確保したりする技能ってそうそうあっちこっちの小児科医が持ってるもんじゃないと自負してるんだけどな。
やっぱり追い詰められないと必死にはならんもんかな。
「機動戦士ガンダム」の第1シリーズのわりと最初の方で、ガンダムに乗ったまま大気圏に突入しかけたアムロ・レイ君が、操縦席に備えてあった取説をぶわーっと速読して大気圏突入のさいの手順を発見し、大気との摩擦で燃え尽きることなく無事に突入できたというシーンがあったように記憶している。子供の頃に観たきりだが、ガンダムではあのシーンがいちばん強く印象に残っている。あのときのアムロ君の思いをすれば1ヶ月など無限に長い時間ではないかと思うのだが。

お受験の時にはワクチン接種歴についても聞かれるんだろうか

現在、おそらく名門と呼ばれる幼稚園や小中学校へ受験して入学しようとする動きはますます強くなってるんだろうと思うのだが、その入試の面接の時、各種のワクチンの接種歴について、尋ねられることはあるんだろうか。尋ねてみたら、学校側にとってもいろいろと興味深い所見が得られるんじゃないかと思う。狭義の医学的なことだけではなく、親御さんの公共とか道徳とかに関する考え方についても。

ワクチン接種したらキャッシュバックってアイデアはどうなのかな

NICUで夕方の回診後にだべってて思いついたんだが、ワクチンの接種をさらに推進する方策として、ワクチン接種時に500円とか1000円とか、親御さんにキャッシュバックってのはどうかなと思った。思いついただけであんまり深い検討はしていないんだけど、我ながら意外によい着想なんじゃないかという気がする。
良識的には、ワクチン接種の結果として子が感染症への抵抗力を得るってのが、親にとってのワクチンのメリットで、それ以上の現世的なメリットを求めるのはあんまり上品なことではないはずなのだが、しかし、そういう理屈が通らない親御さんもたぶんあって、そういうところの子ももれなくワクチンを接種しなければ、ある一線で接種率は頭打ちになるんじゃないかと思うのだ。たとえば麻疹の根絶に必要とされる、95%以上という数字はまず達成できないんじゃないかと思う。
そんなことに予算を回すのかとおかんむりの向きもあるかもしれないが、すでに麻疹の接種1回に9000円強の予算が行政と病院の間で動いているはずなので、キャッシュバック分をもうちょっと足すとかして親御さんに回せば、さらっとこの95%が達成されちゃったりして費用対効果も大きいんじゃないかと思った。そう思うのは私が世の親御さんの品性を見下しているってことなんだろうか。あるいは臨時に行われている中学生高校生への麻疹風疹混合ワクチン接種も、なかなか接種率が上がらなくて関係者は難渋しているが、ひとり500円出してやれば一気に解決ってことはないかな。
なにさま、個人の良識と自己責任の理屈にばかり頼っていては、公衆衛生の悲願である麻疹の根絶はなかなか果たせないように思う。他の課題に関しても、たぶん公衆衛生っていう分野は、世に思われている以上に泥臭い分野なんじゃないかとも思うし。どれほど正当な道理を説いても言うことを聞かない人らに、言うことを聞かない君らの自己責任と言ってしまっては、たぶん成り立たないのがこの分野なんじゃないかな。
そう書いてて新約聖書の放蕩息子の話を思い出したのだが、キリスト教的にそれは正しいのかどうか。これがこの放蕩息子の話の正しい理解だったとしたら、キリスト教圏では公衆衛生の活動は理解がされやすいのかもなと思った。
そのキャッシュバック500円のうち200円くらいは病院の取り分から出してもいいよってのが、小児科医の良識かとも思うが、それは経営に関して脳天気な立場に居るから言えるきれい事かもね。キャッシュバックの額で病院どうし患者さんを取り合うようなお話になっても下品だし。

OFFなのに雨

今日は当直でも待機番でもなく、一日自由に使える日なのに雨。
ロードを買って以来、クロスバイクは主に図書館とか大学とかへ行くときの街乗り用になっているのだが、今日は久々に手入れをする。チェーンを洗って油をさすだけのつもりだったのだが、よくみればディレイラーもスプロケットもブレーキも泥だらけだったのでけっきょく大掃除になった。ワコーズのブレーキパーツクリーナーを吹き付けてはブラシでこすり、ウエスで拭き取る。今度晴れたら図書館へ行くのが楽しみ。
娘の友達があそびに来ていた。昨夜はそれとなく、明日天気になったらいいねとか言ってたが、たぶん自転車に乗ってどっか行っててくれということなんだろうなと思った。娘にとっても今日の雨はうっとうしい雨だった模様。来た友達はいつもきちんと挨拶のできる子で、こういう子もいるのになんで最近の若い子は云々と腐されなければならないのだろうと思う。
昨夜は古田織部に関するNHKの番組を観た。NICUも茶室のように、すみずみまで配慮を巡らして、五感の全てにつくして赤ちゃんを迎えるような整え方ができないかなと思った。

