死が一瞬のものではないということについて

冬の極北からの知らせ Life in the North
文化によっては死が一瞬のものではないということを、脳死云々の議論で読んではいたが20年来よくわからなかった。この記事を読んで、なにか眼が開いたような気がした。引用元に綾をつけるようで恐縮だが、書き留めさせていただくことにした。
こういうおばあちゃんが亡くなったという知らせは、こういうおばあちゃんがお住まいだった土地ではなかなか即時には伝わらないものじゃなかったかと思った。アラスカなんて行ったこともないので想像だけで(星野道夫さんとか野田知佑さんとかの著書で読みあさったことも参考にして)申してますが。なにさま、どこそこの村にどういうおばあちゃんが住んでいると、ときどき思い出しては、その人徳のおかげで思い出した人の幸せ度がちょっと上がる(たとえばファイナルファンタジーとかで白魔導士が「祈る」コマンドを一回実行したくらいのコストなしの小回復が得られる)みたいなおばあちゃんがあって、連絡をとろうにも物理的にはそうとう遠隔だからそう簡単には連絡がつかない、便りの返事も数週間とか数ヶ月とかのようなところに住んでおられて、そういうおばあちゃんなら、亡くなったと聞くその瞬間まで聞く人にとってはまだ生きておられるんじゃないかと思った。そうして時をおいて聞く訃報には、即時に伝わるニュースの生々しさはなくて、伝わった時点である程度枯れた感じがするようになっていて、ああ亡くなったかと淡々と受け止められる感じになっているんじゃないかとも思った。そういう訃報に接したときの受け止められかたは、その瞬間に全く100%生きていた人がある瞬間からすぱーんと100%の死に移行するんじゃなくて、生と死のあわいの霞のかかったような領域でやんわりと「どっちかといえば生」みたいな領域から、「どっちかと言えば死」みたいな領域へ移っていくんじゃないかと。その二つの領域の差はそんなにどぎついものではなくて、受け取る側がやんわりとその知らせを受け止めて消化するのを待ってくれるようなものではないかと。
そういう人なら、亡くなった後で思い出しても、そんなに痛切な心の痛みはなくて、それなりに暖かく思い出されて、思い出されるうちにもだんだんと遠くなっていかれて、そのうちにみんなの心の中でその人の死が納得される、そうなるまでその人は完全には死んでいないというか。物理的な遠隔さの故に亡くなったという情報が即時性・同時性をもって共有されない、それ故に残された人にとって、人はだんだんと死んでいくものではないかと。昔はみんなそうだったんじゃないかとも思う。
仏教の知識はあんまりないけど、「成仏」というのはかなりこれに近い感じの概念じゃないかと思うのだが。
などと勝手な思考をくだくだ述べた後で恐縮ながら、これも何かの縁と思い、エディスおばあちゃんのご冥福を、お祈りさせていただきます。