乏しいリソースを分配する

「発展」と「アフリカ」 – 過ぎ去ろうとしない過去
この秋から冬にかけてのインフルエンザワクチン接種で、医薬品が足りないという状況を経験した。金を出しても正当性を訴えても医薬品が手に入らないというのは初めての経験だった(神戸の震災の時も同じような状況があったのだろうが遺憾ながら記憶にない)。
リソースが足りない状況での人間の行動というのは浅ましいものだとつくづく思った。それでも私の患者さんは、お子さんは現状でワクチンの優先枠に入るほどの重症ではありませんと申し上げたら聞き入れてくださる方ばかりで、ありがたいことだった。しかし目を外に転じれば、昔の人はこういう状況を餓鬼道にたとえたのではなかろうかとさえ思える言動に接することも再々で、いろいろと考えさせられた。
ワクチンひとつ足りないだけでこれだよという記憶の新しい身で、トラックバック先のアフリカのこと(さらにその言及先のエントリまで)を拝読したのだが、やっぱり腹のふくれた人間は腹の減った人間のお作法についてあんまり居丈高なことを言っちゃいけないなと思った。腹のふくれた人間自身、いざ腹が減ったのに食料が手に入らないという状況になってみれば、どういう行動に出るか知れたものではない。と、今回の新型インフルエンザワクチン配給と接種の過程で学んだ。

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草食系男子という概念には自然科学的な妥当性があるんだろうか

草食系男子なる概念について書かれた書籍を読んで、妻と娘が、これってお父さんのことだよねと言って笑っていた。
私の個人的評価に関しては局所的な話だからまあどうでもいいとして、いったいこの草食系男子なる比喩表現を用いた人々の中に、草食獣というのがどれほど獰猛で扱いにくいものかご存じな人っているんだろうかと思った。草原でおとなしく草を喰ってる従順で無害なやつらと思っておられるのなら、かなり科学的事実とは異なるんじゃないかと思うのだが。どうだろうか。
なにさま、世界にいま飼われている家畜には、みごとに、アフリカ原産ってのが居ないでしょうよ、と、娘相手にジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の受け売りをしてみる。どうやっても飼い慣らせなかったってことなんだからね、と。父親をどう思うかに関しては、まあそれなりに相手してくれてればいいと思ってるけど、自然科学的な観測にもとづかない空想上の比喩を使うような言説のありかたを見習ってもらっては、いちおう理系のつもりの父としては心外なのだ。

朝青龍引退

かねてよりファンの末席に連なってきた者として、朝青龍の引退は衝撃であった。力士の力はただ事ではないから、力士ではない者への暴力沙汰というのはいかにも致命的で、さすがに引退は仕方ないかなとは思う。ただその事実関係の経緯については詳細不明にて何とも。かの第60代横綱双羽黒の引退の騒ぎも、今にして振り返れば双羽黒側にずいぶん不当な経緯だったと聞くし。
けっきょく本人も師匠も周囲も彼の強さを扱いかねていたんだろうと思う。人智を超えて神から授かったとしか思えないような理不尽な強さであった。ただ強いと言うだけで横綱になった、たいへんシンプルな横綱であったと思う。今後も、史上最強の横綱は誰という話題になったら、かならず彼の名前が挙がると思う。
そのシンプルさ故に私は朝青龍が好きだった。弱いんだけど頑張ってますみたいな判官贔屓の必要な強さではなく、本当に彼は強かった。白鵬もかわいそうに、これからいくら頑張っても、ここに朝青龍が居ればという呪詛から逃れることはできない。居ない人は倒せない。
ただその強さを誰も(本人すら)コントロール下に置けなかった。それをコントロールしようと口喧しかった人の職業が脚本家だったというのもなにか象徴的な話だったと思う。彼女は自分の脚本みたいに彼を操りたかったんだと思う。ただ彼女には気の毒だが、彼女が脚本を書いたドラマに、朝青龍が活躍した大相撲ほどにおもしろい作品をひとつも思い出せない。たぶん彼女はその作品に寄らず、朝青龍の天敵として、後世の記憶に残るんだろうと思う。
それをコントロールしようとして、土俵での仕草がどうだとか左利きなのがどうだとかいったあれこれの、およそ大人が大人に対して言うこととは思えないハラスメント的なご指導が幾たびもなされた。それは朝青龍が他の意見に耳を貸さないことに言い訳するネタを与える以上の意義を持たなかった。逆に、彼が再々に渡って稽古場でライバルを負傷させてきたとする醜聞に誰か何か言ったか?と問いたい。何か言うならそこに言えよと思う。それを指導できない相撲界には指導できないだけの事情があるんだろうけれど。いったい大相撲の歴史を振り返って、朝青龍に石を投げて追放できるほど美しいありかたであったか?
なにさま、神が与える力士の強さすらコントロールのもとに置きたがる性根が、ひどく嫌らしいものに思える。人智を超えたものにたいする畏敬の念のなさ。まさにそれを象徴したのが、朝青龍の優勝をまぐれと断じた、かの女性脚本家の態度であった。自分に理解可能な範囲を超えたことを矮小化して片付けようとする態度。いったい国技に対する敬意があるのかと彼女にこそ問うてみたかった。
一頃盛んであった医療バッシングにも通じるものを感じて、朝青龍の攻撃され方には他人事ではないものを感じる。死こそまさにコントロール下に置けないものの代表なのだと思うが、それすらを尊厳死とか何とか言ってコントロールしようとし、予期しない死には医師の訴追を持って報いる、その同じ考え方が朝青龍の強さを許容しなかったのだと思う。
がんばれ朝青龍